『MAGICAL WORLD』鬼束ちひろ を聴いて

HP作り、なかなか進みません。6月中の完成を目指してますが、どうなるかな~。

PCに向かいながら、作業中に聴いていたのが、鬼束ちひろさんの『MAGICAL WORLD』です。ゆっくりとしたテンポの、穏やかな曲。聴いているうちに、だんだん鬼束さんの世界に引き込まれていきます。

『月光』をかいたのと同じ人が、この曲を書いたのだとは思えないです。『月光』は、棘を感じる曲だと思ってました。全身を鎧で固めて、猫みたいにフーって唸りながら警戒してる感じ。全然信用してない瞳に、射すくめられるような。

対するこの『MAGICAL WORLD』はすごく、弛緩のイメージがあって。ゆるーく進んでいく道を想像します。。いろいろあって、ここにいます、的な女性が、寂しく笑ってる感じがする曲です。

わかりあえないもどかしさが伝わってきますね。

想像ですけど。この女性の目の前に、好きな人が座っててですね。なにかの話の途中で、小さく笑うんです。もうね、胸がキュンとするような、女性にとってはものすごく破壊力のある笑顔なわけですよ。
でもね、その人はその瞬間、その女性には入りこめない、過去に思いを馳せてしまっていて。

女性にはそれがわかっちゃうんです。
それで激しく過去に嫉妬するんだけど。でもどうしようもないですね。なんだそりゃって話ですもんね。例えばこんな、です。

☆今なに考えてた?
☆ん? 別に、なにも。
☆教えてよ。
☆なんだよ、なんにも考えてないって。

うわー、恐るべし痴話喧嘩って感じですけども。
二人で勝手にやっとれ!という突っ込みをいれつつも、なんかこういう瞬間の寂しさみたいなものには、共感を感じてしまうのであります。

その人の目を、一瞬走った懐かしい光。ああ、私の知らない過去を振り返ってるんだなあって。それで、当たり前だけど、その景色の中に自分はいなくて。これからだって、そこに自分の居場所なんてないわけです。だって過去だから(笑)

その人が回想する、自分のいない世界、というのは。入りこめないだけに、美化されて、とてつもなく甘美で。

女性は思うのではないでしょうか。
私じゃない誰かが、やっぱりこの人の横顔を眺めていた時間があったんだろうなあって。
綺麗だなあって思いながら、愛しさで胸がいっぱいになりながら。

その人の指は、この人の頬に触れたのかな。そしたら彼は、どんな顔して振り返ったんだろう、なんて。突然のことに驚いて。照れながら? 少し嬉しそうに?

誰かを好きになっても、その人の過去をすべて、自分のものにすることはとても難しい。その人と同化したいと思っても、いったいどうしたらそんなことが、可能になるんだろうか、なんて、狂おしく答えを探してみたり。

結局、人を動かすものって、優しさ、温かさ、真心ではないかと。

外力では変えられないです。
心だけは、自由なものだから。圧力で偽りの言葉を吐かせても、心だけは取り出すことができないから。何を思おうと、どう考えようと、それは自由なわけです。

私が今でも強烈に覚えている瞬間があるんですが。
昔、優しい言葉をかけられたときに、こらえていたものが決壊して号泣したことを。その瞬間の、「優しい言葉のほうが、気持ちに深く突き刺さるんだ」という新鮮な驚きのようなもの、その衝撃は、今も心に残っています。

人前で泣くほど、恥ずかしいことはありません。なのに、単純な優しい言葉を、ほんの少し聞いただけで。そのときの私はあっけなく、泣いてしまった(^^;

泣かせようとする圧力には、どれだけでも抵抗しようと思っていたのに。その自信もあったのに。

優しさの前には、どんな鉄壁を築こうとも、無駄なんですね。本当に真摯にその人を思えば、その気持ちが通じないはずはない。届かないはずはない。

温かさには敵わないです。

私の勝手な想像ですが。この曲の主人公は、絶望的な片思いをしてるんではないかと。だから、寂しいんだと思います。

少しでも可能性があれば、自然と、良い方へ良い方へ解釈しますからね。その可能性を、強引にでも探っていくのが恋愛の常。普通なら、楽しいですもん。想うだけで。その人のことを考えるだけで。

だから、想うだけで寂しさがこみあげるような恋愛は、もしそれが片思いでないなら、たとえ両思いでも決して結ばれることがないとわかっているケースではないでしょうか。

終わりの見えている関係なら、寂しいという感情しかわかないかもしれません。自分の気持ちすべてが、いつか消えるしかない、無駄にしかならないとわかっているからです。
それでもどうしようもなく、愛しさがこみあげて、その人のことを考えてしまう・・・そういう状況なのかなあ、この曲。

やめとけやめとけ、と傍観者の私は思います。 近付けばそれだけ、別れがつらくなるものです。それがわかってて、どうしてキスを欲しがるんだか、そして自分もするんだかって話ですよ。

ひとのように振舞えないっていうのは、私じゃなければ幸せになれるのに、ごめんねってことですかね。拡大解釈すぎるか? それでも絶望的に、キスしたいのか。不幸になるの、わかってて。

穏やかな曲ですが、その果てにあるものは、「独りでの旅立ち」のように思いました。

この世界はいったいなんなんでしょうね。すべては夢のようでもあり。気がついたらここにいた。証明もできなければ、説明もできない。でも毎日が過ぎてる。過去もあり、今もあり、未来もある。

ああ、本当に世界って、なんだろう。とか。夜中に考え出すと果てがないので、もう寝ます(^^;

『オペラ座の怪人』ラストシーンの解釈

アンドリュー・ロイド・ウェバー『オペラ座の怪人』のラストシーン。原詩と訳詞の違いについて、今日初めて気付いたことがあるので、語りたいと思います。ネタバレも含んでおりますので、舞台や映画など未見の方はご注意ください。

『オペラ座の怪人』は、ファントムのこんな言葉で、幕が下ります。

>You alone can make my song take flight
>it’s over now, the music of the night

(直訳:君だけが、私の歌をはばたかせることができる。今終わった、音楽の夜)

※この直訳は私が勝手に書いたものです。参考まで。

私は以前のブログでも書いたように、この原詩より、下記の劇団四季訳詞の方が好きです。

>我が愛は終わりぬ
>夜の調べとともに

この日本語訳だと、You alone can make my song take flight(直訳: 君だけが私の歌をはばたかせることができる)の部分は全く訳されていないのですが、私はそれを全然気にしていませんでした。この部分に、全く必要性を感じていなかったのです。
だからこれまで、日本語訳でそれが抜けても全然オッケーという気分だったのですが、今週、オペラ座ファンのSさんからメールをいただき、あらためて考えました。

Sさんは、この一文は「決して省略してはいけない重要な言葉」だとおっしゃいました。

それで、もう一度この英語を何度も反芻するうちに、はっと閃いたことがありまして。

これ、たぶんラストシーンのファントムの心情をどう捉えるかによって、言葉が変わってくるんじゃないのかなあと。

あの最後の場面で。

わずかに残った希望の糸。
ファントムはそれでも、クリスティーヌに敢えて告白しますよね。

Christine, I love you と。

指輪を返して去っていくクリスティーヌ。
私がもしファントムの立場であったなら・・・・。

私の中で、クリスティーヌは消えます、ハイ。その瞬間。

たぶん、自分の中の世界が壊れる、と思うんですよ。彼女とのいろいろも、すべて色を失うというか、過去になるというか。
あ、もちろんクリスティーヌを責めてるとか失望するとかじゃなくてね。あー、全部終わった。というかそも自分がクリスティーヌに抱いた感情そのものが、間違いだったんじゃないかなあっていう。

なんて愚かなことをしてしまったんだろう。
身の程も知らずに。
最初から最後まで全部、間違いだった。
クリスティーヌに愛されようなどと。共に暮らそうなどと、夢見たことは間違っていた。

壁から剥がれ落ちたタイル。
1枚、2枚程度なら、拾い上げて修復するでしょう。

でもそれが、ボロボロと際限なく落ちてきて、もはや残ってるタイルなんて無きに等しい状況になれば。

もう修復とかいうレベルじゃなくなって。
その壁はもう、諦めるしかなくて。
そしたらむしろ、それを壊したくなりませんか?

大切なお気に入りの壁。ボロボロと崩れるタイルを、必死で拾い上げ、なんとか元に戻そうと努力を続けたその後で、「もう絶対に無理」なほどに、その壁が崩壊したなら。

むしろ、そこに僅かに残ったタイルを自分の手で剥がす、という暴挙に出てしまいそうなんです。自虐といってもいいような、乱暴な感情。

タイルが落ちるたび、痛くて痛くてたまらなかったのに。もう一線を越えたら、開き直ってむしろ、自分の手で壊したくなるという皮肉。

中途半端なくらいなら、むしろこの手で全部なくして、そのなんにもなくなった空間で深呼吸したい、みたいな思い。

私はオペラ座のラストを、そんなふうに捉えてました。

安全地帯の初期の曲に、『デリカシー』というのがあります。その一節が、この場面にはふさわしいかもです。

>こわれすぎて いい気持ちにも
>なれそうだから

この曲、初めて聴いたときから妙に印象に残っていて。

絶望の向こうにある、妙な明るさ、みたいなもの。
ある一点を越えたら、もうどうでもよくなって。
それは、事態が好転したとかそういうことでは全くないんですけど、自分の中で、今まで悩んでたことがもうどうでもよくなって、むしろ今までの痛みがある種の快感に代わる瞬間というか。

この『デリカシー』という曲の歌詞、全体を見るとまた、印象が違うんですけどね。私はこの、上記の一節だけが妙に頭に残ってまして。

苦悩の果ての、転換点というのでしょうか。
つきつめてつきつめて、ガラっと変わる瞬間を表すのに、言い得て妙な一節だなあと思ってました。壊れ過ぎて、逆にいい気持ちになるって、皮肉すぎる(^^;

2004年にアメリカで製作された映画版の『オペラ座の怪人』。この映画版のラストが、まさにこれだと思うんですよね。鏡を、どんどん自分で割っていくじゃないですか。
あれ、ファントムの世界が崩壊する、心が粉々になるのをそのまま絵で表していて、すごいなあと思いました。私が想像するファントムの内面って、まさにあんな感じだったから。

想像するに、あのときファントムの中で、クリスティーヌの存在はかなり、薄くて。
もう全部、過去のものなんです。
あそこにあるのは、残っているのはただ、ファントムの内面世界。その世界を自ら、バリバリと凶暴に破壊していく。跳ねたガラスの破片が、恐らくいろんなところに飛び散って、血も流れるんでしょうけど。その痛さなんてもう感じないくらいに、根本的なところからもう、崩れて、なくなっていく、絶望感が、至福に変わる。

それでちょっと、もう狂っちゃってるんですよね。痛みを幸福と認識してしまうくらいに。あのとき流れる壮大な音楽は、もう天空のメロディで。むしろ幸せ~、これ以上ないくらいの幸福感。

アハハ~アハハ~と、頭の上に蝶々が舞ってる。
何もかもどうでもよくなってる。
ただ壊すのが、楽しくて楽しくて。全部なくなってしまえばどんなに素敵だろうと、破壊衝動に突き動かされて。

クリスティーヌという、平凡な少女(決して歌は天才的ではなかったと思う)に抱いた、ごくごく当たり前の、普通の恋愛感情が。あのラストでは、個人的な生生しさからむしろ、神々しいような、圧倒的な広い深い、歓喜の波に変わるような気がして。

正しいのか正しくないのか、とか、これは現実なのだろうかとか、夢なのだろうかとか。
もはやそういう次元をすっ飛ばして、その先にある境地。

許容範囲を越えたことによる、人間の本能的な防御反応なのかもしれません。このままでは耐えられない、と判断したからこそ、その楽園のような境地に達するという・・・・。

鏡をガンガン、気持ちがいいほど叩き割っていくファントムの姿。
やっと楽になれたのかもしれないって。

と。こういう解釈の仕方をすると、あの

>You alone can make my song
take flight

という部分は、あんまり重要じゃなくなってくるんですよね。
もう、ファントムにとってクリスティーヌのことは過去になってしまっているから。うーん過去というのも、微妙に違う・・・忘れたわけじゃないけど、もはやそこにポイントが置かれていない、気がするのです。

クリスティーヌというのが、唯一無二の存在ではなくなっていて。クリスティーヌは、ひとつの象徴だったというか。ファントムにとって、救いを求めた、救いを得られると思った、淡い期待を抱いた、そんな相手として。
そこにはクリスティーヌの個性はもうなくて、偶像みたいなものがぼんやりと残っているような。

駄目だったなあ。結局なにも残らなかった。夢をみただけ。ハハハ、全部壊してしまえ~。ああ、この世界はなんて、脆いんだろう。みたいな。

この時。ファントム目線で見ると、そこにあるのはファントムの内面世界だけで。クリスティーヌはもはや、「こんな自分でも愛してくれると思った偶像の幻影」でしかなくなっているような。
もう、クリスティーヌとファントムを結ぶ絆、切れちゃってると思うんです。これはファントムが切ったんではなくて、あの指輪を返された瞬間に、自然消滅しているような。

私はそんな解釈をしたので、上記の英語が劇団四季訳で省略されていても、全然気にならなかったのです。

でも、そもそもラストの大事なシーンにこの

>You alone can make my song take flight

という言葉が入っていたということは。これは元々、この時点での、ファントムからクリスティーヌへの変わらぬ熱情を表しているのではないかと、今になって初めて気付いたのです。

そうか~と。それでやっと理解できたのです。過去形の could ではなく、現在形 can を使っている理由。

今も変わらず、強い思いを抱いているからなのですね。ファントムはクリスティーヌに対して。
そりゃもう、クリスティーヌには決定的にお断りされているわけですから、これ以上なにを望むとかはないんですけども。
ただ一方的に。見返りを求めず。
胸から勝手にあふれだす思いを、ファントムはクリスティーヌに捧げてるんだなあ。

わかってるけど。自分を選んではくれないことは重々承知の上で。それでも思いだけは、クリスティーヌの元に飛んで行ってしまっているわけです。決定的な破局を、思い知った後でさえも。だから現在形で訴えているんだ。今も変わらず、(おそらくこの先もずっと)、君だけが私の音楽の天使。君でなければ、私の音楽は翼をもたないと。

あのラストの時点で。

1.ファントムはもう、崩壊している。もうこの世界の何物をも、彼にとっては意味を持たない。

2.ファントムの気持ちは、クリスティーヌの選択に関わらず常に彼女の元にあり、そしてこれからもあり続ける。彼が彼である限り、ファントムはクリスティーヌを愛し続ける。

この2つの考え方があって、それによって

>You alone can make my song take flight

という言葉の重要性が変わってくるんですね・・・きっと。
私は1の解釈だったんで、2のような考え方は新鮮でした。

これ、英語詩は2の解釈で書かれてると思います。1の解釈だったら、きっと could になってたはず。
それでもって、劇団四季の訳者の方は、1の解釈をされたのではないでしょうか。

だからこそ、敢えて

>You alone can make my song take flight

上記の訳を抜かして、日本語訳を作り上げたのではないかと、そんなふうに想像してしまいました。

日本語と英語の字数の違いとか、そういうものもあるかもしれませんが、ここ、最大の見せ場ですもんね。2の解釈であれば、原詩の一文をまるまる抜かす、ということはなかったと思います。なんとかして、その一部の訳だけでも、日本語に変換していたはずです。

私は最初から1のように考えてファントムに感情移入してたんですが、一般的にはどちらの捉え方が主流なんだろう?
1派か2派か。
国によっても、それは違ってくるんでしょうか。

『オペラ座の怪人』、深いですね。想像がいろいろふくらんでいきます。

『そして僕は、途方に暮れる』大澤誉志幸

大澤誉志幸さんの『そして僕は、途方に暮れる』を聴いています。

淡々としたメロディーと歌詞が良く合っていて、しんみりした気持ちになりますね。

虚無感が、短い言葉からひしひしと伝わってくる感じで。

怒りというより、悲しみというより、虚脱のイメージ。

白い部屋で、ぼーっと足を投げ出して壁にもたれて。

ただ時間が過ぎるのを感じている、そんな絵が浮かびます。

言葉がすごく、気になる。何度も何度も、反芻してしまう。

そういうことって可能なのか?という疑問と、それなら確かに、世界はバラ色になるなあっていう期待みたいなものと。

独特な世界観。

ちょっとその発想、ドキドキするのです。

どんな気持ちで言ってるんだろう、と想像してみたり。

どういう、別れの状況なんでしょうね。

出て行った人の背中が、あんまり寂しそうで、悲しませたことを詫びる気持ちがあり。つらい思いをさせた年月を思い出して、だから明るい未来をその人に願うのか?

そこにはちょっぴり、投げやりな気持ちも、それから彼女に対する、意地悪な気持ちも感じてしまう。

君が描く理想世界なんて、どこにもない。

できるというなら、やってみればいい。

きっとそのときに、僕との生活を懐かしく思い出すだろうよ。

こんなことを思っていそうなのです。

だとしたら・・・意地悪だな(^^;

でも、そういう強がりを言ってる本人の痛み、みたいなものも伝わってきて。この人も無傷じゃないんだろうなあっていう。

呼吸するたびに胸が痛くて、その人の不在がこれから永久に続くんだと思うと耐えられなくて、その一呼吸ごとが、すごく胸に響いて。

大丈夫かな?と思うんだけども、大丈夫もなにも、ただそうしているしかない、乗り越えるしかない、せめて別れ際には優しい言葉をって。そう思った、残される側の人間が搾り出した、最後の優しい言葉。別れのメッセージのような。

切れた絆を、いなくなった静寂で確かめて。

まるで自嘲するみたいに呟いて。

本当はこれ、出て行く人の背中にかけた言葉じゃないのかもしれないと、そう思います。

誰もいなくなったときに、自分自身に呟いたのかも。

本当に出て行くときには、言葉にすることさえできなくて。黙って見送るしか、できなかったのかも、と想像しました。

曲が、変に盛り上がらないところもいいんですよね。

ただ、流されていく感じで。ドラマチックな出来事なんてなにもない。

ふっと、居るべき人がいなくなってしまった日。不意に空白ができた、というその事実だけを、ありのまま受けとめているようで。

さりげなさが、胸を打つ曲です。

『マスカレード』安全地帯

玉置浩二さんが、青田典子さんと熱愛だそうです。そして石原真理さんが、怒っているみたいです(^^;

『マスカレード』を聴きたくなって、このところずっと、そればかり聴いていました。

これを聴くと、当時の石原真理子さんの姿が蘇るのです。あの不倫会見、涙を流しながら、ひるむことなく報道のカメラの前に立っていましたね。とても印象的で、そのときの映像が心に残っていました。

この曲、あの会見のときの石原さんのイメージに、そのまま重なるんです。

強そうで、でも悲しみをいっぱい抱えてて。気丈に見えても、繊細さが透けて見えて。そしてなにより、薔薇みたいに綺麗な人だったから。

バラかあ、と、あのときの映像を幾度も、思い返していました。大人に見えても、石原さんはまだ二十代前半。穏やかな恋愛ではなく、周りを傷つけ自分たちも苦しんで、だけどその恋愛が、あの頃の安全地帯の名曲を生み出したのかなあと。

映像ではなくて、そこに背景や物語を感じるのです。

薔薇の嘘は、身を守るとげにすらならない。薔薇を見守るその人は、薔薇が弱ったところに甘い言葉を囁いたような。

自分の胸に飛び込んだら、破滅しかないよと、暗示しているんですかね。それでもおいでと誘っている。そこには十分な自信を感じます。

逆らえないのをわかっていて、おいでって言う。

相手の心が自分にあることを、十分わかっているから断られることなんて想像もしてない。

薔薇の大好きなその目で、じーっとみつめて、おいでって言う。ただし、選択はあくまで薔薇の自由意志。決して無理強いはしない。

不幸をわかってて、それでも薔薇はふらふら、歩いて行ってしまうんだろうな。

それを見て、ちょっとだけ皮肉に笑う人の姿まで、イメージできてしまう。

皮肉な微笑。やっぱりね、ほら思った通りっていう。

おいでって言ったくせに、薔薇が来ても別に、嬉しそうな顔もしないし。

この曲、結構サディスティックな香りがします・・・(^^;

それでもって、タイトルはマスカレード。うーん。意味深ですねえ。

薔薇がつく嘘は、そのまま仮面であり、それによって身を守ろうとしたんでしょうか。傷つかないように。薄いバリアの仮面があれば、むきだしの自分を見せなくていいから。

この冒頭から、気がつけばもう、安全地帯ワールドにどっぷりです。

この入り方って、気付いたときにはもう遅い、その独特な異世界に迷い込んじゃってた、みたいな感じなんですよね。扉は背後で、音もなく閉まり。帰る道はもう、失われてしまって。そのまま歌の描く世界に引き込まれてく。

その人は。自分の知らない世界に心が飛んじゃってる人を、綺麗だなあってみつめてる。そしてその人と同じものを、自分も見たいと願っている。

実際にはその人のいた場所には、行けるはずもなくて、ただ想像することしかできないもどかしさ。好きになれば、全部を共有したくなりますからね。

過去を指すのかなあと思いました。

辿ってきた過去の、ある一場面。そこに思いをはせているのかなあと。体はそのまま、魂がトリップしちゃってるみたいな。

今、回想するその人の横顔をみつめながら。その人の目の前にある景色を、自分も一緒に共有したいという、強い思いを感じるのです。

ドラマ『WITH LOVE』感想 その2

ドラマ『WITH LOVE』感想 その2です。
思いきりネタバレしていますので、未見の方はご注意ください。
感想その1はこちらです。

私が『with love』で忘れられないシーンて、長谷川天が川辺で佳織にキスする場面だったりする。

キスした後に、天が佳織をじーっとみつめるんだけど、その、心の奥まで見通すような目が、とても印象的で。

佳織は、寂しい目をするんだよね。
好きな相手に、心のこもったキスをしてもらったんだけど、その思いやりがわかるだけに傷ついた目をするんだ。
ああ、そうなのねって。私のことを大事に思ってくれているけど、それは恋じゃないんだねって。
どんな言葉より、それを深く理解してしまった目をするんだ。

対する天は。
純粋に、問いかけるような目だったり。
望んでいたものはこれだろ? これで満足?みたいな。
皮肉じゃなくてね、本当に天は、佳織のことを思って、自分にできる精一杯のことをしたって感じなんだよね。
それで、佳織の反応をみてる。
でもそれは、好きな相手にみせる表情じゃ、ないんだよなあ。

同時に、訝しげな表情でもある。
佳織のためにしたキスなのに、佳織はちっとも嬉しくなさそうだし、むしろ泣きそうなんだもの。
どういうこと? 何で? 天は佳織の反応が理解できなくて、戸惑う。

そして、もう一つ忘れがたい場面が。

それは吉田さんの台詞。
「雨音さんと一緒にいるのはつらいです。雨音さんもつらいでしょ?」

吉田さんのそれまでの行為は、見ている私には理解できず不気味に思えることばかりだったけど、
初めて吉田さんに共感してしまった。
ああ、すっごい常識的なこと言ってるよ、という。

自分のことを全然好きになってくれない相手。
しかも、他の誰かをずっと心に秘めていて、その誰かは自分の知ってる相手で。
この状況下で、「でも、結婚したもの勝ちだもんねー、へへっ」と
勝ち誇っていられるのはよほど、能天気というか幸せな人なのだと思います。

吉田さんの発した言葉に相当する状況って、意外にありがちなものなのかもしれない。

一方がすごく無理をしていて。そういうときって、たいていその相手も
つらい思いをしていたりする。なのに二人は、
それぞれに「がんばらなきゃ」って妙な使命感に燃えたりして。
でも、一緒にいても、先のない相手なら。
早く別れたほうがお互いのためなんだよね。

割れて、ボロボロ破片の落ちる花瓶を、二人して拾ってる感じ。
いくら拾ったってきりがないのに。苦しくて、苦しくて、それでも
その花瓶がきれいだった時のことを、忘れられなくて。

一緒に居て苦しくなったら、もう終わりなんだと思う。
吉田さん、最後だけは、常識人です(^^;

途中の行為は、目に余りましたけど。
病気で弱ってる雨音の部屋に上がりこむわ、勝手にPC立ち上げてメール見るわ、hataさんに成りすますわ。
そりゃーやっちゃいかんだろうってこと、てんこもりでした。
そうまでして雨音に執着したので、よほど最後はドロドロになるのかと思いきや、
意外とあっさり、天に譲ったのね・・・。

うーん、でもでも。

私は以前にも書いたように、どうも天の、雨音に対する愛情には疑問を持っていて。
画面から伝わってくるものには、困惑というか、違和感がぬぐえなくて。

これは演出なのか、それとも演じてる竹野内さんの素が出ちゃってるのか。
本人に聞いてみたい気分です。
ぶっちゃけ、竹野内さんは雨音を好きでしたか?って。
きっと、好きじゃなかったんだろうなあ、たぶん。と
私は勝手にそう思っております。

雨音と相対したときにね。どうしても、あれ、なんかちょっと違う・・かも。
みたいなものを感じてしまうのですよ。
天が感じた違和感のようなものを、見ている私も共有してしまうような。
天は天なりに、てるてる坊主さんに対するイメージをふくらませていたと思うのですが。
きっとそれは・・・雨音とは違うタイプの女性だったのではないかと。

そんなことを思ったりしました。