『レベッカ』への希望

 自分がもし舞台『レベッカ』の演出をしたら、というのを考えてみました。以下、ネタバレにつながる記述もありますので、舞台を未見の方はご注意ください。

 前半の、すべてがわかる前のマキシムをもっと、謎めいた、暗い人物に描くだろうなあ。いつもなにか、他のことを考えてるみたいな。なにか悪いたくらみで「わたし」に近付いたんじゃないかとさえ疑えるような、不思議な沈黙。

 「わたし」の、小鳥のさえずりみたいな澄んだ歌声。無邪気な、新婚の喜びを隠しきれないそんな歌のすべてに、マキシムはいつも、一定の間を置く。冷静な仮面をかぶり続けて答えるのだ。

 そう、一定の間って、けっこう効果的かも。一瞬、考えるという。絶対即答しない。新婚の夫として、この答えは適正だろうか、「わたし」が不審に思わないだろうか、マキシムは十分に計算しつくされた差し障りのない答えを、必ず機械的に返すのだ。

 観客はその、一瞬の間の不自然さを感じ取り、「わたし」と一緒にマキシムに疑いを抱く。

 そして、声はずっと低く。山口さんの声って、基本、ちょっと高め?な気がする。感情が激したときにも、つい甲高くなってしまうような。

 激したときには、甲高い声も、それが山口さんの自然の表現ならいいんだけど。ただ、普段「わたし」に対して話しかけるときには、徹底して低い声であってほしい。それは、マキシムが「わたし」に対して装ってると思うから。

 

 「わたし」と結婚した本当の目的。触れてほしくない、レベッカの思い出。そうしたことから自分を守るために、マキシムは、「わたし」の前では努めて、低い声を心がけてるといいなあ。あくまで穏やかに。その裏に流れる、恐怖や、憤りや、悲しみを決して出さないようにとするマキシム。でもときどきちょっと、仮面が剥がれるという(^^; つい激昂したり、苛立った様子をみせたり。

 これ、絶対不気味だと思います。この人なに考えてるだろうって。

 

 私が見たときの一幕マキシムは、明るすぎかなあという感じでした。ヴァン・ホッパー夫人とのやりとりに関しては、それでパーフェクトです。そのときだけはマキシムも、過去を忘れて笑っていたと思うし。だからこそ、「わたし」と向き合ったときには、高めの声だとちょっとイメージが違うかも。

 それと、「わたし」に対して愛情を感じちゃったのですよね、一幕。普通に、新婚夫婦みたいな。それはいらないと思いました。マキシムは普通ではないので。「わたし」を利用していること、マキシムはわかってる。だから、完璧な夫を演じる、その、不自然な愛情が見たいのです。たしかに言葉や態度では「わたし」を妻として扱うけど、本当は違うんじゃないかと、観客に不審を抱かせてほしい。

 あと気になったのが、「わたし」がベアトリス夫婦と踊るシーン。ここ、もっともっと、ぎこちなさがほしい。「わたし」が一生懸命になればなるほど、ベアトリス夫婦とはズレていく、みたいな。もちろん、実際見た舞台でもそれは表現されていたのですが、もっと強調してもいいかなと思いました。

 

 理想としては、ダンスが終わったあと、観客の胸に悲しみがこみあげてくるような。「わたし」の哀れさが浮き彫りになるような、ダンスシーンになるといいなと思います。

 

 イギリスは日本以上の階級社会で。そもそも、「わたし」がマキシムと結婚するのはありえないことで。だからこそ、「わたし」はがんばるんだけども、けなげなほどに、そこに染まろうとあがくんだけども、滑稽なほどにダンスのリズムがずれて。

 「わたし」の、張り付けたような笑顔。ベアトリスの、必死な仲良しごっこ。しかしそれを、観客が見たときには、彼らが努力すればするほど、その異質さが際立つ、みたいな形だといいですね。

現状だと、見終えた後の滑稽さと悲しさが半々くらいでしたが、もっと、悲しさの配分が大きくなってもいいかなと思いました。

 前半が変わると、その分、後半の見方がかなり変わってくると思うんですよね。後半、一気に物語を盛り上げるためにも、前半、一幕での種まきが大事だと思いました。

マキシムが「わたし」の中に見たものは

 舞台『レベッカ』を観劇した後、時間が経ってから、思ったことなどを書いています。ネタバレありますので、ご注意ください。

 振り返って思うのは、「わたし」が決して、太陽のような娘ではなかっただろうなあということ。過去のブログで私は、「わたし」の明るさにマキシムが惹かれた、みたいなことを書いたように思いますが、今はそう考えていません。違うだろうなあ。もし「わたし」がひまわり娘だったら、マキシムはにこにことお茶の相手をして、でも、結婚まではしなかっただろうな。

 原作『レベッカ』を読んだ時点での「わたし」に対してのイメージと、今のイメージは違いますね。日本語で、2人の訳者の思いがこめられた2バージョンを読み、それから、舞台での物語にふれて。

 マキシムが「わたし」といきなり結婚したのは、「わたし」が明るくて、それに癒されたということではないんだなあと。

 きっと「わたし」はちっぽけで。なにひとつ、特出したものをもっているわけではない、どこにでもいるというより、それ以下ともいえる存在だったのかな。

 世界を恐れ、諦め、ひっそり生きてて、天涯孤独だったということ。

 マキシムにしてみたら、「わたし」の真っ直ぐな目は、剣の鋭さではなく、心地よいそよ風で。それは決して、自分の中に無理やり押し入ることがなかったから。無遠慮に、ドアを叩かれるわずらわしさがない。

 木陰でそっと、傷を癒したいという気分のマキシムにとって、「わたし」の暗さこそが、心地よさだったのかもしれません。そういう気分のときは、太陽の光、熱そのものが、また苦痛の種になりうるから。

 そーっと、静かに。社交界の騒々しさ、スキャンダルから逃れて。そんなとき、なんにも言わないで、存在感すら主張しないで、黙って横に座っていてくれる。それで必要なときには、いつも手を差し伸べてくれる、そういう「わたし」が、都合よかったんだなって。

 こうやって書き綴ってると、マキシムがひどい奴っぽいですが。私はマキシム、やっぱり好きなのです。

 マキシムが助けを必要としていた、というのは事実で。そこにたまたま「わたし」が現れたと。わたしは小動物みたいな子で、マキシムにはなんでもお見通しで。だから、物足りないといえば物足りないし、当然、夢中になることなんてないし。対等の関係ではない。

  でも「わたし」は他人だから。自分ではなくて。自分以外の人間が、たった一人でも、裏切らないで、黙って傍にいてくれるってことが、マキシムにとっては、すごく救いになったのかと。

 

 天涯孤独なら、レベッカのときのように、怪しい従兄弟に悩まされることもない。御しやすい。

 マキシムはいい人だと思います。愛以外のものは、全部「わたし」に与えてる。

 それでいいんだって思います。だって、気持ちは、動かそうと思って動くものじゃない。「わたし」だって、もしマキシムの真意を知ったとしても、それでいいと諦めるんじゃないかな。「わたし」がマキシムを好きなのは本当だし、結婚して一緒に暮らすことが、「わたし」に幸福の感情をもたらしてくれるのは事実なわけで。

 激しい愛情ではなくても。それは恋愛感情なんかじゃなくても。助け合って、穏やかに暮らせるということ。人間愛? なんていうんだろう、こういうの。一緒に暮らすうちに、生まれる新しい感情もあるだろうし。まるっきり恋愛感情じゃないと言い切ってしまうことにもためらいはあるけど、そもそも恋愛感情って、どんなものかという定義を考え始めたら、きりがない。

 ともかく、いわゆる「恋に落ちて」みたいなものではなかったのはたしか。マキシムが、「わたし」に対して抱いた感情、そして期待したものは。そしてマキシムが思う以上に、「わたし」はそれに答えてくれた。

 2人で、ぼーっとしてお茶を飲んで。

 「いい天気だね」

 「お花がきれいね」

 そんなふうに、なにげない会話を交わして。そうして穏やかに、時間が過ぎていく、みたいな。ドキドキハラハラはないけど、相手のことは大事で、大好きで。一緒にいると、とても幸せで、満たされている。

 マキシムと「わたし」は、きっとその後の人生で、こういう時間を手に入れたんだろうと思います。2人には、根本的に似てるところがあるから、うまくいったでしょうね。

『レベッカ』観劇記 その4

 昨日のブログの続きです。舞台『レベッカ』の感想を書いていますが、完全にネタバレしていますので、未見の方はご注意ください。

 仮装舞踏会での失敗を謝る「わたし」に対し、「許す? なにを許すんだ?」というマキシムの声がよかったです。

 うちのめされて、なにもかも失ったマキシムから、身を守る壁が消えた瞬間。穏やかで凪いだ海ではなく、深く、暗い絶望の海。限りなく平穏な、マキシムの声。絶望がゆえに、優しく聞こえてしまう不思議。まるで、すべての悩みから解放されたようにも聞こえるような。

 このときの言い方、すごく心に残りました。深くて。

 世界が終わったと感じた瞬間の人間は、こういう声で話すんだろうかと。

 山口マキシムが「わたし」に聞かせた、レベッカの真の姿。このときの声が不思議でした。目の前に、たやすくレベッカの姿が浮かぶんですよね。

 観客はまるで、おばあちゃんにおとぎ話をせがむ子供みたいに、声からありありと、レベッカの姿を想像している。

 ところで、原作ではマキシムが銃を使うのですが、舞台だと、打ち所が悪くて?みたいなことを言っていたような気がします。

 ちょっとうろ覚えなんですけど。なにしろ一幕の『神よ なぜ』聴いた後では、どうしてもその余韻を引きずって、ぼーっとしてしまって。舞台に集中するというより、頭のどこかで、そのことを何度も繰り返してしまうのです。

 ともかく、この設定に激しく違和感を覚えました。銃だからこその、罪悪感なのだと思うのですが。打ち所が悪いという状況だと、だいぶ、罪悪感が割り引かれてしまうような気がしました。

 自分がこの手でっていう衝撃こそ、マキシムにつきまとって離れない最大の影だと思うから。忘れようにも忘れられない、その手に感じた振動。きっとそれは、レベッカの生きた証。鼓動そのもので。その手に残る、生々しい感覚があるからこそ、マキシムは苦悩し続けたはず。消えない硝煙の匂い。いくら自分を、正当化しようとしても。

 マキシムが電話を受けた後、「自殺だったんですね」と聞かれ、「そうだ」というときの声が印象に残ってます。落ち着いた、低い声。なんだかよくわからないけど、妙に印象的でした。心に残ってます。

 マンダレイ炎上では、マキシムの「ああ消えるならば すべて消えてしまえ」という絶叫がよかったです。これも、気持ちがわかるような気がする。

 

 マンダレイはとても大切だから。マキシムの宝物。だからこそマンダレイが、マキシムの心を傷つけ、苛む。痛めつける。マンダレイがあるからこそ喜び、マンダレイがあるからこそ苦しむ。その狭間で、マキシムの心が爆発したのでしょう。ならばすべてなくなってしまえという激しい憤り。いっそ、全部なくしてしまえば楽になれると。

 最後にちらっとライトに照らされるダンヴァース夫人が、その登場具合が絶妙でした。長すぎても冗長になってしまうし、姿を全く見せなければ、物足りない。

 エピローグは綺麗でした。夢の中の景色のよう。緑?青?月明かりが、窓から差し込んでいて。その中で「わたし」が歌うのです。

 最後の、「わたし」と「マキシム」のデュエットは、天上の音楽のようでした。完璧なハーモニー。マキシムは、心の平穏を手に入れたんでしょうか。

 カーテンコールの音楽が、三拍子で奇妙な感じで、それがまたよかったです。私はとっさに、「チムチムチェリー」を連想していました。哀愁漂ってます。完璧な大団円とはいえない、なにか含みを持たせるような曲調でした。途中から、陽気な曲に変わりましたが。

 以上で、観劇記は終わりです。一言でいうなら、『神よ なぜ』はすごかったと。それに尽きます。私はただ観劇しただけなのに、あまりに感情が揺れ過ぎて、体力を消耗してフラフラでした。これは続けて見るには、つらい演目かも。観終わった後の余韻も、また格別だと思います。

 オーケストラの音や舞台セットは、迫力があって見劣りしません。ライトがすごく効果的に使われていたし。あれは、紗幕と言うんでしょうか? 門扉の絵もきれいだった。シアタークリエは『レベッカ』をやるには小さい劇場で、だからこそ制約も多かったと思いますが、関係者の方、さすがプロだと思いました。出演者の方のコーラスも、大迫力です。人数的には少ないけど、さすが実力者ぞろいだと感じました。手抜きなし、です。

 演出の山田和也さんと、訳詞の竜真知子さんのセンスは、期待通りに素敵なものでした。竜真知子さんは、特に『永遠の瞬間』の歌詞がいいのです。パンフレットの歌詞を読んでいると、目の前に情景が浮かびます。まるで、リアルな夢のように。

 ホワイエは狭い。トイレの行列だけでいっぱいいっぱい。売店で買い物しづらいのが悲しい。食べ物や飲み物は、自動販売機でいいのに。その分、パンフレット売場を広くとってほしい。パンフレットを買うのに、一苦労でした。人が多すぎて、にっちもさっちもいかない。

 トイレは、最初から諦めてシアタークリエ以外のところへ行きました。なので、どんなトイレなのかは不明。帰りにチェックしようと思ったのですが、体力消耗してフラフラで、頭痛もあったのですぐに帰ってきました。すごい作品です。『レベッカ』。

 次回観劇予定は未定ですが、また行くのは確実です。ただし、少し間隔を置こうと思ってます。かなり刺激を受けたので、それをもうちょっと自分の中で整理したいのと、後は、回数を重ねた後の舞台がどう変わるのか、それを見てみたいのです。

 もちろん今でも十分見応えはありますが、同時に「もしかしたら、ここのこういうところはいずれ変わってくるかも」と思った箇所も、いくつかあって。『ダンス・オブ・ヴァンパイア』がそうだったように、きっとこの作品も変化していく舞台になると思いました。

『レベッカ』観劇記 その3

 昨日のブログの続きです。舞台『レベッカ』に関して書いていますが、完全にネタバレしていますので、未見の方はご注意ください。

 そしてボートハウス。トレンチコートに帽子姿のマキシム。帽子がイマイチ似合わないかな・・・と思っているうちにマキシムの歌『神よ なぜ』が始まりまして。

 

 最後に「ああ強くなろう 過去など乗り越えて」と歌い上げて締めるまで、私は心臓を、鷲掴みにされるような気持ちで聴き入っていました。

 実は、私が一番『レベッカ』の中で好きなのはこの曲なのです。まさかこういう曲に出会うとは、思ってもいませんでした。何故このときに、この曲を歌うの?と思いながら激しく動揺して、感情を思いっきり、山口マキシムの声で揺さぶられていまして。

 それより前に、「わたし」への愛から歌った

>私に力を

>こんな夜こそすべてを忘れられたら

 というのは、結局、甘い睦言のひとつに過ぎなかったと思うんです。

 他力本願的な。

 こうなったらいいね、なんて、新婚夫婦が語る、将来の夢みたいなもので。

 それほど真剣に、マキシムが決意しているわけではなくて。責任感のない、ふわふわした砂糖菓子。甘くて満たされる。

 だけどこのときの、『神よ なぜ』は覚悟が違う。

 

 なにか、わかるような気がしたんですよね。逃げ出したい過去があって、思い出したくもないことがある気持ち。もちろん普段は、そんなの忘れるようにして、なるべく考えなければいい話なんですが。

 ことあるごとに、ふっと胸をよぎる思い、みたいなものはあるわけで。どんなに忘れようとしてもね。強烈な記憶は、いつもつきまとって、なかなか自由にはなれない。気付くと行動のすべては、ぜんぶそのときの影に縛られてる、みたいな。

 だから、マキシムがこんなことを歌うと、はっと胸をつかれるのです。

>もしここを出ても またつきまとう過去は

>逃げ切れない それならここに残り

>今立ち向かえたら 苦しみのすべて消せるのか

 ひょえー、そうだったのか、と。つまり、マキシムは「わたし」を愛してない。いやらしい言い方だけど、「わたし」を利用して、「わたし」がくれる真っ直ぐな愛を武器に、過去と対決しようとしたんだなあっていうのがわかったのです。

 このへんで、すっかりマキシムの気持ちになりきっちゃってる私は、オヤジ脳なのかもしれません(^^;「わたし」じゃなくて、完全にマキシムの方に共感してしまっていて。なるほど、なるほどと。

 まあ、単純な話なんですけどね。マンダレイから逃げ出して他所の土地で暮らせば、マキシムは一生、レベッカの幻影から逃れられない。マンダレイが、レベッカそのものになってしまう。

 マンダレイを自分のものにする、取り戻すためには、どうしてもレベッカとの対峙が必要だったんです。逃げてたら、一生無理。

 

 マンダレイに、自分の足で立つこと。そして、マンダレイの景色、レベッカの思い出に、「わたし」と一緒にいる、別の風景を上塗りしていくこと。その直接対決でしか、消せない記憶がある。

 モンテカルロの丘は、前哨戦だったわけですね。そして決戦の地。マンダレイでマキシムは誓う。「強くなろう」と。その思いが、痛いほど伝わってきました。

 実際、人間はみんな、過去に縛られて生きてる。本当になにもかも、死んでしまった過去なら、時間が解決してくれることもある。でもその、部分、部分で、息づくものがあれば、それは現在にわたって、大きく影響し続けて。その影響は、黙っていたからといって、弱まるものではなくて。ならば、いつかは立ち向かわなければ、未来がない。

 完膚なきまでに打ちのめされれば。嫌でも、自分の弱さを知ります。だから、強くなりたいと願う。弱い自分が惨めだって、泣くしかなかったって、わかりすぎるほど、わかってるから。

 

 強くなりたいと願うのは、弱くて泣くだけの、自分を知っているから。

 ああ、もういろんな感情がこみあげて。ひたすらマキシムの声に、耳を澄ませてました。山口さんの表現力はすごいです。今日の山口さんは特に、なにかが乗り移ったかのように歌ってた。

 

 本日のクライマックスは、ここでした。マンダレイのお屋敷炎上シーンを、はるかに凌ぐものがありました。この曲が終わったら、私はしばらく、頭が真っ白で。その後、一定時間、目の前の舞台が目に入らなくて。

 その後もたしかに歌があり、セリフがあり、セットがそこにはあるのだけれど。感覚器官を通しての情報はあっても、心にまで到達しないという感じでした。

 心はもう、さっきのマキシムの歌で飽和状態。これ以上なにも、入る余地がない。心は静かに振動し続けて、その震えが、なかなか止まらない。

 ということで、観劇記を終わります・・・というのもなんなので、(まだ一幕の途中だし)、とにかく最後まで、気になったシーンやセリフについて書いていきます。

 でも正直な話、今日のこの『神よ なぜ』以降は、かすんで見えました。これ以上のインパクトを受けるシーンは、以後なかったです。

 長くなりましたので、続きは後日。

『レベッカ』観劇記 その2

 昨日のブログの続きです。舞台『レベッカ』の観劇記ですが、辛口なところもあるので、ご了承ください。完全にネタバレしてます。未見の方はご注意ください。

 

 マンダレイのお屋敷の壁面が、蔓のようなデザインで、それがまたこの舞台にぴったりでした。蔓そのものは元々、とても柔らかいのですよね。蔓の先が、ひそやかに撫でるように宿主に触れ、その繊細な愛撫が、やがては当初の優しさなど想像もつかないような荒々しい締め付けへと変貌する。気付いたときにはもう、きりきりと締め上げられた宿主は窒息状態。宿主と一体化すべく、蔓は深く、深く宿主の肌に食いこみ、そうなれば最後、宿主はもう枯れるしかなくて。

 強すぎる愛情を、盲目的にレベッカに注ぐダンヴァース夫人の姿と、蔓の姿が重なります。

 レベッカも、実際にはダンヴァース夫人のこと、少しうざったく感じていただろうなあと思いました。決して裏切ることはないから、そういう意味では利用価値があっただろうけど。ダンヴァース夫人は、彼女にとっては、たぶん特別な存在ではなかったはず。夫人はレベッカの、大勢いる崇拝者の中の一人にすぎなかった。だけど思いこんでいた。自分だけは特別で、自分だけがレベッカの真の理解者だと。

 そんな妄執が、マンダレイのお屋敷を締め上げ、侵食していったのですね。

 ああ、やっぱりレベッカは主人公だ。結局誰もが、レベッカに振り回されてる。いなくなってなお、人々の心に住み続け、心をかき乱さずにはいられない。罪な女性だなあ。

 マキシムが、ダンヴァース夫人を紹介するときの声、嫌悪感に満ちてました。それは、最後まで一貫していたように思います。マキシムはダンヴァース夫人のこと、大嫌いだったんだなあ。

 

 そうそう、マキシムが「わたし」を呼ぶ、「ダーリン」という言い方がこそばゆかった。日本人の耳には、「ダーリン」というと、ペアルック(死語)で記念写真を撮っている、ハネムーナーの甘い声が・・・。いや、マキシムたちも新婚なんだけど、やはり英国紳士としての落ち着きがほしいじゃないですか。

 「きみ」では駄目ですかね。「ダーリン」って、どうもしっくりこないです。マキシムは、「ダーリン」っていうキャラじゃないような気がするなあ。英語の呼びかけの Darling と、日本で使われる「ダーリン」は別物なイメージです。

 「ダーリン」とか、あの堅物マキシムに呼ばれてたら、「わたし」が愛情を疑う余地なんてないと思う。だって、使用人に影口きかれてるかもしれませんよ。

 「おい聞いたかよー。旦那様、奥様のこと“ダーリン”とか呼んでたぜ」みたいな。失笑の声が聞こえてきそうなのです。マキシムの威厳が台無し・・・。

 暖炉の前でチェスをするマキシム夫妻は、どちらも楽しげで、なんの翳りもなくて、それが少し物足りなかったのでした。お互いに、腹のうちを探りあう的な部分も、あっていいんじゃないかと。舞台では仲のよい新婚さんという感じで、マキシムは、マキシムというより『そして誰もいなくなった』のロンバードさんという感じでした。山口さん、このシーンでは声が高かった。とたんに10歳くらい若返ってしまう。もう少し低めの声の方が、マキシムのイメージだと思いました。

 マキシムが「わたし」にキレるシーンは、マキシムの弱点を露呈してましたね。そうかー、やはりマキシム的には、レベッカの裏切り、しかもその行為を世間に知られること、が、この上ない屈辱だったのだなあと。マキシムにとって、マンダレイは宝物。その宝に少しでも傷がつくことが許せない。人に指をさされるなど、マンダレイではありえないことだったんですね。

 マキシムが「私に力を こんな夜こそすべてを忘れられたら」と歌うのにホロリ。「わたし」への愛おしさが歌わせた歌だと思いました。

 ジャック・ファヴェル役の吉野圭吾さん。ダンスがすごいです。体の動きにキレがあって、目を奪われます。ただ、惜しいのは、毒のなさかなあ。

 

 

 これは私だけのイメージかもしれないのですが、ファヴェルって、きっとギラギラした野心家だと思うんですよ。もうね、見てるだけで胸焼け、お腹いっぱーい、みたいな。もちろん格好よさもあるんだけど、それ以上に醸し出すのは、えげつなさであってほしい。うさん臭さもほしい。絶対まともな仕事はやってないよね、みたいな。

 ファヴェルが笑顔でなにかを勧めると、人は裏になにかあるのかと勘ぐらずにはいられない。そういう、あからさまな、嫌らしさがファヴェルには欲しいです。

 吉野さん普通にかっこいいので、ファヴェルの汚れたキャラからすると、爽やかだなあって思ってしまうのです。

 ファベルは、笑顔が腹黒い人がいいなあ。

 舞台に、巨大な額だけの絵が登場したのには驚きました。あれ、絵の部分真っ暗でしたよね。後ろの席で見てたんで、違ってたらすみません。さすが演出の山田さん。これ、山田さんのセンスですよね。きっとウィーンではやってないと思う。(単なる私の勘ですが)

 だってあそこにいるべきはレベッカですもん。そうですよ、レベッカの顔は、闇の中に沈んでいなくては。見る人の心の中にだけ、ぼんやりと浮かばなくては駄目です。額だけの絵という奇妙な情景に、想像力をかきたてられました。

 ベン役の治田敦さんは、歌いだしがいいです。すごく素直で、邪気がない。天真爛漫な子供って感じです。でも、「ベンはなにもしてない!」というところは、もっと感情的になった方がいいのかなあと思いました。

 ベンはきっと、心優しい、素直な人。マンダレイの人たちからも、大切に扱われてきたはず。それだけに、レベッカから受けた冷酷な仕打ちは、人生始まって以来の衝撃だったのではないでしょうか。初めて人に、粗雑に扱われたというか。

 だから、そのときのショックはきっと頭にこびりついているはず。そのときのことを思い出すだけで、どうして?と混乱して、パニックになってしまってもおかしくないと思うんですよね。それを考えると、明らかにレベッカのことを思い出しているはずなのに、あまり動揺してない感じは変かなと。

 たぶん、ベンは、マキシムの異母弟なんでしょう。マンダレイの、公然の秘密。母は身分が貧しいゆえに、また、ベンの成長に問題があるがゆえに、親子はひっそり、館の庇護を受けながら暮らしているのかなあ。そうでなければ、ベンがあまりいじめられずに育ったことの説明がつかないです。マキシムの異母弟という、無形の圧力が、周囲の偏見の目を遮断していた。

 だから、レベッカのような対応をされるのが、ベンにはショックだった。そういうことなのかなと思います。もちろん、そんなことは小説には出てきませんが。ベンの世界に初めて登場した、悪意ある存在が、レベッカだったのかもしれません。

 治田さんのよさは、声が純粋さを感じさせること。無垢なイメージがあります。これが強みで、天性のものだと思う。だからこそ、レベッカの影に怯えるときには、もっと感情のままに、大げさに怯えてもいいんじゃないかなあと。そこがまた痛々しく、レベッカの邪悪さを際立たせることになると思うので。こんなに純真なベンを恐がらせたのは誰なの?という疑問につながってきます。

 

 長くなりましたので、続きは後日。