『彼女がその名を知らない鳥たち』沼田まほかる 著 感想

『彼女がその名を知らない鳥たち』沼田まほかる 著 を読みました。以下感想を書いていますが、ネタばれ含んでおりますので、未読の方はご注意ください。

沼田まほかるさんの本は、以前にデビュー作『九月が永遠に続けば』と、『アミダサマ』を読んだことがあるのですが、これらの作品についてはあんまりピンときませんでした。

『九月が永遠に続けば』は後味が悪く、現実感があんまりない話だなあというのが正直な感想だったし、『アミダサマ』に関しては、最後まで読むのが苦痛なくらい途中で飽きてしまいました。

それでも『彼女がその名を知らない鳥たち』を読んでみたいと思ったのは、タイトルに惹かれたのです。それと、二作を読んだ時点で、にじみでる文体の雰囲気に、のみこまれたというのもあります。独特で、他の作家さんとは違うなにか、があったから。

『彼女がその名を知らない鳥たち』も、後味の悪さという点では『九月が永遠に続けば』に対して負けていないのですが、とにかく一気に読めてしまいました。続きが気になって、夢中でページをめくるうちに、どんでん返しが来た、という感じです。

何が気になったかというと、主人公十和子は、前彼である黒崎に何をされたのか、ということです。姉から

>あのとき野々山の言うことを聞いて、
>警察にちゃんと被害届を出しておけばよかったのかもしれないって思うのよ

と言われるシーンがありまして、ますます謎が深まりました。

そもそもこの十和子という女性、嫌悪してやまない陣治という男と何故か同棲し、夫婦同然の生活を送っていまして。その辺が本当に不思議だったのです。

深い深い恋愛の末の破局、そしてその人と別れた空虚な穴を埋めるために好きでもない人と一緒に住み、寂しさを紛らわす、なんてことは。わからなくもない流れなんですけど、そうそう長く続くものでもないと思うんですよね。

陣治に対する、十和子の生理的な嫌悪感は相当なもので。とにかく、ずーっとその、嫌悪感の描写が延々続くんですね。生活のすべてが、陣治に対しての嫌悪で埋まってる。

そうすると、読者としては気になるのです。

なんで一緒にいるんだろう? ここまで嫌いな人と。
寂しさをまぎらすためといっても、時間がたてば、耐えられなくなるはずなのに。寂しさなんてふっとんじゃうくらいの、生理的な嫌悪感を持ってる人だろうに、なぜこの人は、自分の意志で同棲を続けるのだろう。

壊れてしまった彼女の感覚と、その行動。
そこまで追いつめた前彼は、なにをしたんだろう。どんな出来事が、彼女を変えたんだろう。

そして。普通なら、そうした恋人同士のあれこれって、表沙汰になることって少ないと思うのです。喧嘩とか、別れの原因とか。そんなもの、二人だけの間で完結するものであって、どんなにひどいことがあっても、それは二人の間だけの秘密、になってしまうってことが多いのではないかと。

前彼との関係が、警察沙汰になってしまった過去があり。それでもなお、過去の記憶に支配され続ける女性。そして、それほどひどいことをされながらも、いつまでも執着して彼を忘れられない女性。なにがあったのか、気になります。

陣治に対しての嫌悪感が語られれば語られるほど、気になっていくのです。

でも、真相は、語られてしまえば案外あっけないものでした。
十和子を利用して出世をもくろんだ黒崎が、すべてをばらすと言って怒った十和子に暴力をふるった、という。

なにか恐ろしく複雑で、とんでもなく絡み合った事情があるのかと構えていたので、真相がわかったときには拍子抜けしました(^^;

まあ、よくある話、という感じのトラブルです。
別れ話のもつれ、ということで。

それに、十和子を特別可哀想、とは思わなかったし、共感もしませんでした。デパートに対しては、クレーマーだったし、元々自己中心的だったであろう十和子。
黒崎に惚れたからといって、いくらうまいこと言われたからといって、他の人と・・という要求に素直に従ってしまうところが、まさに理解不能。

それ、言われた瞬間に、黒崎に愛情がないことはわかる状況じゃないですか。私だったら、百年の恋も一瞬で冷める。

どんな理由があろうと、そういうのは、好きな人にはさせないから。それをさせるってことは、愛情がないんです。さっぱり。もう、僅かな愛情のおこぼれを期待するだけの可能性も壊滅的なほどの、決定的な発言だと思うんですけど。

そんなこと言われてなお、黒崎の言葉に従い続ける十和子の気持ちは、全然わかりませんでした。

他の人と結婚する、と言われて初めて、激昂する十和子ですが。いやいや、その前に普通は、怒るし呆れるし、気持ちも冷めてしまうものじゃないかと。十和子が愛されていなかったということは、誰がみても明らかな事実で。

ちなみにこのときの黒崎の対応が、現実離れしていて、いまいち物語に入りこめませんでした(^^;
ここで十和子に暴力をふるうっていうことは、現実にはありえないだろうなあと。黒崎はずるい人ですから。自分の損になることはしないはず。

体に傷が残れば、十和子にその気がなくても、周りの人が不審がりますよね。一体どうしたの?って話になる。
黒崎と十和子の関係、そしてなにがあったのかを知れば、十和子の関係者は間違いなく、憤り、黒崎を訴えるでしょう。

精神的に傷付いただけならまだしも、体に残った傷跡は立派な証拠になります。

黒崎がずるい人間なら、十和子に暴力はふるわないと思います。むしろあそこで殴れば、逆効果。だって、もう失うもの、なくなっちゃうから。失うものがない人間ほど、恐いものはないと思う。
追い詰め過ぎてしまえば、相手は自爆するしかない。そうなれば、どんな説得もきかない。すべてをなくした十和子は、捨て身で黒崎に向かってくるだろうから。

甘い言葉で、言いわけを重ねつつ。曖昧な好意を匂わせながら、とどめで写真を持ち出し、脅す。

黒崎がうまいことやろうと思ったら、そういう展開が妥当かなあと思いました。

そもそも、十和子は黒崎を、本当に好きではなかったのかも、と。そんな気もします。

だから、非道な行為にも耐えられた。
好きな人に言われた言葉じゃなかったから。好きな相手に強いられた行為じゃなかったから。

陣治も。水島も。十和子にとっては、ひととき楽になれる相手、だったのかもしれないなあと。そこに愛はなかったような。

最後、陣治がとった行動は衝撃的なものでしたが。十和子が誰も愛せなかったのと対照的に(本人は黒崎を愛してたと思いこんでいるけど)、実は陣治こそ、深い愛情を持つがゆえに破滅した人間だったのかもしれない、と思いました。

彼女が知らない鳥の名前こそ。もしや「愛」だったのでは?と思う、そんな小説でした。

『無伴奏』小池真理子 著 感想

『無伴奏』小池真理子 著 を読みました。以下、感想を書いていますが、ネタばれしていますので未読の方はご注意ください。

そもそも、小池さんの小説を読もうと思ったきっかけは、8月5日の日経新聞に載った、「生と死の営み」と題する小池さんのエッセイ。小池さんの住む別荘地(軽井沢?)の描写があまりに鮮やかで、素晴らしくて、一気に引き込まれてしまった。
映像が目の前に、パーっと現れるような文章なのである。

光も、風も、音も、暖かさも。全部、体感できるような文で、私はすっかりその情景に飲みこまれてしまった。

小池真理子さんと言えば、小説家で、美人で、恋愛小説を多く書く人、というイメージがあったのだが、なんとなく作風が自分の好みではないような気がして、今まで一冊も読んだことがなかった。
でも、こんなに素敵な文章を書く人だったんだ~。読まず嫌いだったけれど、こんなエッセイを書く人なら、その小説をぜひ読んでみたい。

そうして手に取ったのが、小池さんの代表作。なんといっても、直木賞受賞作の『恋』。『恋』を手始めに、『欲望』、『無伴奏』と、3冊を読みました。これらは、恋・三部作だそうです。書かれた順番は『無伴奏』→『恋』→『欲望』なのですが、私は順番無視で読破(^^;

結果。
う~ん。日経に載ってたエッセイは大好きだけど、小説の方は、私の好みではなかったなあ、と。

登場人物に、全然共感できなかったのです。
登場人物の悩みが、とても小さなものに思えてしまって。私だったら、そんなこと全然悩まないだろうなあというところに、小説のキャラは深く煩悶しているから。

人それぞれ、悩みというのは違うのでしょう。
誰かにとっては、軽く受け流せることであっても。違う誰かにとっては、人生を左右するほどの問題に思えたり。

そういう意味では。こういう生き方もあるんだな、こういう考え方もあるんだなあと、新鮮な気持ちで読み進めました。三部作の中でも、『無伴奏』には、一番小池さん自身が反映されているみたいですね。

『無伴奏』のあらすじは、といいますと。

青春時代の忘れられない記憶をたどって、主人公の響子が仙台を久しぶりに訪れ、回想が始まる・・・。

あのとき、なにがあったのか。

高校三年生だった響子は、バロック音楽専門の喫茶店で、大学三年生の渉、祐之介、そして自分と同じ高三のエマと出会う。
響子は渉と恋人同士になります。祐之介はもともとエマと付き合っていて。四人は仲良く、交流を深めていくのですが。

最後に驚愕の事実が発覚。

実は渉は同性愛者で、渉と祐之介は相思相愛だった過去があるのですが、彼らはそれを断ち切ろうと、意図的に女の子と付き合おうとしていたという・・・。

まずその時点で、響子とエマが可哀想~でした。彼らの苦悶よりも。

響子は渉と祐之介の関係を知ってもなお、渉に執着し、エマと祐之介がカップルになれば、渉を祐之介に取られることはないという幼い考えから、エマには真実を教えません。

エマは祐之介に夢中になったまま、結局妊娠。
響子が、エマに彼らの本当の関係を教えていれば、あるいは、結果は変わっていたのかもしれませんが・・・・。

まあ、エマも祐之介に対しては物凄い執着ぶりで、もし別れてくれと言われても「いや」と、それしか言わない、なんて言いきっちゃってるので、本当の関係を知ったところで、ますます追いかけまわすことになったのかも。

祐之介は、エマの妊娠という事実を受け入れられずに殺人を犯し、服役。
そして渉は、祐之介の罪を背負おうとしたがそれもできず(いくら嘘の自供をしても、アリバイがあったので)、自殺。

この登場人物四人には、それぞれツッコミどころがたくさんあります。

響子に関していえば。
たしかに、好きになった相手が同性愛者で、その人には本命の恋人がいた、というのは、女子高生にはショックすぎる出来事なのかもしれませんが。でも、仙台に戻ってきて回想するとき、彼女は四十歳でもう他の人と結婚していて、七才の子供もいるんですね。
それなら、過去はもう遠い思い出になってしまっているのでは?と思うのです。

もし今も引きずっているなら、結婚もできないし、まして子供なんて、とても無理でしょう。

エマについては。

若いから仕方ないとはいえ、強引すぎるところが同情できないというか。相手に嫌われても、私が好きなんだからいいじゃないか。どこまでも追いかけてやる、みたいな考え方は、好感が持てませんでした。
逆の立場になったら、絶対嫌だと思うけどな~。
人の嫌がることをしたら駄目ですね。一方的な思いの押しつけなんて、暴力でしかない。

渉については。
響子に対し、僕なりにきみを愛してた、みたいなことを言うんですが。でもその愛って、祐之介に対するものと比べたら、天と地ほどの差があるよね~と、言いたくなります。
祐之介のことが好きだったなら、その愛はそのままでよかったんじゃないかと。無理に響子を巻き込まなくても。

読んでいて、響子に対しては、友人としての愛情以上のものは何も感じませんでした。まさに「利用」したんだなあという感じです。自分は女性も愛せるんだという証明のために、響子が必要だったのかと。
そして恋人同士になったことに満足し、自分自身に言い聞かせていたような。ほら、僕はちゃんと、普通だよって。

祐之介については。
この人が一番、ずるかったな~という印象です。出所した後、子供が三人いる女性とあっさり再婚。沖縄でお土産屋さんを経営し始め、遊びに来てねと渉のお姉さんに絵葉書を出すという・・・・。
すっかり、あの過去が遠い記憶になってしまっているという・・(^^;

苦悩の果てに死を選んだ、渉の立場がありません。

祐之介にとって、それは若い日の一時の激情だったのかと。だったら渉もそんなに悩まなくてもよかったのになあ。しかも渉、祐之介の犯した罪を、自分の罪と考えて、さらに暗い闇の中へ足を踏み入れてしまったわけで。

渉が思うほど、祐之介は思ってはくれなかったという、それが、残酷な真実なのでしょうか。

そもそも悲劇の根源は、エマの死にあると思います。そしてその死をもたらしたものは、エマの妊娠。祐之介がそれを望まないなら、なぜエマを妊娠させたんだろうか。
そこは、祐之介が一番気を付けるべき点じゃないのかと。

後から考えれば、いくらでも他に手はあったし。
傍から見れば、とるにたらない悩みであっても。

四人にとっては解けないロープで、ぐるぐる巻きになった、悲しい記憶なのかもしれません。

でも正直、この四人にはあまり、共感できないです。それぞれ、十分に恵まれた環境の中で、恵まれすぎたからこその悩みだったような。

特に響子。制服廃止闘争委員会の委員長・・・・。お嬢様ですなあ。
先生方、いろいろ大変だったろうなあ。

安保。三島。本の中には、その時代の空気が濃厚に流れています。
でも、安保を叫ぶ学生の多くは、それなりに裕福な家庭出身だったろうことが、皮肉な感じです。苦学生はそれどころじゃないし、当時、大学に行ける環境そのものが、ひとつの特権だったと思うから。

この小説に似合う曲は、『無伴奏チェロ組曲』よりも『青い影』のような気がしました。 回想に、後悔のエッセンスが滲むイメージです。

『星へ行く船』新井素子 著 感想

『星へ行く船』新井素子 著 を読みました。以下、感想を書いていますがネタばれしていますので、未読の方はご注意ください。

星へ行く船シリーズの中では『通りすがりのレイディ』が一番好きなのですが、記念すべき第一作『星へ行く船』もかなりの名作だと思います。
あらためて読むと、完成度が高い作品だなあと。

シリーズ物ですが、二作目以降はなくても、これだけでも単独の作品として本当に素敵に仕上がっていると思います。
あゆみちゃん×太一郎さんカップルの過去や、日常なんかがまだあまり描かれていない分、想像も膨らんで楽しいです。

シリーズ物って。
いろいろなことが具体的にわかっていくのは嬉しいのですが、その分、想像の余地がなくなってしまうという悲しさもあり。

この第一作『星へ行く船』はその点、主人公や太一郎さんの周辺がまだ曖昧さを保っているからこその、不思議な魅力があるような気がします。

なにより、まだ太一郎さんは、あゆみちゃんのことを「保護すべきお嬢ちゃん」としか思っていません。その距離感がいいのです。

そもそも、太一郎さんはあゆみちゃんは基本的にタイプじゃないだろうなあと。やっぱりレイディだろうと。そう思うのです。
感情同調能力を最大限発揮して、あゆみちゃんはそんな太一郎さんを捻じ曲げたんだな、きっと。

シノークという星で。
大沢さん、太一郎さん、あゆみちゃんが向き合う場面が好きです。事情を知り尽くし、暗黙の了解で通じ合う男二人と、お嬢ちゃん一名。この落差が、たまりません。

大沢さんが愛おしくみつめる視線。
裏切りにショックを受けるあゆみちゃん。
しょーがねーな、お嬢ちゃんを慰めつつ、大沢の芝居に乗っかってさっさとこの一件終わらせちまおう、という太一郎さんの平静さ。

このシーン見てると、太一郎さんがあゆみちゃんに惚れる要素がまったくみつかりません(^^;
ちょうどいい、からかいの相手というか。あくまでも保護すべき対象って感じで。あゆみちゃんのことは好ましく思ってるだろうけど、根本的な部分で、徹底的にそれは、いわゆる愛情には転化しないだろうなあっていうのが想像できてしまう。

砂漠のような不毛の地を、ひたすら二人きりで歩いていく。疲れた頃にどてっと砂の上にねっころがって、上をみると満点の星。このシチュエーションには憧れました。

いいなあ。遮るもののない場所でみる、満点の星。どんなに綺麗だろう。いつか、私も砂漠に行ってみたいなあ、なんてちょっと、思ったりして。

読み進めて思ったのですが、この小説の中で使われる「莫迦」って言葉の柔らかいこと! 本来の意味を忘れてしまうくらいに、優しいニュアンスで発音されているように思います。
そうそう、この小説読んで、バカには「馬鹿」以外の漢字がある、と私は初めて知ったのでした。そういえば、当時これ知ったとき、何度もノートに書いたな。この漢字。使ってみたくなって何度も。

もし、この作品に続きがなかったら。
それはそれで、もっともっと、読者の想像は広がっていたかな。

少なくとも私は、『通りすがりのレイディ』で早くもあゆみちゃんにゾッコンになってる太一郎さんは、想像していませんでした。

『通りすがりのレイディ』新井素子 著 感想

『星へ行く船』シリーズ 新井素子 著 を読みました。以下、感想を書いていますが、ネタばれ含んでおりますので未読の方はご注意ください。

番外編である『星から来た船』を読んだら、本編を読み返したくなり、久しぶりに星~の世界を訪れました。

懐かしいなあ。これ、私が中学生のときに夢中になって読んだ本なのですが。久しぶりに読んだら、当時とは全然違う感想を持ちました。

まず。主人公のあゆみちゃんに対して。

中学生だった私は、あゆみちゃんが大好きでしたし、すっかりあゆみちゃんの気分になって物語を楽しんだものでしたが。今改めて読みなおすと。

う~む。あゆみちゃんには共感できないな。今の私があゆみちゃんに出会ったら、多分、あんまり好きにはなってないし、近付かないだろうなあと。

このシリーズは5冊で完結してます。中でも、私は『通りすがりのレイディ』が一番好きです。タイトルが秀逸。
通りすがりのレイディ。う~む、簡潔にして的確、そして、深遠な言葉の羅列。

この『通りすがりのレイディ』は、ドラマや映画になったら凄く面白い作品だろうなあって思います。今ならCGもあるし、火星における近未来の生活を、嘘っぽくなく作れるのではないでしょうか。

キャスティングは。

あゆみちゃんが、京野ことみさんかな。
そして所長は、陣内孝則さん。
レイディは鈴木京香さんで、太一郎さんは…どうだろう。思い浮かばないや。皮肉屋で自信家で、でも実力あって、う~ん。誰だろうなあ、芸能人で言うと。

『通りすがりのレイディ』(以後、『通り~』と略します)は、中学時代に読んだ時と今とでは、感想が違ってくる作品です。

今になって、「それはないだろう~」とツッコミを入れたくなる部分がいくつかあるので、書いてみたいと思います。

まず。レイディは木谷氏と結婚したとしても、太一郎さんの弔い合戦が終わるまで、子供を産むような人じゃないと・・・思う。これは本当に、そう思う。

太一郎さんでさえ、やられてしまったほどの巨大な組織、陰謀ですよ。それを相手に、たった一人で(結婚して木谷氏と二人で、かもしれないけど)戦おうとしている聡明な彼女が、子供を産むはずは、ない。

まあ、木谷氏は分別ある大人の男性なので。本人がどうしても、とそれを望むなら。レイディさえ木谷氏を信用すれば、二人が結婚して、共に闘うっていうのは、ありだと思うんですよ。木谷氏を危険にさらすこと、これはまあレイディの中では許容範囲かも。
でも、その最中で子供を産むなんて無責任なこと、レイディに限って、ありえない。

そして、子供を「太一郎」と名付けるにあたっては、本当に、狂気の沙汰としか思えません。レイディは、そこまで愚かで失礼な人ではないだろうと。
なんといっても、太一郎さんが初めて(と思う)惚れた相手ですからね。

生まれた子供に、前彼の名前をつける…こんなひどい話って、あるんでしょうか。相手の人にも失礼だし、子供に対しても、こんな馬鹿にした話って、ないと思うんです。

名前って、とても大事なものだから。親が子供に贈る、最大のプレゼントじゃありませんか。それを、いくらなんだって、前カレの名前をつけるって、感傷は自分一人の胸の中にそっとしまっておきなさいっていう話です。それは、現夫や子供を、愚弄するようなセンチメンタリズムでしかない、と思います。

あとね、事件解決の後に、病室でレイディと再会したときの太一郎さんなんですが。

「夕飯が腐っちゃったでしょ!」とひっぱたかれて、逆に、「こっちにはこっちの事情があったんだ!」とレイディをひっぱたき返すシーン。
ありえないなあ、と思いました。

太一郎さん。女性に手をあげる人じゃないと思う。基本的に。
それプラス。夕飯が腐っちゃったっていうレイディの言葉にこめられた万感の思い、悟らない人ではないと思う。

聞いた瞬間。誰より深く、レイディの悲嘆と苦しさを、理解したんではないだろうか。レイディは、太一郎さんのことを、片時も忘れてはいなかったのだから。思い出にするよりも、その傷口をいつまでも疼かせることで、自分を支えてきたのだ、レイディは。
それがわからない太一郎さんでは、ない。彼が、レイディを叩けるはずが、ない。

それに、この場面。
もし太一郎さんなら。あゆみちゃんのいないところで、ちゃんとレイディと対峙したと思う。二人きりの場を作ること、太一郎さんなら簡単にできるし。
久しぶりの再会を、あゆみちゃん抜きにすることは、レイディに対する礼儀だったと思う。それをやらなかった太一郎さんは…魅力が半減してしまう。

私が『通り~』で一番心に残ったのは、レイディが語る、太一郎さんの昔からの癖。
自宅で人を待つ時、カーテンを左側に半分寄せる、その癖。

中学生の頃は、「あ~そうか。昔はレイディを待っていたけど、今はあゆみちゃんが恋人で、だからあの日はあゆみちゃんを待ってたんだな。あゆみちゃんが訪ねてくる予定の日だったもんな」なんて、単純にそう捉えていたんですけど。

今読むと。私には、太一郎さんが待ち続けていたのはレイディではないかと、そう思えてなりません。

再び火星に帰って来た日から。レイディが去ってしまったと知った日から。太一郎さんはずっと。レイディを待ち続けていたんではないだろうかと。二人で暮らした懐かしい場所に留まり続けたのは、そのためで。引越すことだってできたのに。
いつかレイディが戻った日に。すぐわかるように。
使っていた調理器具も処分しなかった。それは、彼女を待っていたからではないかと。

そして私は思うのです。本編最終巻で明かされる驚愕の事実。あゆみちゃんの持つ、「感情同調能力」のこと。
この小説はコバルト、という少女向けに書かれたものであり、ハッピーエンド前提であったのは暗黙の了解で。本作を最初に読んだ当時、まさに少女だった私は素直に、「感情同調能力にも負けない愛が、太一郎×あゆみカップルにはあったのね。素敵!」なんて、無邪気に感動したものですが。

今はこう思えてなりません。
太一郎さん、思いっきりあゆみちゃんの感情同調能力に捕われちゃったんじゃないのか、と。それはつまり、あゆみちゃんが人生始まって以来の強い想いを、太一郎さんに対して抱いたから。初めて人を本気で好きになり、まっすぐに太一郎さんのことを思ったから、彼はその強烈な力に抗えなかったんじゃないかと。
もちろん、あゆみちゃんの持つ能力の特殊性ゆえに、彼がそれを「自分の意志である」と勘違いしてしまったのは、無理もありません。それに、どこかでそれを疑ったとしても、証明する術などどこにもなくて。

四六時中。日を追うごとに強くなる思い。あゆみちゃんから発せられるその思い。
あゆみちゃんが強力な感情同調能力の持ち主であったなら。その思考波の中で、どれだけ太一郎さんは自由でいられたのか、疑問です。

上記のようなことを考えつつ、P28の場面を読むと、感慨深いです。

昔、太一郎さんの部屋で彼と共に過ごしていた幻の恋人の存在を、知りたくて、でも聞きたくなくて、苦悩するあゆみちゃんを前に。
たまんない表情。完全に優しい表情になって、語りかける太一郎さん。

>「あのね」

言いかけた言葉は、あゆみちゃんが電子レンジのチャイムを口実に逃げ出して、最後まで続くことはなかったのですが。

あれって、本来の太一郎さんの最後の抵抗だったのかも、なんて。
あのときだけは、感情同調能力の呪縛、少しだけ解けていたのかも。だから、あゆみちゃんには理解できない、優しい表情になったんだろう。レイディと過ごした記憶が、大きな力になって太一郎さんを動かした。
あゆみちゃんの能力はそのとき、少しだけ、負けたのかも。

そう思うと、P105の描写にも、最初に読んだときとは違う感覚を覚えるのです。

>「今は、あの人、あなたを待っているの?」

レイディには、他意はなかったでしょう。きっとレイディは知っていた。太一郎さんが、自分を待っていたこと。彼がそういう人であること、誰より深く、理解していた。だから、聞いた。

勝てないよ、あゆみちゃん。
でも勝っちゃう。
だって、感情同調能力者だから。無敵だもんね。

『通りすがりのレイディ』は、シリーズの中でも一番の傑作だと思います。

『星から来た船』 新井素子 著 感想

『星から来た船』新井素子 著 を読みました。以下、感想を書いていますが、ネタばれ含んでおりますので未読の方はご注意ください。

『星へ行く船』シリーズの番外編です。本編の主人公は出てこないですが、太一郎さんと真樹子さんの出会いが描かれています。

読み終えて、まず、思ったこと。

太一郎さん、本当に真樹子さんのこと好きだったんだなあ。そして、真樹子さんも。

星へ行く船シリーズが好きだった人には、ぜひお勧めしたい番外編であります。太一郎さんの昔の恋人、レイディこと真樹子さん。そして、宇宙船の爆発事故前、まだ若くてきらきらしてて、恐らく、それなりにいい人達、善意だけに囲まれていた時代の太一郎さんに出会えます。

真樹子さんと太一郎さん。宇宙船の事故によって引き離された二人ですけれども。もしあの事故がなかったら。

さしものあゆみちゃん(本編主人公)も、二人の仲に入ることできなかっただろうなあって、そう思いました。

宇宙船の事故を境に、たぶん太一郎さんの物の考え方って激変したのではないでしょうか。真樹子さんが心配して待っていることを知りながら、すぐに帰れなかった。それには、それだけの深い事情があったわけで。

なんだか、この『星から来た船』時代の太一郎さんからは、純朴さを感じます。きっと、まだ、本当の「悪」を知らない、幸福だった時代。真樹子さんとの出会い。怖いものなんてなにもなくて。全てが、輝いていて。

本編を読んでいた頃は、あゆみちゃんと太一郎さんのカップルを応援し、なんとなく真樹子さんを、「二人の恋路に影さす人」的に思っていたのですが。『星から来た船』を読んでしまうと、逆に、真樹子さんと太一郎さんの絆の強さを感じてしまいました。

あゆみちゃんはあゆみちゃんで愛されてるけど、思いの深さは。むしろ、真樹子さんの方が深いんだろうなあ、とか。

太一郎さんが、心のすべてを見せるのは、たぶん真樹子さんの方だろうなあ、とか、思ってしまいました。あゆみちゃんに対しては、どうしても、庇護者としての意識が勝ってしまいそう。

本当に運命のカップルだったのは、レイディと太一郎さんだったのね、と、読後、ほろ苦い気持ちになるお話でした。