真夜中に聴く「鬼束ちひろ」

「僕らの音楽」という番組に出演した鬼束ちひろさんの姿が、とても印象的だった。しばらく休業状態で、久しぶりに公の場に出てきたとのこと。精神的な不安定さが、表情に表れていた。でも、そんな鬼束さんの歌う「everyhome」そして「Smells like Teen Spirits」に魅了されてしまった。

いい曲だなあって。いい歌だなあって思う。迷いとか不安とか、そういうものの中にいる苦しさが伝わってくる。綺麗なものは綺麗。心地いいものは心地いい。そういう単純な次元で、今の私は何度もその2曲を歌う鬼束ちひろさんの姿を、思い出すのだ。

聴いていて、心が慰められた。言葉にするのは難しいのだが、その世界に浸っていると、少し楽になれる気がする。

小林武史さんのピアノがまた、心にじわじわと浸透してくるのだ。ピアノって、本当にいい音色の楽器だと思うし、それを思いのままに操り響かせるのは、弾き手にとって快楽の極み。

弾き手の心が、音になって鬼束さんを誘い、そのオリジナル、特注の船に乗ってゆらゆら、鬼束さんが進んでいく感じ。果てもなく広がる海を想像した。それは静かに凪いだ海だけど、一つとして同じ波はなく、世界にはその船と、船上で歌う鬼束さんしかいない感じ。

つい最近、一青窈さんとの不倫が騒がれた小林さんだけど、実は一青さんでなく、鬼束さんに惹かれているのでは?と一瞬、思ってしまった。

鬼束さんの歌唱は、「上手い」というのとはちょっと違う。うまさで言うなら、たぶん昔の方がずっと安定していたように思う。だけど今の鬼束さんの危うさ、脆さが、私の心にひたひたとしみ込んできた。

「僕らの音楽」では3曲歌ったけれど、その中の「流星群」に関して。これはもう、圧倒的に過去の方がうまかった。聴いていてつらくなってしまうほど、今の鬼束さんには合わない感じがした。だけど逆に、その他の2曲。「everyhome」「Smells like Teen Spirits」に関しては、これは過去の鬼束さんには歌えない。今の彼女だからこそ、歌える歌のような気がした。

その時代その時代、体現できるものは変化し続けるのだなあ、と、そんなことを思った。

鬼束さんを初めて知ったのは、「月光」。この曲を聴いたとき、綺麗だと思ったけれど、それほどの求心力は感じなかった。もともと私はCOCCOが好きだったこともあって、私の中では鬼束さんはCOCCOに似た人、という位置づけだった。裸足で歌うところや、曲のイメージに、似たものを感じていた。それが、一歩進んで強烈な印象を残したのは、「私とワルツを」。

出だしからいきなり、心を鷲掴みされた。

圧倒的な力で、曲の世界に引き込まれてしまった。その晩餐の重苦しさは、ユーミンの「翳りゆく部屋」と同種のもの。

この一曲によって、私の鬼束さんイメージはすっかり変わってしまった。誰かに似ている歌手、ではなくて、鬼束さんにしか書けない、鬼束ちひろの世界観。

鬼束さんで好きな曲は、「私とワルツを」「眩暈」「infection」。復活後では、「everyhome」の他、「MAGICAL WORLD 」だ。真夜中に聴くと、鬼束さんの作り上げた世界は一層、深みを増すように思える。

『セーラー服と機関銃』薬師丸ひろ子

薬師丸ひろ子さんの『セーラー服と機関銃』を聴いている。長澤まさみさんバージョンではなく、薬師丸ひろ子版で。

春だからなのかもしれない。

曲に描かれた女性の、若さが眩しい。自分にもこんな時代があったなーなんて。希望に胸をふくらませて新生活を始めた若い日のことを、懐かしく思い出す。

そのとき私は比喩でなく、ものすごーく重い荷物をかついで歩いていた。あれ、実際何キロくらいあったんだろう? 迎えに来てくれた人が、「持ちますよ」となにげなく手を出したので、遠慮して「いいです」と断った。それでも「いいから」と、その人が半ば無理やり持ってくれたのだけれど、その瞬間の驚愕の表情がおかしくて、今でもはっきり覚えている。

本当に重かったのだ。私は平気な顔をして持っていたけど、普通は持ち歩くレベルじゃないよなーという位に。宅急便を頼むには日にちがなかったので、直接持ち歩いていたのだが、今でもあのときの重さは覚えている。

それを受け取ったときの、その人の顔!

マジで。この重さを? ずっと持ってきたの? 嘘でしょ? おかしいでしょ?

気の毒そうな顔というより、不思議なものをみるような目だった(^^;

私にはその驚きが心地よかった。へへー。力持ちでしょ?と思ったし。

4月の空気は、光に満ちている。緑は柔らかくて、植物が成長を始めようとするエネルギーが、そこらじゅうにあふれてる。少し散りかけた桜の下で、そのときの私は、心に誓いを立てたのだった。ああ、なんて若かったんだろう。

あれから10年以上経つ。今も私はやっぱり、重い荷物を持つときにはわざと、平気な顔をしてみせる。先日、嬉しい新事実が発覚。私の好きな人も、同じ癖があったらしい。

こういうのは、性格的なものだと思う。

共通点があったことが、すごく嬉しかった。

Wicked Little Town

「ヘドウィグ アンド アングリーインチ」 という映画がある。去年だったか、もっと前だったか記憶は曖昧なのだけれど、レンタルビデオ屋で借りて見た。その映画の中で歌われていた「Wicked little town」という曲が好きだ。

以下、この映画に関するネタバレを含む文章になりますので、未見の方はご注意を。

私はロックとか、激しい音楽が苦手(嫌い)なのだが(じゃあ何故ヘドウィグの映画を見たかというと、ある人から薦められたので)、この Wicked little town だけは、すごく心に残った。もう一つ、The origin of love という曲もよかったが、今になって思い返すと、Wicked little townの方がずっと、いいなあと思うのである。

主人公のヘドウィグは、けっこう嫌な奴。身近にいたら、絶対近づかない。わがままだし、自分のことばかり優先するし、逃げた恋人を追いかけて、無駄な執着が醜いと思った。

同情するほど、弱い人じゃないのだ。ちゃんと自分をしっかり持ってる。

だけど、最後にアンサーソング?として歌われるこの歌を、しんみり聴いているヘドウィグの姿には、強さというよりも純粋さが見えて、とても、きれいだと思った。それまでのけばけばしい姿よりずっと、きれいだと思った。

年下の恋人だったトミー・ノーシスが、まっすぐヘドウィグに歌で伝える。もう恋愛は終わったんだと。優しい声で、優しいメロディで、哀しい事実を歌い上げる。

この曲は、メロディだけでなく、歌詞もいいのだ。

終わったという事実を認められずに、ヘドウィグはもがいて、あがいて、欠片を拾い集めては元に戻そうとする。だけど欠片はもう、元には戻らない。どうしようもできないほど、ボロボロとすべてが崩れ始める。拾っても拾っても、後から後から落ちてくる。そんな状況が、鮮やかに浮かんでくる。

ヘドウィグは、トミーを運命の恋人だと信じてるから、執着していたんだよね。だけど、それは勝手なヘドウィグの思いであって、トミーは違う。そして、歌は二人の別れを決定的にするもので、ヘドウィグの心の一部が、完全に壊れる。

ヘドウィグには立ち直る力がある。だけど、その壊れた心の一部は、決して元に戻らない。それはもう、どうしようもないんだなあと思った。誰かに治せるわけでもないし、ヘドウィグ自身にだって無理なんだもの。

私自身は、mystical design も cosmic lover も信じているわけですが。皆、そういう相手を探しているんじゃないの? と思っていたら、ランチをとっていた同僚に笑い飛ばされてしまった。現実はもっと、ドライなものよ、と既婚の彼女は言う。

でも、そういう相手じゃなかったら、一緒に暮らすのはつらくないのかなあ。ドライに割り切って、暮らすのは私には無理だな。

ヘドウィグも、乙女チックな夢を描いていたんだろうか。なんだか、しょんぼりしているヘドウィグが自分自身に重なって見えた。家でこの曲を久しぶりに繰り返し聞いた、土曜日なのでした。

まあ、トミーもずるいんだよね。別れるにしろ、人の曲を奪って逃げちゃいかんでしょう。そこらへんの罪悪感はなかったのかなあ。そんな奴なんだもの、ヘドウィグも執着することないのにね。私がヘドウィグだったら、その瞬間に冷めてしまいそう。だって、ミュージシャンとして最悪の行為でしょう? 軽蔑してしまう。

執着するほどの価値はなかったというのが、実際のところ。傍から見ればよくわかるのに、一番わかっていないのが本人だったり。よくある話です。