『Elysion ~楽園パレードへようこそ~』 Sound Horizon

2005年に行われた、sound horizonのライブ映像を見た。

すごいものを見てしまった(^^;

3つの才能が集合して、素晴らしい作品を作り上げてる。

まずなにより、作詞・作曲を手がけるREVO(レヴォ)さん。

そして、ヴォーカルとナレーションを担当するaramary(あらまり)さん。

最後に、演出担当のスクリーミング・マッド・ジョージさん。

もちろん、他にもJimang(じまんぐ)さんとか、楽団のみなさんとか、舞台を支える皆さんがいるのだが、前述の3つの才能が合わさって大変なことになってます。

この世界、好きだなあと思った。ライブというより、ミュージカルを見ている感じ? 曲の合間、合間にナレーションが入る。多彩な音。意味深な言葉。

あっという間に、幻想の世界へ引き込まれました。

1つ1つの曲は独立してるんだけど、実はそれが全部つながっているようで・・・。全部が合わさったとき、まるでファンタジー小説のような世界が広がるのです。

解釈については、見た人の数だけいろいろあると思いますが、私なりに感じたことを書いていきます。

なんだかこの音楽聴いていると、小説が書きたくなりますね。

これは、楽園を求める人間の業を歌った、長い輪廻の物語だと思いました。

すべての始まりは、『エルの肖像』だという気がします。少年は、深い森の中。廃屋にある、白い少女の肖像画を見て魅入られてしまうのです。

ライブの中で、あらまりさんが歌い上げると同時に、紗幕がさーっと上がり、演奏陣が前へ。フルートが響き渡って、鳥肌が立ちました。場の空気が、一気に盛り上がります。

少年が肖像画の少女に恋をして、壮大な旅が始まるのです。

なにが起こるんだろうというワクワク感で、胸がいっぱいになります。このときのあらまりさんの衣装が素敵。中世の村娘風の、コルセットとスカート。

メイクもいけてます。この、衣装とメイクのセンスがいいですね。マッド・ジョージさんいい仕事してるなあと思いました。

彼はハリウッドでは有名なSFX(特殊効果)アーティストなのですよね。実は今まで苦手だったんですけども。刺激的な作品が多すぎて・・・。でもこのライブの細部にまで渡る、マッド・ジョージさんの世界観は偉大です。

マッド・ジョージさんは『エルの楽園 side A』でも黒子として、妖精の人形を動かしてました。この人形がまた、いい味出してます。

楽園で泣く人などいないというエルの話を聞いてあげる妖精。天使を模しているのでしょうか?でも顔はグレムリン(^^;

そのギャップがなんとも言えません。醜悪な顔のグレムリンが、軽やかな天上の調べに乗って現れ、清らかな乙女エルの傍を舞ってるんですよ。なんて不思議な光景!でもそれが逆に、Elysion(楽園)という名のこのライブにぴったり合っているのです。

エルが死後に行ったと思われるElysionですが、それと背中合わせに、エルの父親が堕ちた奈落があるのではないでしょうか? だから悲しむ大勢の人の声を、エルは聞いたのかなあと思いました。

肖像画に恋をした少年は、肖像画の少女「エリス」を探し続ける。そして「エル」という娘を得るが、「エルの楽園 side E」にあるように、父と娘は亡くなり、2人の魂はそれぞれ別の場所へ。

少年=エルの父=仮面の男は、死後も永遠にエリス=エルを捜し求めて、似た境遇の、不幸の匂いのする女性たちを楽園パレード(死者の行進?)に招き入れ、彷徨い歩く。

これは私の個人的な解釈なので、別の人が見ればまた別の解釈があるでしょう。無限の可能性がある音楽だと思いました。

それは終わらない、どこまでも続く救いのないパレードで。誰もが楽園を求めるのに、どうしてこんなことに?人間の幸せって・・・と考えさせられます。

ちょっと長くなったので続きはまた後日。

古き良き時代の安全地帯

安全地帯の『あなたに』を聴いている。若き日の玉置浩二さんの声は、深みがあって美しい。安全地帯の全盛期。

石原真理子さんとの不倫が騒がれたとき、玉置さんは全く表に出てこなくて、石原さんが記者会見で泣いていたのを覚えている。あんなに綺麗な曲を作る人なのに、冷たいな・・・と思った。

でもその頃、2人が不倫で、最高に盛り上がっていた頃に玉置さんが創作意欲を刺激されてかいた曲は、どれも名作ばかり。私が安全地帯で好きな曲といえば、『プルシアンブルーの肖像』『悲しみにさよなら』『碧い瞳のエリス』『熱視線』などです。

これ聴いていると、容易に石原真理子さんの顔が浮かんでしまう。石原さんがいなければ生まれなかったのかなあ、なんて思ってしまう曲ばかり。相手にのぼせているときって、どれだけ一緒にいても時間が足りないし、感性が刺激されて後から後から曲が湧いてきて、それはたぶん玉置さんが歌手でなかったとしても、きっと曲を作らずにはいられなかったと思うのです。

そして、歌詞のセンスも素晴らしい。この時期、松井五郎さんは安全地帯の専属のような形で作詞をされていましたね。後に、あるインタビュー記事でお顔を拝見したときに、あまりにも予想通りで驚きました。内面の優しさが、にじみでてくるような穏やかな表情。

あらためて当時の曲を聴くと、歌詞から発信されるメッセージの優しさに胸を打たれるのです。もし玉置さんが作詞してたら、もっと勝手で、激しい言葉になっていた気がします。

たしか、当時玉置さんの奥さんだった人は、売れない時代をずっと支え続けた人で。離婚が騒がれたとき、バンドのメンバーが全員反対したと聞きました。

この一時期。まるで夢のように、心を鷲掴みにするような名曲を連発したのは、玉置さんを支えた奥さんがあり、本気で心配したバンドメンバーがあり、そして石原さんがいたからなのかなあと思います。それらの要素がパズルの破片のように、吸い寄せられて集まって、一つの美しい絵画を作り上げた。

当時の玉置さんの曲は好きです。

恋愛してたんでしょうね。それも春の陽だまりみたいな穏やかな恋じゃなくて、真剣勝負のにらみ合いのような。周囲全部を敵にして、自分も泣いて、相手も泣かせて、傷つけて傷ついて、ボロボロになりながらそれでも離れられない、みたいな。

作詞家の松井五郎さんて、臆病なほど相手の気持ちを探って、自己完結してしまう人なのかなあ、なんて考えてしまいました。

でもこの繊細さがよいのですよ。

相手の心の中にずかずか土足で踏み込んでいくような真似は、絶対しない。いつもどこかに逃げ道を用意してあげて、そして見てる。ただ見てる。綺麗だなあって。

美しいものを、美しいなあって賞賛する気持ち。見てるだけで、幸福に満たされて、現実感がなくなっていくその過程。

自分の思いの深さと同じものを、相手が持っているとは限らないことをわかっていて、それを気にする気持ち。成就しない悲しさ。この一瞬さえ、ちゃんと存在するならそれでいいって、わりきってしまう孤独。

いろんなものがつめこまれています。

『初恋』中原みすず著

『初恋』中原みすず著を読了。あの有名な、三億円事件をめぐるお話。以下、ネタバレを含んでおりますので、この本を未見の方はご注意ください。

もともと、映画化されたときに「ん?」と興味をひかれていた。地下鉄に貼ってあったポスター。宮崎あおいちゃんが出ていたっけ。三億円事件と初恋。この奇妙な取り合わせ、一体どんな話なんだろう、と気になっていた。

それから、元ちとせさんの歌う主題歌「青のレクイエム」。これが名曲なのだ。

静かなピアノに合わせて歌う声が、耳に残っている。

ということで、期待を持って原作を読んでみた。

全体の文章センスは好き。ただ、表紙の装丁はどうだろう? 内容に全く合っていないと思った。いろんな色のクレヨン?で塗ったブロックはまるで絵本のようで。この本が伝えたかった、岸とみすずの心の交流とはそぐわない。

みすずのイメージは、宮崎あおいちゃんとは違っていた。好きな女優さんではあるけれども、みすずとは違う。あおいちゃんでは童顔過ぎる。

私が想像したのは、どこか日本人離れした違和感のある女性。完全に大人に成長する前の、不安定さのある女の子。見る角度、その日によって、大人びて見えたり、子供のように見えたり、表情がどんどん変わっていく女性だ。

そして必須条件は目の奥の暗さ。それがある女優さんが演じたら、素敵な作品になっただろうなと思った。

私はみすずと岸の交流を、美しいファンタジーだと思って読んでいた。ただ、結局はお嬢さんとお坊ちゃまなのだなあ、という冷めた目で見る部分もあった。

あの時代。日本は今よりずっと貧しかった。大学の、それも私学に通えるのは、それだけでもずいぶん恵まれたことだったと思う。進学したくても経済的に無理で、家庭のために高卒で働きに出た子も、多かったんじゃないだろうか。あるいは、高校に通いながら放課後は家計を助けるためにアルバイトしていた子。

そんな子たちからみすずと岸を見れば、ため息しか出ないだろうなあ。

ジャズ喫茶で仲間と話せる余裕。

それが欲しくて、叶わなかった子も、たくさんいただろう。

みすずは孤独で、可哀想な子だろうか?うーん。本を読んだ限りでは、私はあまり、せっぱつまったものを感じなかった。もっと厳しい状況の子がたくさんいることも知っているし。家庭に恵まれない寂しさは気の毒ではあるけれども、逆を言えば世の中は、そんなに恵まれた人ばかりとは限らない。

たとえば、晩御飯のこと。結局、お金は渡されていたわけで。そりゃ一人で食べるのは味気ないかもしれないが、空腹を耐える情けなさ、辛さはなかったわけで。

新宿御苑で襲われたみすずの心の傷。それがもし本物なら、ジャズ喫茶にはとてもじゃないが、入れなかっただろうと思う。見知らぬ、複数の、不良と呼ばれる人たちがいる場所だから。

寂しいから、そこに出入りすることができたなら。その傷の深さも、人生を変えてしまうほどには大きくなかったということだ。

岸は、みすずの目には魅力的に映っただろうなあと思う。どこか斜に構えて人生を見ている目。仲間内で一人だけ浮いているその空気に、神秘的なものを感じたのだろう。

だが、冷静に考えると、とんでもない奴なのだ。

本当にみすずを大事に思っていたら。大切な人を、まして自分よりも世間をわかっていない年下の子を、事件に関わらせたりするだろうか。東大に通うだけの知性を持っていた人に、それを判断する能力がなかったとは思わない。

三億円を奪うことが、権力への仕返し?打撃を受けるのは、本当に悪い人たちなのか?

インドを放浪し、やがて行方不明になってしまう生き方。あくまで自分中心だったと思う。そのことが、誰かのために、世の中のためになったんだろうか?

みすずの子供時代。伝書鳩を飼えるのは余裕があったということだと思う。本当に意地悪な叔父夫婦なら、なにがなんでも、許さなかっただろうから。

失われた青春、というけれど、あの時代。青春もなにも、生きるために、家族のために、ただただ働き続けた人たちが大勢いた。進学の夢を諦め、他のことを考える余裕もなく。

そのことを思うと、なんとなく、これは「恵まれた人たちの物語だな」という気がする。

この物語がフィクションなのかどうか、結局ぼかして書いてあるけれど。時効を迎えた三億円事件に、著者がなにかしら関わりのあった人だというのは、本当のような感じがした。

真夜中に聴く「鬼束ちひろ」

「僕らの音楽」という番組に出演した鬼束ちひろさんの姿が、とても印象的だった。しばらく休業状態で、久しぶりに公の場に出てきたとのこと。精神的な不安定さが、表情に表れていた。でも、そんな鬼束さんの歌う「everyhome」そして「Smells like Teen Spirits」に魅了されてしまった。

いい曲だなあって。いい歌だなあって思う。迷いとか不安とか、そういうものの中にいる苦しさが伝わってくる。綺麗なものは綺麗。心地いいものは心地いい。そういう単純な次元で、今の私は何度もその2曲を歌う鬼束ちひろさんの姿を、思い出すのだ。

聴いていて、心が慰められた。言葉にするのは難しいのだが、その世界に浸っていると、少し楽になれる気がする。

小林武史さんのピアノがまた、心にじわじわと浸透してくるのだ。ピアノって、本当にいい音色の楽器だと思うし、それを思いのままに操り響かせるのは、弾き手にとって快楽の極み。

弾き手の心が、音になって鬼束さんを誘い、そのオリジナル、特注の船に乗ってゆらゆら、鬼束さんが進んでいく感じ。果てもなく広がる海を想像した。それは静かに凪いだ海だけど、一つとして同じ波はなく、世界にはその船と、船上で歌う鬼束さんしかいない感じ。

つい最近、一青窈さんとの不倫が騒がれた小林さんだけど、実は一青さんでなく、鬼束さんに惹かれているのでは?と一瞬、思ってしまった。

鬼束さんの歌唱は、「上手い」というのとはちょっと違う。うまさで言うなら、たぶん昔の方がずっと安定していたように思う。だけど今の鬼束さんの危うさ、脆さが、私の心にひたひたとしみ込んできた。

「僕らの音楽」では3曲歌ったけれど、その中の「流星群」に関して。これはもう、圧倒的に過去の方がうまかった。聴いていてつらくなってしまうほど、今の鬼束さんには合わない感じがした。だけど逆に、その他の2曲。「everyhome」「Smells like Teen Spirits」に関しては、これは過去の鬼束さんには歌えない。今の彼女だからこそ、歌える歌のような気がした。

その時代その時代、体現できるものは変化し続けるのだなあ、と、そんなことを思った。

鬼束さんを初めて知ったのは、「月光」。この曲を聴いたとき、綺麗だと思ったけれど、それほどの求心力は感じなかった。もともと私はCOCCOが好きだったこともあって、私の中では鬼束さんはCOCCOに似た人、という位置づけだった。裸足で歌うところや、曲のイメージに、似たものを感じていた。それが、一歩進んで強烈な印象を残したのは、「私とワルツを」。

出だしからいきなり、心を鷲掴みされた。

圧倒的な力で、曲の世界に引き込まれてしまった。その晩餐の重苦しさは、ユーミンの「翳りゆく部屋」と同種のもの。

この一曲によって、私の鬼束さんイメージはすっかり変わってしまった。誰かに似ている歌手、ではなくて、鬼束さんにしか書けない、鬼束ちひろの世界観。

鬼束さんで好きな曲は、「私とワルツを」「眩暈」「infection」。復活後では、「everyhome」の他、「MAGICAL WORLD 」だ。真夜中に聴くと、鬼束さんの作り上げた世界は一層、深みを増すように思える。

『セーラー服と機関銃』薬師丸ひろ子

薬師丸ひろ子さんの『セーラー服と機関銃』を聴いている。長澤まさみさんバージョンではなく、薬師丸ひろ子版で。

春だからなのかもしれない。

曲に描かれた女性の、若さが眩しい。自分にもこんな時代があったなーなんて。希望に胸をふくらませて新生活を始めた若い日のことを、懐かしく思い出す。

そのとき私は比喩でなく、ものすごーく重い荷物をかついで歩いていた。あれ、実際何キロくらいあったんだろう? 迎えに来てくれた人が、「持ちますよ」となにげなく手を出したので、遠慮して「いいです」と断った。それでも「いいから」と、その人が半ば無理やり持ってくれたのだけれど、その瞬間の驚愕の表情がおかしくて、今でもはっきり覚えている。

本当に重かったのだ。私は平気な顔をして持っていたけど、普通は持ち歩くレベルじゃないよなーという位に。宅急便を頼むには日にちがなかったので、直接持ち歩いていたのだが、今でもあのときの重さは覚えている。

それを受け取ったときの、その人の顔!

マジで。この重さを? ずっと持ってきたの? 嘘でしょ? おかしいでしょ?

気の毒そうな顔というより、不思議なものをみるような目だった(^^;

私にはその驚きが心地よかった。へへー。力持ちでしょ?と思ったし。

4月の空気は、光に満ちている。緑は柔らかくて、植物が成長を始めようとするエネルギーが、そこらじゅうにあふれてる。少し散りかけた桜の下で、そのときの私は、心に誓いを立てたのだった。ああ、なんて若かったんだろう。

あれから10年以上経つ。今も私はやっぱり、重い荷物を持つときにはわざと、平気な顔をしてみせる。先日、嬉しい新事実が発覚。私の好きな人も、同じ癖があったらしい。

こういうのは、性格的なものだと思う。

共通点があったことが、すごく嬉しかった。