『雪の断章』佐々木丸美著

『雪の断章』佐々木丸美著を読みました。以下、感想を書いていますが、思いきりネタバレしていますので、未読の方はご注意ください。

斉藤由貴さん主演の、映画のほうを先に見て、それから原作を読んだのだが。

面白かったです。ハイ。佐々木丸美さんの本は、以前に『沙霧秘話』とか『水に描かれた館』を読みましたが、文体があまり好きになれず、自分とは合わない作家さんだと思っていました。

でも、この『雪の断章』は違います。上記の二作は、修飾語の多用と抽象的な表現が多くて、ストーリーそのものよりもイメージ映像を見せられているようで、抵抗があったのですが。この『雪の断章』はもっとすっきりしてます。普通に読める。

それと、映画で感じていた疑問点が、原作を読んで多々解消されました。

大まかなあらすじは原作も映画も一緒なのですが、映画は肝心なところが改変されていたり端折られていて、惜しいなと思いました。原作そのままを映画にするというのは無理としても、押さえていてほしいポイントがずれていたのが残念です。

小説は、孤児だった七歳の飛鳥と、それを引き取って育てた青年祐也、その友人史郎、彼ら3人の感情の移り変わりを、丁寧に描いた作品です。

原作を読んで一番驚いたのが、最後の最後で祐也が、飛鳥の口から本当の気持ちを無理やり語らせる場面です。私は映画を見たときには、「自分は黙ってるくせに、飛鳥にばかり喋ることを強制して、ずるい人だな」と思ったのですが、そういうことじゃなかったんですね。

飛鳥に「偽善者」と言われたその日から、祐也は自分からは何も言えない立場になってしまっていたんだと。そのことが初めてわかったのです。

そうだったんだ~!!と、目から鱗がポロリ。

信頼していた母代わりの家政婦さんから、ひどい言葉を聞かされて飛鳥は傷ついただろうけど、それと同じ位、祐也だって傷ついていたんだなあと。もうそれ以上、一歩も動けないくらい。だから、飛鳥には何も言えなかった。飛鳥から言ってくれなければ、魔法は解けない。

ここに至るまでの過程が、映画では端折られすぎているのです。映画は時間の制限があるから、そこまで細かいところが描けないのは仕方がないことかもしれませんが、これはこの物語の要の部分なんですよね。

映画を見て、祐也をずるい人だと思った私の印象は、このたった一言であっさりと覆されました。

>「偽善者と決め付けられた時からおまえに近づけなくなったのだ」

小説の中では、祐也は飛鳥ほどには饒舌ではなくて。だけどこの一言で、これまでの寡黙さを許せてしまう。そうかー、そりゃそうだよな、という納得。

もし自分が祐也の立場なら、きっとそうしていた。

「偽善者」と言われて、誤解を解こうとして飛鳥の腕をつかんで、それを冷たく咎められて。その瞬間、今までとは違う自分になったんだと思う。

気軽に笑い合える関係ではなくなったというか。ちゃんと、距離を置かなきゃいけない存在になったというか。そりゃあもう、今までとは段違いの慎重さで、飛鳥を見守るようになったはずだ。

このシーンが、映画だと全然違うんだよなあ。

偽善者と告げるのは、電話越しだし。シャワー浴びてたうんぬんの、意味不明なセリフとか、斉藤由貴ちゃんのデコルテのサービスカットとか。

それに、映画だとそこまで様子がおかしい彼女に対して、出張中の彼は、悠然と構えすぎ。慌てて帰ってくるのが当然の反応だと思うんだけど。映画の場合、彼女の「偽善者」という言葉を聞いてなお、平然と他の女性と食事を続けていて。受けたショックの大きさが全然、表現されてないんだよね。

腕をつかんで、飛鳥の思わぬ拒絶にあい、それを気まずく離すシーンは、小説と違って空港になっている。これは、小説通りに、朝の食卓のシーンのままの方がよかったと思う。日常が、日常でなくなってしまう決定的な場面だから。毎日繰り返される平凡な光景が、その日を境に変わってしまうというのが肝なのに、空港だとインパクトが弱い。

映画の雄一(小説では祐也)は、人間らしさのない、顔のない人物として描かれていたように感じたけれど、小説はもっと、身近な存在だった。神様じゃなくて、そこには苦悩もちゃんとあって。私の好きな表現は、たとえばこんなところ。

小説の中で、史郎のプロポーズを受けることを、飛鳥が祐也に告げるシーン。

>祐也さんの声がかすれて聞こえたのは自分の耳のせいだと思った。

そりゃ声もかすれますって。自分の好きな子が、自分の親友と結婚するって宣言する瞬間だもの。飛鳥の耳のせいなんかじゃなくて、祐也は実際ショックを受けたのだろうし、飛鳥を失う現実を目の前に突きつけられて、でも冷静を装うために必死に自分を立て直していたんだと思う。

映画よりも小説の方が人間ぽく描かれていて、私は小説の方がいいなと思いました。一方、映画のいいところはキャスティングのよさ。

斉藤由貴さん、榎木孝明さん、世良公則さん、イメージはそのまんまなのです。

ただ、映画の中では榎木さんはほとんど、偶像的な撮られ方しかしていなくて。感情の揺れは、あまり表現されていなかったのが残念です。本当は祐也だって十分に、悩んだり苦しんだりしたのですが。飛鳥と暮らす、日常の中の祐也の、微妙な表現が見たかったなあと思いました。

映画で原作の改悪だと思ったのは、世良さん演じる大介(史郎)のテトラポットのシーンですね。これ、小説では出てこないし、これを映画に入れる必要性が、全くわかりません。史郎って、そんな人ではないと思う。これじゃ、史郎がただの弱虫で、死を盾に愛を請うような卑劣な人間に見えてしまう。

それと、時系列が違っているところ。

映画だと、史郎の死の直後に、飛鳥の渾身の告白、ラストシーンがあるわけですが。これはどうかと思いました。飛鳥、いいのかそれで・・・。 相変わらず、このときの祐也は全く顔が撮られていないし。わざと撮らないことで観客の想像力を煽ったのでしょうが、ここは榎木さんの演技が見たかったな。

小説の方が、納得のいくラストでした。史郎がああいう選択をした気持ちがわかったし。

>「いつわかったのだ?高校二年の冬じゃないか。大学受験を放り出した時だな?」

>おだやかな笑顔が、叱られてすくみ上がっていた私をほぐした。

この描写を読むと、史郎の絶望がわかります。顔は笑顔なんだけど、全部終わったことを悟った瞬間というか。このとき、史郎は幕引きをはっきりと決めていたんだと思います。その笑顔が想像できて、ゾクっとしました。凄みがある。

映画だと、気持ちはいつも切り取られた状態で表現されているというか、断片的で。そこに連続性がないから、共感しにくいというか、わかりにくかったです。でも小説だと、細かい心理描写があるので理解できました。

飛鳥が、絶対言えないと思っていた気持ちを告白するシーン。それは、小説の中では、厚子との往復書簡があったからこそです。飛鳥が姉と慕う厚子と手紙のやり取りをする中で、徐々に気持ちが変化していくのが丁寧に描かれていました。

映画だと、まるで史郎のことがきっかけで、祐也に告白したような流れになっているのですが。それはちょっと無理があるかなと。飛鳥のことだから、逆に史郎のことがあれば、ますます口を固く閉ざしたんじゃないかと思います。

映画よりも、私は小説の方が好きです。美しいファンタジーとして楽しめました。

『涙』乃南アサ著

『涙』乃南アサ著を読みました。以下、ネタバレを含む感想ですので、未読の方はご注意ください。

最終的な謎解きまでの、話の流れがうまいなーと思いました。ただ、これはタイトルが合ってないです。「涙」って、いう話ではないような。そりゃ泣けるけど、でも、涙がメインテーマではないような気がします。

Sound Horizonの歌で、『辿りつく詩』というのがありますが、それに近いものを感じました。

簡単なあらすじを書きますと、恵まれて育ったお嬢様の萄子が、「忘れてくれて、いい」という電話を残して消えた刑事の婚約者、勝を捜し求める物語なのです。消えたときの状況から、勝には先輩刑事の娘を殺害した容疑がかかっており。

周囲から、「忘れろ」と忠告を受け続けながらも、萄子はお嬢様とは思えぬ行動力で、わずかな手がかりを頼りに勝を探し続けて・・・。

勝の逃避行に関わるのは、幸せに生きているとは言えない人たちばかり。そうした人たちと触れあいながら、自分とは違う世界に逃げていった勝の足跡を、ひたすら追い求める萄子の姿がけなげです。

ある日突然、結婚を約束した大好きな人が理由も告げずに消えたとしたら・・・。その後の行動は、愛情の深さによって変わるでしょうね。その人のことをよく知らなかったら、自分の知らないなにかがその人にはあったのだと、諦めるでしょう。でももし、本当にお互いに信頼しあい、将来を誓い合った相手だとしたら、私もやっぱり、追いかけるだろうなあ。

なにも理由を話さないで黙って消える、というのは卑怯な話で。心変わりなら、それはそれで仕方ないけど、でも萄子と勝のようなシチュエーションは、あまりにも酷。萄子が前に進もうとしても、もやもやは消えないし、過去を断ち切るのが難しいのは当然です。

すべてが明らかになった後では、勝の気持ちもわかりますが。結局正義感が強すぎたというか。自分の行動が許せなかったんでしょうね。客観的に見れば不可抗力の不幸な運命に見舞われたわけで、どの段階でもいいから全部ぶっちゃけてしまえば、周囲はもっと救われたんでしょうけど。一人でうじうじ悩んでいるから、結果的に追いつめられてしまったわけで。

もっといい方法は、勝さえ真実を明らかにする勇気があれば、いくらでもあったと思います。

勝の弱さが、どれだけ多くの人を悲しませたか。それを考えると、勝の行動は愚かすぎます。ただ、同じ状況に追いつめられたとき、「私は絶対にそういうことをしない」と言いきれない自分がいるのも確かで。

それは結局、勝が、弱い自分を許せなかった、ということにつながるのかな。自分の醜態をさらすくらいなら、いっそ消えてしまえみたいな。自分が小さな存在であると、ときには間違いを犯すこともある、判断を間違えることもある愚かな人間だと、認めることができたら。事態はもっと早く収束しただろうし、萄子の追跡劇もなかったわけで。

勝の行方を追う萄子の成長ぶりも、見事に描かれてました。いろんな人を知り、その好意に支えられる中で、萄子が世の中の裏の側面を知っていくのです。ただ、なくしたおもちゃを取り戻そうと泣き喚く子供ではない、萄子の姿がそこにはありました。例えば年下の洋子との出会いは、萄子の考え方に大きな影響を与えたと思います。

宮古島の再会シーンは、圧巻でした。これ以上はないと言えるほどドラマチックな状況です。かき乱される萄子の心と同じ位、屋外で荒れ狂う台風。でもだからこそ、本当に二人きりの状況で、誰の邪魔が入ることもなく真実が聞けた。萄子は納得し、自分の居場所は勝の傍ではないことを思い知った。この台風がなければ、勝は本当のことを話してくれなかったかもしれません。

「幸せになれ」という言葉。それは、最高の贈り物だったように思います。たぶん、その言葉がなかったら、萄子は萄子で、後悔する部分があったんじゃないかと。自分以上に勝が傷ついたのを知っているから。自分が幸せになることに罪悪感を覚え、心のどこかで「もっといい方法はなかったか」と悩む日々が待っていたんじゃないかと。

その迷いを断ち切るのが、「幸せになれ」という勝の言葉だった。萄子が幸せになることが、勝の幸せでもあるのなら。

萄子がその後の人生を、振向かずにまっすぐ歩いていけたのは、この言葉が大きかったんだろうなあと思います。

変な人じゃなきゃ、好きにはならなかった

グリーンノートってどんな香りだろうって気になっていて。それは以前の日記にも書いた『変な探偵』のヨモギさんがその香りだって書いてあったから。

ヨモギさんの、カタカナな名前もいいなあ。敢えて普段は、「蓬」ではなく「ヨモギ」と表記するこだわり。こういうセンス、けっこう好き。

カタカナにすることで、生生しさがなくなる感じがある。透明感が増すというか。「蓬さん」は「蓬さん」としてとらえる。そこには生活の匂いがある。だけど「ヨモギさん」になると、急に遠い人になる。敢えて断ち切ってるって感じで。いろんなものを。
カタカナの名前って、なんとなく一旦、全てが白紙になったイメージがあるんだ。
そのカタカナの名前は、うり坊の見た探偵さんの姿、そのものなんだろう。

漢字の名前は、見た瞬間、聞いた瞬間、そこからすぐにイメージが広がる。だけどひらがなやカタカナの表記は、相手を一瞬、戸惑わせるようなところがあるかも。私はよく、音を幾種類かの漢字に当てはめて、「こうかな? それともこんな感じ?」なんて、とっさに試してしまう。イメージの広がり方に、両者は違いがある。
目の前に広がる、真っ白な空間。そこを埋めていく作業が始まるのだ。
何の情報も与えない。他と区別するための、最小限のメッセージ。何者でもない。何と思われてもいい、ただ自分はここにあり。他とは違った存在だということ。

グリーンノートって活字を、漫画の中に見たとき。私はとっさに、芝を刈った後の匂いを思ったのでした。あれ、大好きなんだよね。清清しいような、懐かしいような。あの匂いをかぐと、思わず深呼吸してしまう。そして、思い出すのは、教室にいる自分で。

記憶が、学生時代に戻ってしまう。遠くで聞こえる、運動部の声。机の木目。窓の向こう、銀杏の並木。芝を刈る、機械の低音が静かに響いてる。

ああ、そうだなあ。あの頃は学校で定期的に、芝を刈る人がいた。それは夏で、機械のモーター音と共に漂う、芝の独特の香りが私は大好きだったっけ。夏の空は青く晴れ渡って。入道雲がぽっかり浮かんでたっけ。

ヨモギさんによく似合う。グリーンノートって言葉自体が。草とか森とか、自然の風ってイメージだから。

そして私は、その名もずばり、エステバンの『グリーンノート』というルームスプレーを捜し求めてデパートへ。かなりワクワクしていた。だって、この『グリーンノート』のキャッチコピーが素晴らしいんだから。期待は高まるというものです。

>プロヴァンスの森で見つけた
>みずみずしいシトラスグリーンの香り。

このコンセプトを読めば、気分はもう南仏です。変に甘ったるくない爽やかな草原の風を想像していた。そして匂いを試してみると・・・。
あれ。想像してたのと違う。

期待が大きかっただけに、拍子抜けした感じ。すくなくとも、「コレだ!!」的なものではなかった。

私はむしろ、都内のとある神社に出かけたときの木の匂いに、ヨモギさん的なものを感じた。その神社の森、吹き抜ける風の匂い。湿気を含んだ夏の暑い空気。決して強い匂いじゃなくて、植物の清浄な香りが、ふっと鼻先をかすめる、みたいな。
これを香水にするのは、難しいかもね。植物のいろんな成分が渾然となって醸し出すものだから。

境内は、小さな森だった。そこを歩いて上空を眺めると、空を覆う木の葉の切れ間から、太陽の光が射してきて、それがとてもきれいで。何度も立ち止まって、深呼吸した。体中の毒が抜けていくような。

山に行きたい、とは前々から思ってるけど、その代替地としてこの小さな森が、今の私のお気に入りなのだ。中でも、1本のクスノキを「私の木」と決めている。勝手に。

ときどきここに来て、両手をクスノキに当てて、心の中で会話してみる。「元気にしてた?」みたいな、他愛もない事柄。離れるときには、「またね」と心で呼びかけながら帰る。こういうことを繰り返していると、ただのクスノキが自分にとっては特別な、大切な木になってくる。

ヨモギさんは人間というより、なんとなくここの木みたいな人なんだな。私のイメージの中では。普通に黙って、ふらりと境内を散歩してそう。なんにも話したりしないで。それで、ふらっと消えそうなんだな。ある日突然。なんにも言わないで。
その人が暮らした痕跡も、生きてきた歴史も、なにもかもなくなって。まだらに思い出だけが残りそう。それでときどき、ヨモギさんに縁のあった人がこういう場所を歩いて、不意に思い出すの。

ああ、ヨモギさん、今どうしてるんだろうなって。

そんなことを、つらつらと考えたりしました。

『変な探偵』茶木ひろみ著

『変な探偵』茶木ひろみ著、を読みました。感想を書きますが、ネタバレ含んでおりますので、未見の方はご注意ください。

同じ作者の『銀の鬼』が好きだったので、どうしても読みたくて買ってしまった。『銀の鬼』と同じ匂いのする漫画。

主人公のうり坊こと、水乃うり。そして、探偵の蓬(よもぎ)スエノスケ。この2人の関係がなんとも、せつないものでした。2人は似ている。似ているから惹かれあう。

『銀の鬼』の島影十年より、私はヨモギ氏の方が好きかもしれない。巻末の、ヨモギ氏の過去にはドン引きしたけど。あのエピソードはいらなかったな・・・。というか、信じてない。信じてないから、好きでいられる。

漫画なので。好きなように解釈すればいいと思ってる。だから私にとっては、あの巻末エピソードはなかったことになってます。きっとヨモギ氏には別の、もっと違うなにかがあったんだな、うん。

素敵なセリフがありました。

>永遠の未完成のまま広がっていける相手をです

>そういう魔法はとけません

これ、ヨモギ氏がうり坊に言うセリフなんです。いいなあと思いました。未完成だから、魔法がとけない、か。そんなものなのかもしれない。未完成で、かつ広がることのできる相手。それが可能だとしたら? そんなパラダイスって、あり得るんだろうか?

ヨモギ氏と、うり坊の内面については、あまりはっきりと、具体的には描かれていないところもあるのですが。作者の言いたいこと、なんとなくわかったような気がしてなりませんでした。もちろん、私の勝手な思い込みかもしれないけど。

2人とも必死。その必死さに、共感するというか。うんうん、わかるよ、みたいな。どうしてうり坊が家を出たのか、どうしてヨモギ氏に惹かれるのか。怖いと思いながら、その一方で安心している部分があるのは何故なのか。そこらへんが、すーっと入ってくる。違和感なく。

でも、できればヨモギ氏には、うり坊に近付いてほしくなかったなあ。そういうキャラじゃないと思う。あくまで、感情を抑えた目で見ていてほしかったというか。必要以上に近付き過ぎのところが少し、気になりました。

舞台『レベッカ』で繰り返し「愛とはなにか」なんて歌われていたけど。この漫画の中でも、ヨモギ氏が印象的なことを言ってます。

>殺すのと愛するのと、同じ意味かもしれませんよ

これは違うでしょう。それは全然、真逆だと思う。殺すのは、自己愛にすぎない。相手が自分の思い通りに動かないからって、心まで無理やり奪うのは、それは相手を好きなんじゃなくて、自分が好きなんだと思う。「○○さんを愛してる、そんな自分が好き」ってことで。

自分がもし逆の立場だったら? たまらない話だと思う。勝手に好きになられて、勝手に「自分と同じだけの愛情を返してくれないから」という理由で殺されるなんて。思い通りになれ、という傲慢な態度には、嫌悪感しか感じない。

幸せって、たぶんそれぞれ人によって形が違う。その人の幸せが、自分以外のところにあるなら、悲しいけど仕方ないと思う。私なら、無理やり自分に振り向かせようなんて思わない。だって、誰を好きになろうが、それこそ自由だもの。

その人が、その人の幸せをみつけてくれれば、それでいい。

強がりじゃなくて、本当にそう思う。その人が幸せに笑ってくれたら、やっぱり嬉しいもの。

このお話、内容は『銀の鬼』よりはるかに大人向けです。精神世界的なものも描かれていて、なるほど~と思うところもあり。たとえば、外側の世界を変えるために内側を変える、というそういうヨモギ氏の理論。

深いわ~と、思わず唸ってしまいました。

変な探偵は、ほんと、変な人です。だけどそんな変な部分を、私も持ってるのかもしれない。それからうり坊の苦しさも、わかる。謎を解かれていく心地よさと、忘れていた部分を思い出す、その痛みと。

私は昔、全部を知る人になりたいと思っていた。世の中のこと、それこそ全部。そしてどんな小さなことにも気付ける人になれたらなあと、願ってたけど。

今はもう、わかるもんね。

知って苦しむだけの事実なら、知らない方がいい。

感じて、それが苦痛以外をもたらさないなら、最初からなにも感じないほうがいい。

気付かない幸せというか。そういうものがあるんだと知った。知らない方がいいことも、世の中にはあるんだってこと。

自分がどうしても苦手で、無意識に避けている行動、人、物。そういうものには、たいていちゃんと意味がある。どうしてそれが苦手になったのか、遡ると答えが見えてくる。そしてそれを解消しない限り、ずっと避け続けることになる。

『変な探偵』って、タイトルもいいですね。たしかに変な人。でも、ヨモギ氏は魅力的だと思います。人格って、一生のうちに、そんなに劇的に変わるものではないでしょう。だからやっぱり、最後のエピソードは余計だったな。ヨモギ氏が、あんなことをするわけはないと思う。そういうことをする人なら、それ以前の話が全部、嘘になってしまう。

二重人格の人ならともかく・・・。え? もしやヨモギ氏はそういう人なのか??

また、何度か読み返したいと思います。深い漫画でした。

『銀の鬼』茶木ひろみ その2

漫画『銀の鬼』の感想です。昨日のブログの続きになります。思いきりネタバレしていますので、未見の方はご注意ください。

島影十年(とね)。悪役なんですが。

魅力的なんですよね。他にも、ふぶきに恋する登場人物は何人も出てくるんですけど。もう段違いで、この十年がすごい。悪い人なんだけど。好きで鬼に生まれたわけじゃないというのもあるし、ふぶきに寄せる愛情がとても真摯で。

私がふぶきでも、やっぱり十年しか目に入らなかったと思います。

そして、そんなふぶきに苛立つ流也の気持ちもわかる。葛藤ですね。なんでふぶきが、あんな十年なんかをかばうのかわからない。十年なんかより、自分の方がよほどふぶきを愛してて、幸せにできるんじゃないかっていう気持ちがあって。

こんなにこんなに好きなのに、どうして自分じゃいけないのかっていう苦しさ。

「どうしてあんなばけものが好きなんだ」と詰め寄るシーン、その後、理性を失っていくところ。うーん。表裏一体。好きだからこそ、それが一瞬で激情に変わってしまう。

たしかにね、流也の疑問もわかるんですよ。ふぶきがとても幸せそうなら、自分の入る余地はないって思い知るだろうけど。ふぶきは苦しんでるから。だって、十年、鬼だもん。共存できるはずがない。人間と。

この漫画のすごいところは、鬼である十年以上に、鬼の本性を持つ人間の醜さをも描いているところ。むしろ、十年が純粋に見えてしまう瞬間すらあるのです。

エゴ丸出しで十年に近付くのは、社長令嬢の麗子さん。

お嬢さんなだけに、傲慢です。しかし彼女は裸の王様としても描かれています。周囲の人間の嘲笑に気付かない。その哀れさも、感じさせてくれるのがこの漫画の底力なのです。ただの嫌なやつで、終わらせない。

麗子VS十年という関係だけを取り上げるなら、鬼と人間の立場は、逆転しているのかもしれません。十年を手に入れるために、罪を犯す麗子。人間でありながら、その所業は鬼です。麗子に辛辣な言葉を浴びせる十年は、むしろ社長令嬢という権威に迎合する彼女の周囲の人間達より、よほど優しい存在にも思えるのです。真実を指摘してくれるという意味で。

麗子にツノを奪われ、妖力が弱まった十年。自分の身ひとつ守ることができないくせに、鬼笛を聞いてよろよろと歩き出す姿に胸を打たれました。

その前に、ふぶきが麗子の家を訪ねていったとき、本当はそこにいるのに、十年は出てきませんでした。弱ってる自分を、見せたくなかったから。それが十年のプライドの高さだったのに、鬼笛を聞けばそんなプライドすらかなぐり捨てて、飛び出してしまう。

じーんときました。

実際、そんな弱った体でふぶきを助けることなんてできないのに。それでも行かずにはいられない。ふぶきが大切だから。十年、その気持ちが素敵です。かっこいいと思います。そこにエゴはない。ただ、ふぶきを助けたいという一心で動いてる。

ふぶきは、銀の鬼である十年を殺すべきという正論と、十年を愛しているという自分の心の板ばさみになって苦しみます。

うーん確かに、もう最初から破綻している関係なわけで。でも十年も、百パーセントの鬼ではないからこそ、ふぶきの心が揺れるのですよね。

鬼と神。だけど、その二人に共通する寂しさがあったり。

鬼として生まれた悲劇。異形のものには、異形として生きることすら罪なのか、という。倫理観は、人間からみた視点ですから。鬼にしてみたら、もう存在すら否定されてしまって、それは気の毒といえないこともない。

「おれの心には良心なんてものはこれっぽっちもないんだ」とふぶきに語りかける十年。このとき、嘘ついてますね。この時点ではもう、十年は鬼ではなくなりかけてる。だから悩み始めてる。心が鬼なら、なんの迷いもないだろうに。

どうして泣くんだ?と自分自身に問いかけながら、十年はボロボロと涙を流します。ページをめくりながら、私も泣いてしまいました。十年は、表情ひとつ変えないで、ただ涙を流していて。十年が、そのとき鬼ではなくて、帰る家をなくした子供みたいに思えたのです。どうしていいのか、どこへ向かえばいいのかわからずに、不安でおびえてる。泣きながら、どうして泣いてるのか、どうして悲しいのかはっきりとは気付いていない。ふぶきを好きになればなるほど、つらさが増すのは、二人が一緒になれないことを、彼が心の奥底で気付いているからですね。とても人間的な感情。

鬼である自分への戸惑い。さびしいという心。

鬼として生きれば、それがふぶきを傷つけることになる。千年生きて、初めて好きになった相手なのに。その人を泣かせてしまう。

大人な表現もあるし、子供向けの漫画ではないと思います。ただ、十年がとても少女趣味に描かれていて、残酷な鬼という本性とのギャップが魅力的です。

十年は、甘いもの好きで料理上手。教師の頃、住んでいるお家はなんと、グリム童話ヘンゼルとグレーテルに出てくるような、お菓子の家なのです。ショートケーキみたいな時計。チョコレートのドア。ビスケットのテーブル。女の子の夢を、そのまま現実化したらこうなりました、みたいな。十年がふぶきのために用意した部屋は、バラ尽くしです。バラ模様のベッドカバー、カーテン、サイドテーブルには一抱えもあるようなバラの花が活けられて。その部屋に漂う、甘い香りは、鬼には全く似つかわしくない、真逆のもの。

私は、料理ベタなふぶきが、十年のためにチョコレートケーキを作ってあげたシーンが好きです。無言で食べ続ける十年を、ふぶきがじっと見ている。幸せの情景。

そのときのふぶきの気持ちが、伝わってきました。ただ、十年の美しさに見とれてる。好きだから。恋愛中って、魔法がかかっているようなもので。なにをしても、どんなしぐさも、輝いて見える。その瞬間。このまま時間がとまってしまえばいいと思いながら過ごす、なにげない平凡な時間。

十年とふぶきが持つことができた、数少ない平和な時間の一つだから。このシーンは印象的でした。

私が今回買ったのは文庫本だったのですが、巻末にはなんと、続編(描き下ろし)が数ページ載っていました。これは・・・要らなかったと思います。

なぜなら、『銀の鬼』はあまりにも完成された物語だから。何かを足すことも、引くことも、本編を損なうだけのような気がしました。きれいに完結した物語だからこそ、続編は読みたくないです。

『銀の鬼』は、長い年月を経て読み継がれていく名作だと思いました。