『twilight』Stephenie Meyer 著

『twilight』Stephenie Meyer 著 を読みました。以下、感想を書いていますが、ネタバレを含んでいますので、未読の方はご注意ください。

映画『トワイライト~初恋~』の原作です。日本語訳はティーン向けの小説となっているそうですが(私はまだ未読)、この原作の方は、大人が読んでも十分に楽しめる内容だと思いました。

吸血鬼もの、というところにまず、私は心惹かれて本に手を伸ばしたんですよね。映画のタイトルに「初恋」とつくところがまた、せつなくて。

ヴァンパイアに恋した人間の女の子。それが初恋だったら、きっと泣けるなあと。ぜったい、叶うはずないし。でも初恋なら、どんな計算もなくただただ突っ走って、転んですりむいて、痛くて泣いて。それでも何度でも立ち上がって、その人の影をいつまでも追いかけるのかなあって。

日本語訳でなく原書を選んだのは、日本語訳のタイトルがまず、あまり好みではなかったからです。「愛した人はヴァンパイア」。う~ん、まあ、そういうお話なのだけれどあまりにストレートすぎて、う~ん。このタイトルだと、コミカルな香りもしますね。それと表紙のイラストが、やっぱり十代向けなので、私にはあまりぐっときませんでした。

ということで、原作本。これはまず、装丁のセンスが抜群です。『twilight』『new moon』『eclipse』『breaking dawn』の4冊で完結しているのですが、それぞれに描かれた表紙の画像が美しいのです。

すべての始まり、『twilight』は、赤いリンゴを両手でそっと包みこみ、こちらに差し出す誰かの腕を描いています。差し出す腕は白く、頼りなげで細いのですが、りんごだけが現実感のある赤さを放っていて。これは主人公の高校生、ベラの純粋な気持ちを表しているのかなあと思いました。

そこには顔も体も描かれていない。ただ腕しかないのですが、だからこそ闇の向こうに、読者は自由にベラを想像することができるのです。

読み終わった後に思いました。ベラはやっぱり、眩しいほどに若いのです。だから本当に、まっすぐなんだなあと。りんごを差し出す手に、迷いはないのです。逆に、自分がもしヴァンパイアのエドワードだったら、こんな風に気負いなくりんごを差し出されたら、その純粋さに感激するだろうなあって思ったのです。

私が一番心を打たれたのは、やはり本の最後の部分ですね。瀕死のベラを、必死で蘇らせようとするエドワードの描写です。

ベラはぼーっとした頭で、それを最初はエドワードではなく、天使の声だと思うのですが。

いかにも純愛というシーンだなと思いました。ベラはわりと達観してる部分のある女の子だと思いますが、いつもは冷静で本当はベラよりずっと長い時間を生きているエドワードのほうが取り乱して、乱れた感情をとりつくろう余裕もなく、ただただ彼女の生還だけを祈る。

この時点だけを取り出してみれば、相手へ向ける愛情度は断然、エドワード>ベラ です。

ベラの愛情は、このときにはまだ薄かったのか・・・その後はともかくとして、この時点ではあまり、エドワードに対する執着は感じられないような気がします。

>And please, please don’t come after him.

(お願いだから、彼を追わないでね)

ベラに万一のことがあれば、エドワードは怒り狂って「彼」をどこまでも追いかけるだろうに。それをどこまでわかっているのか、ベラはあっさり、上記のようなメモを残すわけです。そのへんの幼さが、なんとも言えません。たぶんベラ自身、この時点ではそこまでエドワードを想っていないのかなあ、とさえ思ってしまうような文章。

読みながら、「そんなの絶対無理でしょ」と、思わず心の中で呟いてしまいましたもん。目の前にありありと想像できましたよ。ベラを失い、自分に残されたエネルギーの全てを、復讐に変えるエドワードの姿が。怒りの蒼い炎がゆらゆらとエドワードを包んで、きっと彼は自らの存在意義を賭けて、ベラを奪った「彼」と対決したでしょう。決して、「彼」を許さなかったでしょう。ベラが懇願することがどれだけ無駄か、それがわかっていないところがまた、ベラの幼さだなあと。

ベラを失いかけたエドワードの悲痛な叫びが、印象的な『twilight』でした。しかしこれは始まりにすぎず、次の『new moon』では、また驚きの展開が、2人を待っていたのです。

ということで、『new moon』についてはまた後日書きます。私は、『twilight』以上に、『new moon』が好きになりました。

『永遠の仔』天童荒太 著

『永遠の仔』天童荒太 著 を読みました。以下、感想を書いていますが、ネタバレを含んでおりますので、未読の方はご注意ください。

以前、中谷美紀さんと渡部篤郎さんでドラマ化されていましたが。児童虐待という重いテーマだと聞いて見る気になれず、この原作も、評判を知りつつも手が出せないままでいました。

今回読んでみて、やっぱり何度も読み返すのはつらい本です。

ただ、伝わるメッセージはあるし、登場人物一人ひとりに、考えさせられるものがありました。

病院の児童精神科に入院していた3人の子供達が、物語の中心です。

看護婦になった久坂優希。当時のあだ名は、ルフィン。

弁護士になった笙一郎、あだ名はモウル。

警察官になった梁平、あだ名はジラフ。

この中で最後まで一番救われなかったのは、やっぱり笙一郎ですね。せめて優希と一緒に生きることができたならよかったのに、と思います。

笙一郎はかたときも優希を忘れたことはなかった17年だったのに。顔を合わせても優希は最初、彼だとわからなかった、というところが二人の温度の違いで。

それでも、優希を本当に救えるのは彼しかいなかったと思うし、笙一郎を本当に救えるのは優希だったのに、それを知らずに彼は行ってしまった、と思うのです。

自分は資格を失ってしまったから。

そう思いこんで、優希に思いを残しながらも、ずっと遠くから見守ることしかできなかった笙一郎が、せつなかったです。

第三者的な立場から見たら、あの岩場での実行犯が誰だったか、それは、笙一郎がそこまで思いつめるほどの重大な出来事ではないのですが。でも笙一郎がそれをとてもとても大事なもの、と思いこんでいた気持ちは、痛いほどわかるのです。

きっと彼は、大切な人と交わした約束を破られる悲しさを、誰よりも知っていたから。約束の重みを知る人だったからこそ、自分を責めて、責めて。優希の目に映る自分を恥じもしただろうし、そのことに彼女が傷ついただろうと、心を痛めたんだろうなと思います。

結局、再会後の優希が好きになるのは、ジラフではなくモウルでしたが。これは当たり前ですね。モウルはいつも、優希のために献身的でしたもん。ジラフはそこのところ、ちょっと自分本位だったかな。

ジラフがモウルと優希に嫉妬するところで、げんなりしました。

うーん。それは正直な気持ちではあるかもしれないけど、あからさまにするのはどうよ、と。これがモウルだったら、心中はともかくとして、決して自分の嫉妬心をあらわにはしなかっただろうし。まして、その嫉妬を相手に悟らせて、気持ちの負担になるようなことだけは、絶対に避けようとしただろうなあ。

二人を、ことに優希を幸せにすることが、モウルの望みだったろうから。

私は、モウルが優希を家に泊めたシーンが、印象に残っています。

もう本当に、痛々しいほど気を遣って、彼女をお姫さまのように大切に、大切にするのですよね。

彼女が家に泊まるんだから、ということで、自分は家を出て。

目覚めた頃に、着替えを持って現われて、それからまた出て行こうとして。

脱衣場で、モウルと優希が見つめ合うシーン。

優希の気持ちがわかるような気がしました。

なんでそこにモウルがいるのか、とか、そのときは、そんな疑問なんてきっと、全然なかっただろうな。認めてほしい、というただそれだけで。

ただ真っ直ぐに、ちゃんと見つめてくれればそれでよかったのに。モウルが目を落としたのを、見捨てられたように感じたと思う。

そしてモウルも。この辺の描写がとてもせつないですね。

混乱していた、というのも無理のない話で。「自分には資格がある」とモウルが思っていたなら、違う展開もあったと思うのですが。「資格がない」と思いこんでいるからこそ、モウルは優希に立ち向かえないのだと。

もちろん、傷つけるつもりなんて全然ない。むしろ、傷つけないために、自分は去らねばならないと思いこんでいる。

すれ違ってばかりの二人を、もどかしく感じました。

私は物語の中に登場する、奈緒子が嫌いですね。

ジラフがやったこともずいぶん大人げないと思うけど、そういう人を選んだのは自分の責任もあるんじゃないかなと。

無理やり一緒にいたわけじゃない。行為の結果がどんなものか、そんなことを知らないほど子供でもなかっただろうに。

奈緒子は寂しかったんだとは思います。だけど、だからって人を巻き込んじゃいけない。まして、あんなにひどい経験をしてきた、奈緒子よりよほど傷ついてるモウルに、罪を重ねさせるようなことをするなんて。

優希を憎むのも、筋違いな話だと思いました。

人の心がどう動こうと、それを思い通りにしようとするほうがおかしい。誰を好きになろうと、そんなものはその人の勝手なわけで。

ジラフの心に優希がいる。それが嫌なら、別れたほうがいいです。優希を好きなジラフを丸ごと受けとめられないなら、本当にジラフが好きじゃないんだと思う。

それに。きっとジラフは奈緒子を好きじゃないですね。

ただひとときの慰めというか、一人でいるよりもましな気分になれるから、一緒にいるんだと思う。

たとえ、少年時代の優希への思いをいつまでも大切に抱えていたとしても。奈緒子と本当に恋人同士なら、とっくに結婚していたでしょう。そうしないのは、奈緒子とは「違う」んだって、ジラフがわかっていたからだと思います。

奈緒子を見捨てられず、引きずられたモウルが可哀想でした。

奈緒子は電話でモウルを呼び出しましたが、そういうことをするのは本当に、卑怯です。呼び出すなら、同性の友達か、もしくはカウンセラーにかかるべきです。

最後。モウルが描いた結末は、モウルなりに最良の結末だったのかもしれません。もう抱えきれないほどのものを背負っているのがわかったから、私は他にどうすればよかったか、なんて思いつかないのです。

モウルはがんばったんだと思います。がんばってがんばって、それでももうどうしようもなかった。だから。

優希の気持ちに気付かず行ってしまったことだけ、残念でした。知っていたらきっと、すごくうれしそうに笑ったんだろうなと、思います。

『RURIKO』林真理子 著

『RURIKO』林真理子 著を読みました。以下、感想を書いていますが、ネタバレ含んでおりますので、未見の方はご注意ください。

この小説が、浅丘ルリ子さんをモデルに書かれたということに、読んでいる途中で気付きました。有名なスターの名前がそのまま、たくさん出てくるので興味深かったです。

今回初めて知ったことが2つ。

その1。浅丘さんが石原裕次郎さんを好きだったということ。

その2。浅丘さんが、美空ひばりさんと結婚する前の、小林旭さんとつきあっていたということ。

この2つ、今まで全然知らなかったです。というか、浅丘さんがモデルだとはっきりわかるような本で、この事実を公表してしまっていいのか?と、人ごとながら心配になったりして。当時、噂としては、皆が知っていることだったんだろうか。

当然、浅丘さんが文章に目を通した上で、出版されているんだとして。このインパクトはすごいと思う。週刊誌が書くのとは、全然違う。

今までの人生を振り返って、ふと。自分の歩んできた道を、本という形で残すのもいいかもしれない、そんな気持ちになって、林真理子さんの取材に応じたのかな? 読んでみた私の全体的な印象としては、「裕次郎さんへのラブレター」、です。

最初は、よくある憧れというか、初恋みたいな。そんな淡い気持ちだと思ったのですが。浅丘さんの人生の中の、一つのエピソードにすぎないと思ったその出会いが、その後、こんなにも彼女の心に残るものとなるとは。本の中で、裕次郎さんと出会った後の浅丘さんの心には、常に裕次郎さんの影が寄り添っていて。繰り返し繰り返し、消えない気持ちと、葛藤しているように思いました。

裕次郎さんの奥様は、女優だった北原三枝さん。

この本を読んだら、気分を害してしまわないだろうか、と、ちょっと心配になったりして。私が北原さんの立場なら、正直なところ、あまりいい気分にはならないと思う。

もちろん、浮気したとか、そういうことではないけれど。むしろ、思いは哀しいくらい、浅丘さんの一方通行で。裕次郎さんの心は、北原さんにあって。

だけど、読んでると迫ってくるものがあるのです。ああ、そうか。本当に好きだったんだなあって。きっと浅丘さんが今までで一番好きになって、忘れることができなかったのは常に、裕次郎さんだったんだろうなあって。

同じ俳優の仕事をしていて、共演することもあるわけです。手を伸ばせば、ぶつかるくらいの距離にいる。だけど、永遠に届かない、その苛立ち。

すぐ目の前には、北原三枝さんもいる。近い距離。

浅丘さんはきっと、裕次郎さんを眺め、寄り添う北原さんを眺め。いったい、自分と北原さんの違いはなんだろうと、不思議な気持ちになったのではないでしょうか。北原さんの位置に自分がいても、おかしくはないのに。こんなにも願うのに、と。

浅丘さんと裕次郎さんが映画の撮影でアフリカに行き、満天の星を眺めるシーンの描写が、とても美しかったです。

浅丘さんにとって、一番心を許せて気楽だったのが小林旭さんで。逆に、ずっと憧れ続け、怖れにも似た気持ちで慕い続けたのは、石原裕次郎さんだったのかな?と思いました。

『チーム・バチスタの栄光』海堂尊 著

『チーム・バチスタの栄光』海堂尊 著を読みました。以下、感想を書いていますが、ネタバレしていますので、未見の方はご注意ください。

面白かったです。主人公、田口公平のぼーっとした感じと、コンビを組む厚生労働省のお役人、白鳥圭輔の変人ぶりが、絶妙のバランス。

物語の舞台は、とある大学の付属病院。難しい心臓手術にも関わらず、驚異の成功率を誇ってきた、通称“チーム・バチスタ”という外科手術チーム。しかし立て続けに、3件の手術が失敗する事態が発生。果たしてそれは、医療過誤か殺人か。

病院長に内部調査を命じられた田口と、後から合流した白鳥が、事の真相を解明していく、というもの。

登場人物のキャラがそれぞれ際立っていて、ああ、こういう人いるよなあと、感心したり共感したり。

一番友達になりたいのは、白鳥さん。ずーっと一緒にいたら疲れるかもしれないけど、話してたらずいぶん楽しそう(^^)

高階病院長は、白鳥さんを「ロジカル・モンスター」と評したけれど、頭脳明晰、一刀両断の切り口は、読んでいて胸がスカっとしました。

人をどうやって分析するか。参考になります。

一対一で話すときに得られる情報と、二対一のときに得られる情報と、それぞれ違うんですねえ。

それと、わざと怒らせることで相手の、普段隠された一面を吐き出させるっていうのは、さすがだなあと。

とりつくろった仮面を上手に引き剥がし、沸点に達するぎりぎりのところに、うまくもっていくというその手法。

その人の本音というか、素の部分って、怒った瞬間に現れるものですもん。そりゃあ、普段の人間関係で白鳥さん的なことを日常的にやっていたら孤立してしまいそうですが、人の命がかかった内部調査。しかも時間がない、となれば。

白鳥さんの無駄のない采配ぶりは、お見事!の一言でした。

アクティブ・フェーズ、パッシブ・フェーズという、違った方向性からの切りこみは参考になります。普段の日常生活にも、応用できそうな気がする。

登場時は、厚労省の役人とはいえ、左遷で閑職ポストにまわされた冴えない人ということで、情けない感じが漂ってましたが。

実は、表と裏、両方の肩書きを持っていて。田口さんの前では「大臣官房秘書課付き」の方を名乗っていたのに、リスクマネジメント委員会の席上では、堂々と「中立的第三者機関設置推進準備室室長」を掲げる。そして、そこでの自己紹介も、田口さんの前とはまるで違う、その立場にふさわしい立派なもの。

ここら辺の切り替えがしびれますね。さすが!です。

映画『早春物語』で林隆三さんが演じていた役を思い出しました。あの映画の中で、林さんは知世ちゃんに、「クズ鉄の行商みたいなことをやってる」的なことを言って、まだ若い知世ちゃんは、「よくわからないけど大変そうだなあ」みたいな感じで同情するのですが。

いざ会社を訪ねてみると。実は大企業の役職付でびっくり、という。

白鳥さんて、最初はずいぶん、あまりにも攻撃的すぎるというか、直接的すぎるトークの人だなあと思ったけど。人を調査するときには、それが逆に、相手の安心感を勝ち得る武器になるような気がします。

私がもし調査対象者だったら。

変におべっかを使われるより、その方が気が楽かもしれない。

それに、社交辞令なしの本音トークなら、よけいな修飾語がない分、こちらも気を遣わなくて済む。妙なワンクッションをはさむことで、時間を無駄にすることもない。

相手が直球なら、こっちも直球でいい。その気楽さが、より多くの情報を集めることにつながるのでは?と思います。もしも直球に隠された意味もわからず、ただ腹を立てるだけの人なら、怒ることで平静を失って、より多くの情報を落とすことにもなるし。

白鳥さんのやり方は、調査方法としては効率的だなあと。

外部から来た人間だから、やれる手法ではあるのでしょうね。これ、その後もそこで働き続けるとなったら、やっぱり気まずいだろうなあ。短期の関わりで、いずれそこを去ることが決まっている人だからこそ、後くされなくやれるという。

そして、白鳥さんが攻撃的な分、ただ黙ってそこにいるだけの、田口さんの存在が生きてきます。ほっとする存在。暴走する人を、いざとなったら止めてくれるんじゃないかという、白鳥さんにとっても、調査対象者にとっても、ありがたい要の存在。

登場人物で気になった人と言えば、まず大友さん。

酒井さんと一緒に、白鳥さんの聞き取り調査を受けるわけですが。かなり厳しい白鳥さんの言葉に、大友さんが泣き出します。私は最初に読んだとき、白鳥さんひどすぎるなあと思ったのですが、「田口センセか酒井先生に守ってもらいたくて、泣いて見せただけ」という白鳥さんの言葉に、そう言われてみればその通りだろうなあ、と納得してしまいました。

泣くといっても、思わず涙がこぼれてしまったという状況ではなくて。もし大友さんに本当に、自責の念みたいなものがあったら、白鳥さんを恨めしく思いつつも、「確かに私が未熟な面がありました」と言ってるんじゃないかと。そして、少しでも事実の解明に役立つよう、自分にできる限りの情報提供は、してるんじゃないかなあと。

「私はこう思います」という自分なりの釈明みたいなものが、あまりなかったところに、大友さんの甘えを感じてしまいました。

大友さんの前任者、星野さんの才能のこと。

新しくチームを組んだばかりで、仕方ないとはいえ、場の雰囲気にあまり馴染めていなかったこと。

この辺は、つらいかもしれないけど、プロとして話すべきことだったような気がします。話してる途中に、つい涙してしまうのは仕方ないとはいえ。

ただ泣くだけ、というのはやっぱり、どこかで「慰められる自分」「かばってもらえる自分」を、期待してたところがあるのかなあ、なんて思いました。

誰が悪い、という責任のなすり合いではなく。今後に役立てようという真相究明の調査なのだから、自分にできる精一杯をやるのがプロではないかと。

そして私は、白鳥さんが酒井さんにはっきり、「うぬぼれがない分、垣谷先生の方が外科医として格上」と言いきったところに、激しく共感したのでした。

ああ、こういうのってすごく、わかる気がする。

あの人よりはまし、という変な優越感を持つよりも、自分より上の人を比較対象にして、上を目差せということですよね。

垣谷先生は、酒井先生と比べてどうこうなんて、そういう次元よりもっと高みにいて。尊敬する桐生先生と自分との比較にこそ、焦点を当ててる。だから、そもそも酒井先生がどうこうなんて、眼中にないのです。そんな比較など、なんの利益も生み出さないから、興味もないでしょう。

自分をよくわかっている、という点で、たしかに垣谷先生の方が上だと思いました。

桐生先生が、星野さんを採用した理由も、すごく共感しながら読みました。たしかに、技術や経験がある分、逆に使いづらいということもあるわけで。それは、白紙ではなく、すでに罫線が引かれたノートだからこその、抵抗がやりづらいということで。

白紙でも。その場ですぐに反応し、スポンジが水を吸収するように、早いスピードで成長できるものなら。完成形に近いノートより、製本前の、白紙の方が扱いやすいこともあるのだと。

ただ純粋に。疑問だの抵抗だの、そういうものを全部、横において。与えられた知識をあまさず、飲み込んでいく姿勢。それさえあれば、時間の経過とともに、経験者以上の結果を出すこともできるのだと知り、力付けられたような気分です。そうか。つまり、人間には無限の可能性があるということなんだよなあと。

やろうと思ったその瞬間から、成長が始まるのだから。

チーム・バチスタの中心、桐生先生と鳴海先生の関係については、そうだったのかーと驚きです。

苦しかっただろうなあと。二人とも。

思いやりが逆に、重い鎖になって絡み付いて。動けば動くほど、それが締まっていくような。でもどっちが可哀想かといえば、桐生先生の方かな? 桐生先生の立場だったら、自分から楽になる方法は選べないと思うので。

うーん。でもプロとしては、職業人としては、その判断でよかったのか?とは思いますが。つらくても、決断するときというのはあるわけで。優先順位を考えたら、自分がどれほど悩もうとも、やっぱり1位は決まってますもん。

この小説は映画化もドラマ化もされてますが。

映画化されたときの白鳥先生役が、阿部寛さんということを知って、ぴったりだと思いました。この変人、キテレツキャラの雰囲気に合ってます。阿部さんの、好奇心に踊る目だとか、そこはかとなく漂う自信が、白鳥さんそのものだと思いました。

映画版では、桐生先生の役を吉川晃司さんということで、これまたナイスキャスティングだなあと唸ってしまいます。自分では思いつかなかったけど、いいですねえ、この配役。桐生先生の、神経質そうな感じがよく出てる。それと、弱さ、脆さみたいなものを併せ持つ感じが、なんとも言えません。内面を、傲慢にならないよう配慮されつくした薄いプライドで、そっと覆った感じ?

ドラマだと、仲村トオルさんが白鳥先生をやったそうです。これはイメージ、ちょっと違うかな。仲村さんだと、まじめすぎる感じ。白鳥さんて、論理的に物事をズバズバ切り捨てるけれど、それが冷たくみえないのはオトボケキャラだからであって。仲村さんがそれをやってしまうと、かなり冷徹な人物に見えてしまうような気がします。あと、二枚目すぎるところがちょっと。

ちなみに、私が田辺先生のイメージだと思うのは、筒井道隆さんです。ぼーっとしていて頼りなさそうで。でも、肝心なところはちゃんと、わかってる人で。

扱うテーマは重いのですが、登場人物が魅力的で、ぐいぐい引き込まれる小説でした。あっという間に読了しました。

『怪人二十面相・伝』北村想著

『怪人二十面相・伝』北村想 著を読みました。以下、感想ですが思いきりネタバレしていますので、未見の方はご注意ください。

そもそも読み始めたきっかけは、金城武さん主演の映画でした。予告編がテレビで流れているのを見たり、映画の宣伝でテレビの番組に出ている金城さんを見て、「これ原作があるなら、読んでみたい」と思ったのがきっかけです。

そして読み終えた後・・・。

これ、原作と映画って、全然違う話じゃないですか(^^;

私、映画は見ていないし、今後もたぶん見ないと思うんですが、小説だと二十面相は誰かに罪をきせようなんてしていないですし。

むしろ劇場型犯罪。誇示することに喜びを感じているのが二十面相であって、映画のように、無関係のサーカスの青年に汚名をきせるなんてことは、ありえないわけで。

映画と小説は全く別の媒体だから、表現が多少違うくらいならありえる話ですが。ここまで異なった話だと、そもそもこの小説に「原作」の名を負わせることも、どうかなと思います。ヒントを得た、とか、オマージュ、というのもなにか、違うような。

描こうとしているものが、違いすぎると感じました。

で、どちらが私の好みだったかというと、断然小説の方です。映画を見ていない段階で断言してしまう。

映画は、予告編を見たときにまず、ちょっとがっかりしました。

冒険活劇みたいになっていたから。アクション映画?みたいな。せっかく二十面相を描くのに、コミカルなイメージが強くて残念です。

アクションはあってもいいと思うし、それこそ今の特撮技術で、二十面相の鮮やかな立ち回りを見ることができたらワクワクしますけど、それだけで終わってほしくないというか。江戸川乱歩の描いたあの時代の、陰のようなもの。闇のベールを纏ったおどろどろしさ、を見たかったです。暗い映画だとヒットしにくいから、明るく万人受けするものにしたのかなあ。

金城さんが「オレ? 違うよ!」と明るく否定したり、松たか子さんが令嬢だったり、という時点で、乱歩ぽさはないんだなあと。

小説の方は、平吉の成長物語ですね。戦前・戦中・戦後と、たくましく生き抜いていく平吉の姿が心強かったです。もう物語の始めから暗い話なんですが、でもあまりつらくならずに読めたのは、平吉がたくましかったから。

子供だけど、自分で環境を受け入れて、明日へ明日へと歩き続けていく。振り返ってグジグジ悩んだりしない。

サーカス団に入る経緯からして、相当なものですが。でも平吉は、すぐにそのサーカス団に居場所を見つけ、師匠をみつけ、自分の道を切り開く。

大人になった平吉が、昔の自分と同じようなシンちゃんに、稲荷寿司を持たせてやるところがよかったです。平吉も、センセにもらったアンパンがよほど嬉しかったのでしょう。

小説の中で、一番の悪人が、驚いたことに小林少年! この展開にはびっくりしました。小林少年、明智先生までも蔑視しているような印象をうけます。性格悪いなあ~。怪我の恨みをいつまでも引きずっているけど、そもそも爆発の原因を考えたら、誰も恨めないんじゃないかと。それどころか、かばってもらったからこそ、それだけの怪我で済んだのになあ。

幸子さんの最後には、ぐっとくるものがありました。最初はサーカス団の団長のお嬢さんだったのに。人間の運命は、どこでどう変わるかわからないものです。

たぶん、身を引いた平吉には、ずっと特別な思いを抱いていたんでしょうね。だけど再会したときにはもう彼女は、平吉の横に並べる資格を持っていなかった。

もうね、平吉と再会したそのときから、ゆっくりと落ちていくしかない哀しさみたいなものを感じました。その坂は急勾配ではないけれど、でもゆるやかに下るしかない。一方向に。

昭和・サーカス・二十面相。独特の雰囲気を味わえる小説です。