『ラヴィアンローズ』村山由佳 著 感想

『ラヴィアンローズ』村山由佳 著 を読みました。以下、感想を書いていますが、ネタバレ含んでおりますので未読の方はご注意ください。

村山由佳さんの本を読んだのは初めてです。天使の卵シリーズというのが気になってはいたものの、今だ読んだことがなく。初村山さんがこの、『ラヴィアンローズ』になりました。

単行本の拍子のピンクのバラが美しい。そして、花束を結ぶ細いリボンのような書体の、La Vie en Rose も素敵。表紙を見ただけで、わくわくします。

全体的に読みやすかったし、続きが気になってどんどんページをめくりました。そして、率直な感想は。登場人物がみんな、あまりいい人ではなかった(^^;

主人公の藍田咲季子の性格には、読んでいて苛立ちを感じました。モラハラ夫に翻弄される描写が長くあって、もしかしたら作者的には咲季子=可哀想な被害者 みたいな位置づけがあったのかなと思うのですが、咲季子は決して、弱者ではないんですよね。経済的にも恵まれていて、もし離婚しても生活に困ることはない。考慮すべき子供もいない。独りで暮らすだけの知性も、胆力も十分に持っている女性なのに。

仮にモラハラに気付かず、苦しんでいるならまだ理解できる部分もあるんですけど、咲季子ははっきり気付いてますからね。自分が夫に不満を抱えていると。なのに、そうでないふりをしている。

嫌なら別れるべきだと思いました。耐えることで咲季子=被害者、みたいな構図が成り立ってしまうのが、ある意味卑怯ではないかなあと。夫婦って、鏡みたいなものだと思います。咲季子が不幸なとき、夫の道彦もやはり不幸なのです。夫だって、コンプレックスを払拭できず、迷路にはまりこむばかり。一緒にいても、お互いを傷つけあっている。

むしろ、別れた方が幸せな二人。咲季子も、道彦も。なのに、なんとなくずるずると生活を続けている。けれど、その生活がいつまでも(お互いに老衰で亡くなるまで)続くとは思えなくて。いつか、破綻がくるのは目に見えている。どちらが我慢できなくなるか、たぶんそれは、咲季子だろうなあと。

結局、その予想通りになるわけですが。咲季子はデザイナーの堂本裕美と出会い、不倫関係になる。

読みながら、そりゃそうだろうなあと思いました。不満があって、心の底では白馬の王子さまを探しているときに現れた相手。ルックスが好みで、自分と美的センスが合う相手。芸術肌の咲季子にとって、こういう感覚的なものは外せない条件でしょうから。

でも、その相手との出会いにも、なんとなく咲季子は自分の立場を利用しているように感じてしまいました。可哀想なモラハラの被害者、としての自分を。

本当に弱い人なら、モラハラから抜け出せないのも気の毒だと思いますが。咲季子は力を持ちながら、敢えてその立ち位置にとどまっているように思えてならないのです。可哀想な被害者、としての心地よさ。そこでは自分が被害者だから。救われるべきお姫様だから。

デザイナー堂本と、咲季子は、薄っぺらさも似ているなあと思いました。心よりも体で結ばれている相手のような。結局、大事なのは自分なのです。相手への思いやりは二の次。

堂本は最初こそかっこよく描かれていましたが、すぐにボロボロと仮面がはがれます。危険性も考えず、自分がもらうプレゼントのために、ルールを守らず電話したりとか。私だったら、その時点で堂本にげんなりするけどなあ。だって、相手を大事に思えば、慎重になって当然の関係性なのだし。もしかしたら咲季子が逆上した夫から暴力受けたりって、簡単に想像できてしまうではないか。なのに、その危険性より、自分がもらうプレゼントの方を優先するって、その時点で咲季子はちっとも大事にされてない。ATMって、このことなのかと思う。

危険を承知で、それでも送られてきたメッセージの内容が、「プレゼント1つじゃなくて、複数でもいいかな?」とか、私ならその瞬間に冷めるなあ。ああ、この人の愛情って、こんなものだったのかと。

まあ、そもそも不倫関係の始まりからして、咲季子の緩さがありましたが。どうしようもない感情の昂りでそうなったのなら仕方ないかなとも思いますが、車で自宅に戻ると言われた時点で、じゃあ降ろしてくれときっぱり言えばよかった。降ろしてくれないなら、信号でとまったときに降りればよかったし。そもそも車から降ろしてくれない相手なら、その後は2度と二人きりにならなければそれだけで、以後は危険性を回避できる。

ずるずると、そういう沼地の関係に陥ったのには、咲季子にも罪がある。堂本にも罪がある。

結局、夫の道彦もモラハラ最低夫ではありますが、咲季子も似たようなものだし、堂本も同じレベル。堂本を紹介した川島も、似たり寄ったり。咲季子を良く知っている川島には、咲季子と堂本を仕事で結び付けたら、結果どうなるかわかってたはずだしなあ。

ドロドロな不倫関係の末に起こった悲劇。その醜悪さと、咲季子の作った庭の美しさの対比がドラマチックです。薔薇が美しく咲けば咲くほど、その影で複雑に絡まる人間模様。人工的な薔薇には、素朴な美しさはない。プライドで塗り固めた、表向きの清潔さ。

咲季子も人工的だなと思いました。庭に道彦を埋めて、平気でいられることがまず、理解できない。まるでロボットみたいに感情がない。本当に庭を愛していたら、そこに人間を埋められるはずがない。見るたびに思い出してしまうでしょう。手塩にかけた大切な庭に、最大の罪の片棒を担がせるだろうかっていう。

夫婦関係も友人関係も仕事関係も。出会う相手、縁のある相手はみんな、同じレベルなんだなあということを思いました。とんでもない相手とは、そもそも出逢わない。そのことを考えさせられた本でした。

『累犯障害者』山本譲司 著 感想

『累犯障害者』山本譲司 著 を読みました。以下、感想です。

これは良著です。世の中の真実に光を当てた本だと思いました。私も今、知的に問題のある親戚の面倒を見ていますから、書いている内容にはとても共感しました。著者の思いには、すべて同感です。差別にならないよう、とても気を遣って書いているのも感じました。そうなんです。すぐに、差別だ差別だと叫ぶ団体も世の中にはいます。そしてそういう団体こそが、結局はこうした気の毒な障害を持つ人たちを、追い込んでいるのだと思います。

ホームレスの多くが、知的に問題があったり、精神障害があったりする人達なのは、見ていてすぐにわかります。本当に重度の人は福祉の手が差し伸べられますが、病気や障害でも軽度なら、福祉の手から滑り落ちてしまう。自由という名のもとに、不衛生で非人間的な生活を強いられていて。私はホームレスに関しては、以前からそう思っていましたが、この本で刑務所の実情も知り、これはなんとか、改善していかないといけない問題だと思いました。

ホームレスも刑務所も、結局一緒なんですよね。行き場がなければ、そのどちらかをうろうろさまようしかない。誰も導いてはくれず、そして原始的な本能は残る。お腹は空くし、人にバカにされれば腹が立つし、誰かに持ち上げられれば嬉しくて、善悪の判断もつかずに、騙されていることにも気付かない。

そして、親子二代、三代にわたって問題を抱える家族の話も、身にしみました。結婚相手も、生まれた子供も、自立した生活をしていく能力に欠けていたり。いくら結婚や出産が自由とはいっても、不幸が連鎖していくのは残酷な話です。私が面倒をみている親戚A(80代)も、知的に少し問題があります。けれど結婚し子供を複数もうけました。そして今、かつての結婚相手や子供達がどうしているかといえば、決して幸福な生活はしていません。Aが結婚し、子供をもうけたことを、私はよかったとは思えないのです。生きていれば命があればいいという話ではない。幸せに生きてこその人生だと思います。

一人で生きていけない人。判断力のない人を、ほいっと世の中に放り出せば、不幸でしかない。
管理者がいる生活を、福祉で実現することができたらいいのになあ、と思います。決められた生活が幸せという人もいるのです。自由は、自由を理解し選択する能力がある人にとって価値のあるもので、そうでない人にとっては逆に管理や束縛の方が幸せなこともあるのです。

人生は自己責任とはいっても、認知や判断力に問題のある人に対して、至れり尽くせりではなくても、基本的な部分だけでも手助けするシステムがあればいいなあと思います。後見人のシステムや、生活のための施設を作るということ。そして、弱者を守るための法の整備も、大切なことです。

知的に問題がある人が、性産業に従事するということには、胸が痛みます。自由だから、ではすまされない問題です。この本の中にその一端が書かれていますが、これが現実なんだと思います。

こんなこと言ったら失礼なのかもしれませんが、タレントの坂口杏里さんを見ても、せつないものがあります。ホストクラブで借金があったといいますが、返済能力のない人に貸す、貸し手側の責任も大きいです。あまりにも法外な借金には、法律で規制をかけたり、専門家の相談窓口を設けたりといった救いがないと、自己責任の一語で片付けるにはあまりにも気の毒で。

過去、社会問題化したサラ金も、金利のグレーゾーンにきちんと罰則を設けることで、被害が激減しましたよね。なぜ最初からそれをしなかったのか、法整備に時間がかかったのは、それまでに甘い汁を吸った人がいるのかなと思います。法で縛れば、闇にもぐる業者が増えるだけ、という意見もあるでしょうが、少なくとも簡単で気軽な借金は防げます。

刑務所の中というのはなかなか知ることのできない世界ですが、そこに存在する障害者の問題に、鋭く切り込んだ深いノンフィクションでした。著者の山本さんに敬意を表します。大変なテーマを、よく書いてくださったと思います。

『殉愛』百田尚樹 著 感想

 『殉愛』百田尚樹 著 を読みました。以下感想を書いていますが、ネタバレ含んでおりますので、未読の方はご注意ください。

 読後、一番に思ったのは、百田さんどうしちゃったんだろ…ということです、悪い意味で(;;;´Д`)ゝ 

 ノンフィクションのはずなのに、一方的な立場からしか書かれていません。記述は全部、さくらさんかさくらさんを擁護する人たちへの取材に基づくもので、この本は全編、さくらさんを褒めたたえる内容になっています。

 娘さんやKさん、Uさん、そして前妻さえも、ひどく性格の悪い人のように描かれているのですけれども。本当にそうなのだろうか?と、なにかもやもやした気持ちが残ってしまいました。

 特に娘さんに関しては、本当にお気の毒だと感じました。
 小さな頃に両親が離婚。お母様が亡くなり、たかじんさんのお母様の元で育てられたとのこと。こうした背景があったなら、なおさら、たかじんさんが亡くなるときに会うべきだったと思うのです。

 もちろん、父と娘の間でいろんな思いや、行き違いがあったのかもしれませんが、たかじんさんがたとえ「会いたくない」と言ったとしても、娘さんには、「会う権利」があるし、それはたかじんさんの思いよりも優先されるべきです。だって、親なのですから。

 まして、娘さん自身は他の報道でインタビューに答え、たかじんさんの入院先も、末期がんのことも知らなかったと主張されているようです。それが本当なら、この『殉愛』で悪者にされてしまっているのは、あまりにもひどい話だと思いました。『殉愛』だけ読んだ人には、娘さんはとても非情でお金に汚い人だと誤解されてしまいます。

 私は宝島社の検証本『殉愛の真実』の方を先に読んでいるので、いろいろ『殉愛』の矛盾が気になってしまう、というのもあるのですが、仮にこの『殉愛』を先に読んでいても、おかしいと感じたと思います。

 あと、この本は最初から最後まで、とにかく未亡人であるさくらさんを、賛美した内容になっていて、そのことにも違和感を感じました。
 二人の愛、を謳う本なら、たかじんさんも美化されているのかと思いきや、たかじんさんはだめな男として描かれているんですよね。女性関係のだらしなさなど。そして、おそらくさくらさんだけに打ち明けた心の内面、本当にこれは公開すべき内容だったのかなあ、と疑問です。
 二人だけの間のこととして、胸に秘めていてもよかったのかなと。この本を世間に発表することを、たかじんさんは本当に喜んでくれたのでしょうか。

 人それぞれ、考え方は違うと思いますが。
 もし私がたかじんさんだったら。自分がつけていたメモなどは、公開してほしくないです。そして、勝手かもしれませんが、自分の中の醜い部分は、そっと隠したままでいてほしいのです。いいことならともかく、恥ずかしい内容などは、世間に向けて公表してほしくないです。

 妻なら、もう少し夫を美化した内容を、本に載せるよう求めるのが通常ではないかと。
 たかじんさんが浮気癖のあるどうしようもない男である、という内容が本に載ることで、結果的に妻であるさくらさんは、ダメ夫を支える素晴らしい妻である、という印象が強いのですが。

 あれ、この本て、愛を描いた本じゃなかったっけ?
 一方的に、さくらさんサイコー、という、さくらさんの本になっていると感じました。

 そして最後に、これは一番まずいだろうと思ったのが、聖路加国際病院で亡くなった後、たかじんさんをお風呂にいれてあげる、という場面です。
 医師が「お亡くなりになりました」と言って、死亡診断書を書くために病室を出た後、寺田さんというナースマネージャーが「お風呂に入れてあげる?」とさくらさんに聞いて、寺田さんの許可のもとで、たかじんさんの体を入浴室に運んだとのことですが。

 体を洗ったり、洗髪したり、湯船に入れたりしたそうです。

 それは、たかじんさんが亡くなった後ですから、いわゆる湯灌のことですよね。でも、病院内に湯灌の施設なんてあるのでしょうか。これ、もしかして普通の入院患者さんが使う入浴室なのでは? だとしたら、いくら有名人とはいえ、衛生上からもとんでもないことだと思うのですが。もしそうだとしたら、美談でもなんでもないです。単なる非常識な行為になってしまいます。

 その点がとても気になりました。

 この『殉愛』、読んで感動は全くありませんでした。むしろ、??と思う点が多すぎて、百田さんどうしちゃったんだろうっていう疑問がわいてきます。
 これを、本当に感動の話だと信じきっているのなら、ちょっと…。

 闘病には各自、いろんな背景があるし。命に係わる病気なら、各々、家族は壮絶な看護になると思うんですよね。それは、誰かがすごいとか、すごくないとかではなく。誰だってそうだと思うんです。
 家族のために必死になるでしょう。
 読み終わって、たかじんさんの最後の2年が特別だとは、思いませんでした。

 どんな人生もその人の生き方であるので、この『殉愛』出版を含めて、たかじんさんの生き様だったんだろうと思いますが、娘さんに対してはお気の毒に思います。父に愛されていないように、本の中では描かれていたけど、それはやっぱりひどい話です。

 そういうことは書くべきではないと、そう思いました。

『殉愛 原節子と小津安二郎』西村雄一郎 著 感想

『殉愛 原節子と小津安二郎』西村雄一郎 著 を読みました。以下、感想を書いていますが、ネタバレを含んでおりますので、未読の方はご注意ください。

なぜこの本を読んでみようと思いたったのか。それは、この本のタイトルが『殉愛』だったからだったりします(^-^;

今年になってかなりの話題になったあの本。そう、百田尚樹さんの本が、同じ題名でしたね。百田さんのはまだ私読んでないんですが。金スマでその本の宣伝をしていたのを見まして。本のタイトルがすごいなあと。

殉死という言葉はありますが、殉愛とは。
金スマを見たとき、百田さんはどうやってこんな言葉を思いついたんだろうと思っていたら、2012年にすでに、同じタイトルの本が発行されていたではありませんか。それがこの、西村雄一郎さんのお書きになった、『殉愛 原節子と小津安二郎』だったわけです。

もうその時点で、私の中の百田尚樹さんに対する尊敬の気持ちが、すーっと冷めていきましたね。だって、本のタイトルがまるかぶりって、ライターとしてどうなんでしょうか? それも、辞書に載っている言葉ではなく、造語で。

一般的によく使われている言葉で、しかも二文字という短い言葉なら、タイトルがかぶるのも仕方ないです。

でも「殉愛」でかぶるのは意図的でしかないでしょう。特別な言葉です。実際出版する前に、必ず調べていたはずですから。もしこの言葉を本当に偶然に思いついたのだとしても、同じタイトルで以前出版されたものがあったら、それを避けるのが当然だと思います。

百田さんが出演したそのときの金スマの内容も、見ていてあまり納得できないもので。私は、どこかもやもやした気持ちを抱えていたところに、もうひとつの『殉愛』本の存在を知り。百田さんのは、たかじんの後妻のお話でしたが、西村雄一郎さんのものは原節子と小津安二郎を取材したものだと知り、ぜひ読んでみたいと思いました。

原節子さん。
私は出演する映画を一本も見たことないのですが、原さんが、小津監督の死後に、芸能界から姿を消した、伝説の女優さんということは知っています。
たとえ映画界から姿を消したとしても、請われて少しだけ、テレビドラマにゲスト出演したり、雑誌のインタビューに登場したり、そんなことがあってもおかしくはないのに。ただの一度も公的に姿を現さないというところが、とても神秘的です。他の女優さんではありえないことでしょう。

そこには何か、強い意志があるわけで。それを知りたいと思いました。もしそれが、以前からよく言われているような、小津監督への敬愛の念からだとしたら、「殉愛」という激しいタイトルにもふさわしい、愛の形だなあと思いまして。

そんなことが、実際にあるのだろうかと。

原さんと小津さんの間にあったものはなんだったのか。
読み終えてまず思ったのは、世間で言われるほど、原さんと小津さんの間にあった感情は、大きなものではなかったなあ、ということです。

意外でした。そこには人がうらやむような愛の形があるのかと思っていましたが・・・。もちろんこれは私の個人的な読後の感想なので、読者それぞれに読後の解釈は違うとは思いますけども。私は、二人の間にあったのは、「敬愛」のようなものかなあと、そんな感想を持ちました。

なぜ原さんが完全な引退を選んだのか。
そこには、小津さんへの思いとはまた別に、様々な要素が絡んだのではないかと思います。白内障を患った後、撮影中に目を傷めて入院したのが、一番大きかったのかもしれません。目が見えなくなったら、という恐怖は相当なものです。
撮影に入ってから、いちいちライトに注文をつけることは、女優さんにはその権限がないでしょうし、目を失うリスクを考えたら、引退を選ぶのも無理ないわけで。

そして、年齢的なこともあったのかな。主役から、上手に脇役へとシフトしていくことが、難しかったのかもと。出演作のほとんどが主役級で、毎年のようにたくさんの映画に携わって。もう十分やり尽くしたと、満足してしまったのかもしれないと想像しました。

きっと小津監督の作品で評価を受け、自分の中で達成感もあったと思うのです。だから小津監督が亡くなったとき、この先の自分を考えて、芸能界ではない、静かな世界に身を置きたいと考えたのかもしれません。

私はこの本を読むまで、原節子さんという女優は、小津監督への愛情が大きすぎたあまりに、小津監督の死を乗り越えられなかった。それが原因で引退した、と思っていました。でも、語られるいくつかのエピソードを読むと、原さんも小津さんも、それぞれ別に好きな人がいたり、してるんですよね。

たとえば、原さんの場合は、一番好きだったのが義兄の熊谷久虎さんだと思います。その他にも、噂のあった助監督もいたそうだし、ただ結婚をしなかったというだけで、普通に恋愛はいろいろあったのかなと。

一方、小津監督に関しては、これは私は突っ込みを入れたいです。
なぜなら、1935年(昭和10年)から、少なくとも1952年頃まで、小田原の芸者さん、栄(さかえ)さんと付き合っていて、結婚の話も出ていたというではありませんかw(゚o゚)w

そして1952年、小津監督と栄さんの結婚話が出たとき、同時に原節子さんとの結婚の話も出て、なんと栄さんが遠慮して身を引いたと言われているそうです。

全然殉愛じゃないじゃ~ん←(ツッコミ)

殉愛どころか、そういうのを世間では二股というのではないでしょうか。むしろこの場合、「私なんか・・・」と遠慮してそっと身を引き、決して週刊誌に暴露話を売ることのなかった栄さんの方こそ、殉愛ですよね。小津監督ではなく。

小津監督は、原さんとの愛を温めつつ、一方で栄さんとも。
大人の愛ってそんなものかしら┐(´-`)┌

小津監督と栄さんとは、二度も結婚の話があったそうで。親戚を含む周囲も、二人が結婚するだろうと思っていたそうです。ちなみに、一度目の結婚が流れた理由は、栄さんが家族を食べさせなくてはならなくて、彼女が芸者で稼がないといけないという・・・栄さんけなげです。

やっと家族のためでなく、自分のために生きることができるときがきて、今度こそ結婚となった、その時。相手には有名大女優との結婚話が持ち上がった。そこで、何も言わず静かに身を引くことができた栄さんには、本当に真の愛情があったんだろうなあと、そう思いました。

想像ですが、小津監督と原節子さんの関係は、生々しい男女間の愛情というよりもむしろ、お互いを尊敬しあう、一歩引いたものだったのかなあと思いました。それは恋愛ではなくて。

そして、恋愛という観点でいうなら、本に出てくる登場人物で一番純情だと思ったのが、映画プロデューサー、藤本真澄(さねずみ)さん。私は最初、この方を、「さねずみ」さんではなく、「ますみ」さんと読んでしまいました。

そうです! 女優に一方的な愛を捧げ続けるその無骨さ、不器用さ、純粋さ。そしてその名前。きっと、『ガラスの仮面』の速水真澄(ますみ)のモデルは、この人です。だって速水さんは養子になる前の旧姓、「藤村」ですもの。
「藤本真澄」と「藤村真澄」。偶然でしょうか? そこに関連性を推し量るのは、ロマンチックすぎるでしょうか。

映画の世界で大成功し、権力を手に入れ、華やかな世界で大金持ちになった藤本さんは、当然、女性からモテモテだったと思います。けれど生涯独身を貫いた。それは、心の中に、原節子さんがいたからなのではないでしょうか。

引退したにも関わらず、原節子さんには、毎月東宝から給料として、いくらかのお金が支払われ続けたそうです。その影には藤本さんの意向があったとか。1960年代には、もう結構ですと、原さん側から断りの申し込みがあったそうですが。そのときの藤本さんの胸中を想像してしまいました。
お金という形でわずかでも繋がっていた細い糸が切れてしまう寂しさは、いかばかりだったろうかと。

引退した女優に東宝から払われる異例のお給料は、藤本さんにとっての、届かない思いそのもので。

その他にも、藤本さんは原さんの土地の取得などに、関わっていたそうです。

そして、そんな藤本さんが何を語っていたかというと。

>原節子に、実は惚れてたンだよ、昔だけどね
(中略)
>それで、あきらめたのさ。しかし俺は、本当だよ、
>商品に手をつけたことは、一人もいなかったね。
>“清く正しく美しく” が我が社のモットーだからね

(『シナリオ』別冊「脚本家 白坂依志夫の世界」)

この言葉を、信じます。根拠はないけど、そんな気がするから。
もし藤本さんが原さんと一線を越えちゃっていたら、それこそ、
別に原さんでなくても、誰かと結婚していたと思うんですよね。
そして、藤本さんは会社からの給料という形でなく、個人的に
原さんを援助していたと思う。もし二人の関係がそうだったなら。

逆に、清いものであったからこその、東宝からの給料だったのだと、
そう思います。
原さんが、東宝からでないと受け取らないことを知っていたから、
藤本さんはそのように手配をしたのだろうし。
そんな藤本さんの配慮を知りつつ、原さんはしばらくの間、給料を
受け取っていたのだと思います。
二人の間には、言葉にならなくても、静かに通じるものがあったのかなと
そんなことを想像しました。

この本を読んで一番に感動したのは、小津監督よりも藤本真澄さんのことでした。
こんな人が実在したのですね。
まるで、漫画や小説の中に、出てくる人のように思えました。

『洗脳 地獄の12年からの生還』 ToshI 著

洗脳 地獄の12年からの生還 ToshI 著 を読みました。以下、感想です。

壮絶でした…。
なにもかも順調なときなら、きっと洗脳されるような隙はないでしょうが、人間関係に悩み、苦しんでいるときには、危ないですね。本来宗教は、人を救うものであるべきなのに、ToshIさんが入った宗教は、お金をとるばかりか暴言と暴力で人の尊厳を破壊し、ToshIさんの知名度を利用してまた新たな被害者を狙う、という、恐ろしいものでした。

芸能人が周囲の心配をよそに、宗教にはまる、というのは時々聞きますが、有名人でお金持ち、というのは孤独なんだなあと、あらためてそう思いました。身内ですら信用できないなら、誰を信じればいいのか。

本を読んでいると、信者時代にも、100パーセントの信仰があったわけではなくて、その時々において教祖や妻に対して、???と思うところもあったみたいですね。当時、テレビに映った姿を見ると、盲信していたようにみえたのですが、その影にはいろんな葛藤があったんだと、読んでみて初めて知りました。

こうして自分の体験を語ることは、これまでToshIさんの名前が勧誘に使われたことへの贖罪になっていますね。そして、今まで宗教とか洗脳とか興味がなかった人でも、ToshIさんの本ということで興味を持って読めば、洗脳の恐ろしさを知り、被害を未然に防ぐことができると思いました。

暴言と暴力で人を洗脳する、というのは、たぶん洗脳が解けた後だと、なんであんなことで騙されちゃったんだろうと思うけれど、その瞬間にはなんの疑いもなく、すーっと心の奥底に入りこんでしまうものなんでしょう。

ToshIさんを救ったのは、「おかしい」というご自身の絶対的な感覚と、それをサポートしてくれる周囲の人々でした。どちらが欠けても、脱出は成功しなかったと思います。

世の中には、本当に無償の愛で他人を助けてくれる人がいます。ひどい人もいるけどその一方で、同じ振り幅で善の方向に動く人もいるのです。

バンドメンバーの絆にも感動しました。誤解や喧嘩があっても、年月を経てわかりあえる瞬間がある。その絆は、本当に素晴らしいものだと思います。かけがえのない仲間は、ToshIさんの宝物です。

どんな宗教も、末端の信者さんはたいてい、純粋な善人ですね。そして心から他人の幸せを願い、布教に全力を尽くします。よかれと思って、人を誘います。だからといって、その宗教の幹部が、同じように善人であるとは限らなくて。

いろいろと考えさせられる本でした。