『チーム・バチスタの栄光』海堂尊 著

『チーム・バチスタの栄光』海堂尊 著を読みました。以下、感想を書いていますが、ネタバレしていますので、未見の方はご注意ください。

面白かったです。主人公、田口公平のぼーっとした感じと、コンビを組む厚生労働省のお役人、白鳥圭輔の変人ぶりが、絶妙のバランス。

物語の舞台は、とある大学の付属病院。難しい心臓手術にも関わらず、驚異の成功率を誇ってきた、通称“チーム・バチスタ”という外科手術チーム。しかし立て続けに、3件の手術が失敗する事態が発生。果たしてそれは、医療過誤か殺人か。

病院長に内部調査を命じられた田口と、後から合流した白鳥が、事の真相を解明していく、というもの。

登場人物のキャラがそれぞれ際立っていて、ああ、こういう人いるよなあと、感心したり共感したり。

一番友達になりたいのは、白鳥さん。ずーっと一緒にいたら疲れるかもしれないけど、話してたらずいぶん楽しそう(^^)

高階病院長は、白鳥さんを「ロジカル・モンスター」と評したけれど、頭脳明晰、一刀両断の切り口は、読んでいて胸がスカっとしました。

人をどうやって分析するか。参考になります。

一対一で話すときに得られる情報と、二対一のときに得られる情報と、それぞれ違うんですねえ。

それと、わざと怒らせることで相手の、普段隠された一面を吐き出させるっていうのは、さすがだなあと。

とりつくろった仮面を上手に引き剥がし、沸点に達するぎりぎりのところに、うまくもっていくというその手法。

その人の本音というか、素の部分って、怒った瞬間に現れるものですもん。そりゃあ、普段の人間関係で白鳥さん的なことを日常的にやっていたら孤立してしまいそうですが、人の命がかかった内部調査。しかも時間がない、となれば。

白鳥さんの無駄のない采配ぶりは、お見事!の一言でした。

アクティブ・フェーズ、パッシブ・フェーズという、違った方向性からの切りこみは参考になります。普段の日常生活にも、応用できそうな気がする。

登場時は、厚労省の役人とはいえ、左遷で閑職ポストにまわされた冴えない人ということで、情けない感じが漂ってましたが。

実は、表と裏、両方の肩書きを持っていて。田口さんの前では「大臣官房秘書課付き」の方を名乗っていたのに、リスクマネジメント委員会の席上では、堂々と「中立的第三者機関設置推進準備室室長」を掲げる。そして、そこでの自己紹介も、田口さんの前とはまるで違う、その立場にふさわしい立派なもの。

ここら辺の切り替えがしびれますね。さすが!です。

映画『早春物語』で林隆三さんが演じていた役を思い出しました。あの映画の中で、林さんは知世ちゃんに、「クズ鉄の行商みたいなことをやってる」的なことを言って、まだ若い知世ちゃんは、「よくわからないけど大変そうだなあ」みたいな感じで同情するのですが。

いざ会社を訪ねてみると。実は大企業の役職付でびっくり、という。

白鳥さんて、最初はずいぶん、あまりにも攻撃的すぎるというか、直接的すぎるトークの人だなあと思ったけど。人を調査するときには、それが逆に、相手の安心感を勝ち得る武器になるような気がします。

私がもし調査対象者だったら。

変におべっかを使われるより、その方が気が楽かもしれない。

それに、社交辞令なしの本音トークなら、よけいな修飾語がない分、こちらも気を遣わなくて済む。妙なワンクッションをはさむことで、時間を無駄にすることもない。

相手が直球なら、こっちも直球でいい。その気楽さが、より多くの情報を集めることにつながるのでは?と思います。もしも直球に隠された意味もわからず、ただ腹を立てるだけの人なら、怒ることで平静を失って、より多くの情報を落とすことにもなるし。

白鳥さんのやり方は、調査方法としては効率的だなあと。

外部から来た人間だから、やれる手法ではあるのでしょうね。これ、その後もそこで働き続けるとなったら、やっぱり気まずいだろうなあ。短期の関わりで、いずれそこを去ることが決まっている人だからこそ、後くされなくやれるという。

そして、白鳥さんが攻撃的な分、ただ黙ってそこにいるだけの、田口さんの存在が生きてきます。ほっとする存在。暴走する人を、いざとなったら止めてくれるんじゃないかという、白鳥さんにとっても、調査対象者にとっても、ありがたい要の存在。

登場人物で気になった人と言えば、まず大友さん。

酒井さんと一緒に、白鳥さんの聞き取り調査を受けるわけですが。かなり厳しい白鳥さんの言葉に、大友さんが泣き出します。私は最初に読んだとき、白鳥さんひどすぎるなあと思ったのですが、「田口センセか酒井先生に守ってもらいたくて、泣いて見せただけ」という白鳥さんの言葉に、そう言われてみればその通りだろうなあ、と納得してしまいました。

泣くといっても、思わず涙がこぼれてしまったという状況ではなくて。もし大友さんに本当に、自責の念みたいなものがあったら、白鳥さんを恨めしく思いつつも、「確かに私が未熟な面がありました」と言ってるんじゃないかと。そして、少しでも事実の解明に役立つよう、自分にできる限りの情報提供は、してるんじゃないかなあと。

「私はこう思います」という自分なりの釈明みたいなものが、あまりなかったところに、大友さんの甘えを感じてしまいました。

大友さんの前任者、星野さんの才能のこと。

新しくチームを組んだばかりで、仕方ないとはいえ、場の雰囲気にあまり馴染めていなかったこと。

この辺は、つらいかもしれないけど、プロとして話すべきことだったような気がします。話してる途中に、つい涙してしまうのは仕方ないとはいえ。

ただ泣くだけ、というのはやっぱり、どこかで「慰められる自分」「かばってもらえる自分」を、期待してたところがあるのかなあ、なんて思いました。

誰が悪い、という責任のなすり合いではなく。今後に役立てようという真相究明の調査なのだから、自分にできる精一杯をやるのがプロではないかと。

そして私は、白鳥さんが酒井さんにはっきり、「うぬぼれがない分、垣谷先生の方が外科医として格上」と言いきったところに、激しく共感したのでした。

ああ、こういうのってすごく、わかる気がする。

あの人よりはまし、という変な優越感を持つよりも、自分より上の人を比較対象にして、上を目差せということですよね。

垣谷先生は、酒井先生と比べてどうこうなんて、そういう次元よりもっと高みにいて。尊敬する桐生先生と自分との比較にこそ、焦点を当ててる。だから、そもそも酒井先生がどうこうなんて、眼中にないのです。そんな比較など、なんの利益も生み出さないから、興味もないでしょう。

自分をよくわかっている、という点で、たしかに垣谷先生の方が上だと思いました。

桐生先生が、星野さんを採用した理由も、すごく共感しながら読みました。たしかに、技術や経験がある分、逆に使いづらいということもあるわけで。それは、白紙ではなく、すでに罫線が引かれたノートだからこその、抵抗がやりづらいということで。

白紙でも。その場ですぐに反応し、スポンジが水を吸収するように、早いスピードで成長できるものなら。完成形に近いノートより、製本前の、白紙の方が扱いやすいこともあるのだと。

ただ純粋に。疑問だの抵抗だの、そういうものを全部、横において。与えられた知識をあまさず、飲み込んでいく姿勢。それさえあれば、時間の経過とともに、経験者以上の結果を出すこともできるのだと知り、力付けられたような気分です。そうか。つまり、人間には無限の可能性があるということなんだよなあと。

やろうと思ったその瞬間から、成長が始まるのだから。

チーム・バチスタの中心、桐生先生と鳴海先生の関係については、そうだったのかーと驚きです。

苦しかっただろうなあと。二人とも。

思いやりが逆に、重い鎖になって絡み付いて。動けば動くほど、それが締まっていくような。でもどっちが可哀想かといえば、桐生先生の方かな? 桐生先生の立場だったら、自分から楽になる方法は選べないと思うので。

うーん。でもプロとしては、職業人としては、その判断でよかったのか?とは思いますが。つらくても、決断するときというのはあるわけで。優先順位を考えたら、自分がどれほど悩もうとも、やっぱり1位は決まってますもん。

この小説は映画化もドラマ化もされてますが。

映画化されたときの白鳥先生役が、阿部寛さんということを知って、ぴったりだと思いました。この変人、キテレツキャラの雰囲気に合ってます。阿部さんの、好奇心に踊る目だとか、そこはかとなく漂う自信が、白鳥さんそのものだと思いました。

映画版では、桐生先生の役を吉川晃司さんということで、これまたナイスキャスティングだなあと唸ってしまいます。自分では思いつかなかったけど、いいですねえ、この配役。桐生先生の、神経質そうな感じがよく出てる。それと、弱さ、脆さみたいなものを併せ持つ感じが、なんとも言えません。内面を、傲慢にならないよう配慮されつくした薄いプライドで、そっと覆った感じ?

ドラマだと、仲村トオルさんが白鳥先生をやったそうです。これはイメージ、ちょっと違うかな。仲村さんだと、まじめすぎる感じ。白鳥さんて、論理的に物事をズバズバ切り捨てるけれど、それが冷たくみえないのはオトボケキャラだからであって。仲村さんがそれをやってしまうと、かなり冷徹な人物に見えてしまうような気がします。あと、二枚目すぎるところがちょっと。

ちなみに、私が田辺先生のイメージだと思うのは、筒井道隆さんです。ぼーっとしていて頼りなさそうで。でも、肝心なところはちゃんと、わかってる人で。

扱うテーマは重いのですが、登場人物が魅力的で、ぐいぐい引き込まれる小説でした。あっという間に読了しました。

『怪人二十面相・伝』北村想著

『怪人二十面相・伝』北村想 著を読みました。以下、感想ですが思いきりネタバレしていますので、未見の方はご注意ください。

そもそも読み始めたきっかけは、金城武さん主演の映画でした。予告編がテレビで流れているのを見たり、映画の宣伝でテレビの番組に出ている金城さんを見て、「これ原作があるなら、読んでみたい」と思ったのがきっかけです。

そして読み終えた後・・・。

これ、原作と映画って、全然違う話じゃないですか(^^;

私、映画は見ていないし、今後もたぶん見ないと思うんですが、小説だと二十面相は誰かに罪をきせようなんてしていないですし。

むしろ劇場型犯罪。誇示することに喜びを感じているのが二十面相であって、映画のように、無関係のサーカスの青年に汚名をきせるなんてことは、ありえないわけで。

映画と小説は全く別の媒体だから、表現が多少違うくらいならありえる話ですが。ここまで異なった話だと、そもそもこの小説に「原作」の名を負わせることも、どうかなと思います。ヒントを得た、とか、オマージュ、というのもなにか、違うような。

描こうとしているものが、違いすぎると感じました。

で、どちらが私の好みだったかというと、断然小説の方です。映画を見ていない段階で断言してしまう。

映画は、予告編を見たときにまず、ちょっとがっかりしました。

冒険活劇みたいになっていたから。アクション映画?みたいな。せっかく二十面相を描くのに、コミカルなイメージが強くて残念です。

アクションはあってもいいと思うし、それこそ今の特撮技術で、二十面相の鮮やかな立ち回りを見ることができたらワクワクしますけど、それだけで終わってほしくないというか。江戸川乱歩の描いたあの時代の、陰のようなもの。闇のベールを纏ったおどろどろしさ、を見たかったです。暗い映画だとヒットしにくいから、明るく万人受けするものにしたのかなあ。

金城さんが「オレ? 違うよ!」と明るく否定したり、松たか子さんが令嬢だったり、という時点で、乱歩ぽさはないんだなあと。

小説の方は、平吉の成長物語ですね。戦前・戦中・戦後と、たくましく生き抜いていく平吉の姿が心強かったです。もう物語の始めから暗い話なんですが、でもあまりつらくならずに読めたのは、平吉がたくましかったから。

子供だけど、自分で環境を受け入れて、明日へ明日へと歩き続けていく。振り返ってグジグジ悩んだりしない。

サーカス団に入る経緯からして、相当なものですが。でも平吉は、すぐにそのサーカス団に居場所を見つけ、師匠をみつけ、自分の道を切り開く。

大人になった平吉が、昔の自分と同じようなシンちゃんに、稲荷寿司を持たせてやるところがよかったです。平吉も、センセにもらったアンパンがよほど嬉しかったのでしょう。

小説の中で、一番の悪人が、驚いたことに小林少年! この展開にはびっくりしました。小林少年、明智先生までも蔑視しているような印象をうけます。性格悪いなあ~。怪我の恨みをいつまでも引きずっているけど、そもそも爆発の原因を考えたら、誰も恨めないんじゃないかと。それどころか、かばってもらったからこそ、それだけの怪我で済んだのになあ。

幸子さんの最後には、ぐっとくるものがありました。最初はサーカス団の団長のお嬢さんだったのに。人間の運命は、どこでどう変わるかわからないものです。

たぶん、身を引いた平吉には、ずっと特別な思いを抱いていたんでしょうね。だけど再会したときにはもう彼女は、平吉の横に並べる資格を持っていなかった。

もうね、平吉と再会したそのときから、ゆっくりと落ちていくしかない哀しさみたいなものを感じました。その坂は急勾配ではないけれど、でもゆるやかに下るしかない。一方向に。

昭和・サーカス・二十面相。独特の雰囲気を味わえる小説です。

『雪の断章』佐々木丸美著

『雪の断章』佐々木丸美著を読みました。以下、感想を書いていますが、思いきりネタバレしていますので、未読の方はご注意ください。

斉藤由貴さん主演の、映画のほうを先に見て、それから原作を読んだのだが。

面白かったです。ハイ。佐々木丸美さんの本は、以前に『沙霧秘話』とか『水に描かれた館』を読みましたが、文体があまり好きになれず、自分とは合わない作家さんだと思っていました。

でも、この『雪の断章』は違います。上記の二作は、修飾語の多用と抽象的な表現が多くて、ストーリーそのものよりもイメージ映像を見せられているようで、抵抗があったのですが。この『雪の断章』はもっとすっきりしてます。普通に読める。

それと、映画で感じていた疑問点が、原作を読んで多々解消されました。

大まかなあらすじは原作も映画も一緒なのですが、映画は肝心なところが改変されていたり端折られていて、惜しいなと思いました。原作そのままを映画にするというのは無理としても、押さえていてほしいポイントがずれていたのが残念です。

小説は、孤児だった七歳の飛鳥と、それを引き取って育てた青年祐也、その友人史郎、彼ら3人の感情の移り変わりを、丁寧に描いた作品です。

原作を読んで一番驚いたのが、最後の最後で祐也が、飛鳥の口から本当の気持ちを無理やり語らせる場面です。私は映画を見たときには、「自分は黙ってるくせに、飛鳥にばかり喋ることを強制して、ずるい人だな」と思ったのですが、そういうことじゃなかったんですね。

飛鳥に「偽善者」と言われたその日から、祐也は自分からは何も言えない立場になってしまっていたんだと。そのことが初めてわかったのです。

そうだったんだ~!!と、目から鱗がポロリ。

信頼していた母代わりの家政婦さんから、ひどい言葉を聞かされて飛鳥は傷ついただろうけど、それと同じ位、祐也だって傷ついていたんだなあと。もうそれ以上、一歩も動けないくらい。だから、飛鳥には何も言えなかった。飛鳥から言ってくれなければ、魔法は解けない。

ここに至るまでの過程が、映画では端折られすぎているのです。映画は時間の制限があるから、そこまで細かいところが描けないのは仕方がないことかもしれませんが、これはこの物語の要の部分なんですよね。

映画を見て、祐也をずるい人だと思った私の印象は、このたった一言であっさりと覆されました。

>「偽善者と決め付けられた時からおまえに近づけなくなったのだ」

小説の中では、祐也は飛鳥ほどには饒舌ではなくて。だけどこの一言で、これまでの寡黙さを許せてしまう。そうかー、そりゃそうだよな、という納得。

もし自分が祐也の立場なら、きっとそうしていた。

「偽善者」と言われて、誤解を解こうとして飛鳥の腕をつかんで、それを冷たく咎められて。その瞬間、今までとは違う自分になったんだと思う。

気軽に笑い合える関係ではなくなったというか。ちゃんと、距離を置かなきゃいけない存在になったというか。そりゃあもう、今までとは段違いの慎重さで、飛鳥を見守るようになったはずだ。

このシーンが、映画だと全然違うんだよなあ。

偽善者と告げるのは、電話越しだし。シャワー浴びてたうんぬんの、意味不明なセリフとか、斉藤由貴ちゃんのデコルテのサービスカットとか。

それに、映画だとそこまで様子がおかしい彼女に対して、出張中の彼は、悠然と構えすぎ。慌てて帰ってくるのが当然の反応だと思うんだけど。映画の場合、彼女の「偽善者」という言葉を聞いてなお、平然と他の女性と食事を続けていて。受けたショックの大きさが全然、表現されてないんだよね。

腕をつかんで、飛鳥の思わぬ拒絶にあい、それを気まずく離すシーンは、小説と違って空港になっている。これは、小説通りに、朝の食卓のシーンのままの方がよかったと思う。日常が、日常でなくなってしまう決定的な場面だから。毎日繰り返される平凡な光景が、その日を境に変わってしまうというのが肝なのに、空港だとインパクトが弱い。

映画の雄一(小説では祐也)は、人間らしさのない、顔のない人物として描かれていたように感じたけれど、小説はもっと、身近な存在だった。神様じゃなくて、そこには苦悩もちゃんとあって。私の好きな表現は、たとえばこんなところ。

小説の中で、史郎のプロポーズを受けることを、飛鳥が祐也に告げるシーン。

>祐也さんの声がかすれて聞こえたのは自分の耳のせいだと思った。

そりゃ声もかすれますって。自分の好きな子が、自分の親友と結婚するって宣言する瞬間だもの。飛鳥の耳のせいなんかじゃなくて、祐也は実際ショックを受けたのだろうし、飛鳥を失う現実を目の前に突きつけられて、でも冷静を装うために必死に自分を立て直していたんだと思う。

映画よりも小説の方が人間ぽく描かれていて、私は小説の方がいいなと思いました。一方、映画のいいところはキャスティングのよさ。

斉藤由貴さん、榎木孝明さん、世良公則さん、イメージはそのまんまなのです。

ただ、映画の中では榎木さんはほとんど、偶像的な撮られ方しかしていなくて。感情の揺れは、あまり表現されていなかったのが残念です。本当は祐也だって十分に、悩んだり苦しんだりしたのですが。飛鳥と暮らす、日常の中の祐也の、微妙な表現が見たかったなあと思いました。

映画で原作の改悪だと思ったのは、世良さん演じる大介(史郎)のテトラポットのシーンですね。これ、小説では出てこないし、これを映画に入れる必要性が、全くわかりません。史郎って、そんな人ではないと思う。これじゃ、史郎がただの弱虫で、死を盾に愛を請うような卑劣な人間に見えてしまう。

それと、時系列が違っているところ。

映画だと、史郎の死の直後に、飛鳥の渾身の告白、ラストシーンがあるわけですが。これはどうかと思いました。飛鳥、いいのかそれで・・・。 相変わらず、このときの祐也は全く顔が撮られていないし。わざと撮らないことで観客の想像力を煽ったのでしょうが、ここは榎木さんの演技が見たかったな。

小説の方が、納得のいくラストでした。史郎がああいう選択をした気持ちがわかったし。

>「いつわかったのだ?高校二年の冬じゃないか。大学受験を放り出した時だな?」

>おだやかな笑顔が、叱られてすくみ上がっていた私をほぐした。

この描写を読むと、史郎の絶望がわかります。顔は笑顔なんだけど、全部終わったことを悟った瞬間というか。このとき、史郎は幕引きをはっきりと決めていたんだと思います。その笑顔が想像できて、ゾクっとしました。凄みがある。

映画だと、気持ちはいつも切り取られた状態で表現されているというか、断片的で。そこに連続性がないから、共感しにくいというか、わかりにくかったです。でも小説だと、細かい心理描写があるので理解できました。

飛鳥が、絶対言えないと思っていた気持ちを告白するシーン。それは、小説の中では、厚子との往復書簡があったからこそです。飛鳥が姉と慕う厚子と手紙のやり取りをする中で、徐々に気持ちが変化していくのが丁寧に描かれていました。

映画だと、まるで史郎のことがきっかけで、祐也に告白したような流れになっているのですが。それはちょっと無理があるかなと。飛鳥のことだから、逆に史郎のことがあれば、ますます口を固く閉ざしたんじゃないかと思います。

映画よりも、私は小説の方が好きです。美しいファンタジーとして楽しめました。

『涙』乃南アサ著

『涙』乃南アサ著を読みました。以下、ネタバレを含む感想ですので、未読の方はご注意ください。

最終的な謎解きまでの、話の流れがうまいなーと思いました。ただ、これはタイトルが合ってないです。「涙」って、いう話ではないような。そりゃ泣けるけど、でも、涙がメインテーマではないような気がします。

Sound Horizonの歌で、『辿りつく詩』というのがありますが、それに近いものを感じました。

簡単なあらすじを書きますと、恵まれて育ったお嬢様の萄子が、「忘れてくれて、いい」という電話を残して消えた刑事の婚約者、勝を捜し求める物語なのです。消えたときの状況から、勝には先輩刑事の娘を殺害した容疑がかかっており。

周囲から、「忘れろ」と忠告を受け続けながらも、萄子はお嬢様とは思えぬ行動力で、わずかな手がかりを頼りに勝を探し続けて・・・。

勝の逃避行に関わるのは、幸せに生きているとは言えない人たちばかり。そうした人たちと触れあいながら、自分とは違う世界に逃げていった勝の足跡を、ひたすら追い求める萄子の姿がけなげです。

ある日突然、結婚を約束した大好きな人が理由も告げずに消えたとしたら・・・。その後の行動は、愛情の深さによって変わるでしょうね。その人のことをよく知らなかったら、自分の知らないなにかがその人にはあったのだと、諦めるでしょう。でももし、本当にお互いに信頼しあい、将来を誓い合った相手だとしたら、私もやっぱり、追いかけるだろうなあ。

なにも理由を話さないで黙って消える、というのは卑怯な話で。心変わりなら、それはそれで仕方ないけど、でも萄子と勝のようなシチュエーションは、あまりにも酷。萄子が前に進もうとしても、もやもやは消えないし、過去を断ち切るのが難しいのは当然です。

すべてが明らかになった後では、勝の気持ちもわかりますが。結局正義感が強すぎたというか。自分の行動が許せなかったんでしょうね。客観的に見れば不可抗力の不幸な運命に見舞われたわけで、どの段階でもいいから全部ぶっちゃけてしまえば、周囲はもっと救われたんでしょうけど。一人でうじうじ悩んでいるから、結果的に追いつめられてしまったわけで。

もっといい方法は、勝さえ真実を明らかにする勇気があれば、いくらでもあったと思います。

勝の弱さが、どれだけ多くの人を悲しませたか。それを考えると、勝の行動は愚かすぎます。ただ、同じ状況に追いつめられたとき、「私は絶対にそういうことをしない」と言いきれない自分がいるのも確かで。

それは結局、勝が、弱い自分を許せなかった、ということにつながるのかな。自分の醜態をさらすくらいなら、いっそ消えてしまえみたいな。自分が小さな存在であると、ときには間違いを犯すこともある、判断を間違えることもある愚かな人間だと、認めることができたら。事態はもっと早く収束しただろうし、萄子の追跡劇もなかったわけで。

勝の行方を追う萄子の成長ぶりも、見事に描かれてました。いろんな人を知り、その好意に支えられる中で、萄子が世の中の裏の側面を知っていくのです。ただ、なくしたおもちゃを取り戻そうと泣き喚く子供ではない、萄子の姿がそこにはありました。例えば年下の洋子との出会いは、萄子の考え方に大きな影響を与えたと思います。

宮古島の再会シーンは、圧巻でした。これ以上はないと言えるほどドラマチックな状況です。かき乱される萄子の心と同じ位、屋外で荒れ狂う台風。でもだからこそ、本当に二人きりの状況で、誰の邪魔が入ることもなく真実が聞けた。萄子は納得し、自分の居場所は勝の傍ではないことを思い知った。この台風がなければ、勝は本当のことを話してくれなかったかもしれません。

「幸せになれ」という言葉。それは、最高の贈り物だったように思います。たぶん、その言葉がなかったら、萄子は萄子で、後悔する部分があったんじゃないかと。自分以上に勝が傷ついたのを知っているから。自分が幸せになることに罪悪感を覚え、心のどこかで「もっといい方法はなかったか」と悩む日々が待っていたんじゃないかと。

その迷いを断ち切るのが、「幸せになれ」という勝の言葉だった。萄子が幸せになることが、勝の幸せでもあるのなら。

萄子がその後の人生を、振向かずにまっすぐ歩いていけたのは、この言葉が大きかったんだろうなあと思います。

変な人じゃなきゃ、好きにはならなかった

グリーンノートってどんな香りだろうって気になっていて。それは以前の日記にも書いた『変な探偵』のヨモギさんがその香りだって書いてあったから。

ヨモギさんの、カタカナな名前もいいなあ。敢えて普段は、「蓬」ではなく「ヨモギ」と表記するこだわり。こういうセンス、けっこう好き。

カタカナにすることで、生生しさがなくなる感じがある。透明感が増すというか。「蓬さん」は「蓬さん」としてとらえる。そこには生活の匂いがある。だけど「ヨモギさん」になると、急に遠い人になる。敢えて断ち切ってるって感じで。いろんなものを。
カタカナの名前って、なんとなく一旦、全てが白紙になったイメージがあるんだ。
そのカタカナの名前は、うり坊の見た探偵さんの姿、そのものなんだろう。

漢字の名前は、見た瞬間、聞いた瞬間、そこからすぐにイメージが広がる。だけどひらがなやカタカナの表記は、相手を一瞬、戸惑わせるようなところがあるかも。私はよく、音を幾種類かの漢字に当てはめて、「こうかな? それともこんな感じ?」なんて、とっさに試してしまう。イメージの広がり方に、両者は違いがある。
目の前に広がる、真っ白な空間。そこを埋めていく作業が始まるのだ。
何の情報も与えない。他と区別するための、最小限のメッセージ。何者でもない。何と思われてもいい、ただ自分はここにあり。他とは違った存在だということ。

グリーンノートって活字を、漫画の中に見たとき。私はとっさに、芝を刈った後の匂いを思ったのでした。あれ、大好きなんだよね。清清しいような、懐かしいような。あの匂いをかぐと、思わず深呼吸してしまう。そして、思い出すのは、教室にいる自分で。

記憶が、学生時代に戻ってしまう。遠くで聞こえる、運動部の声。机の木目。窓の向こう、銀杏の並木。芝を刈る、機械の低音が静かに響いてる。

ああ、そうだなあ。あの頃は学校で定期的に、芝を刈る人がいた。それは夏で、機械のモーター音と共に漂う、芝の独特の香りが私は大好きだったっけ。夏の空は青く晴れ渡って。入道雲がぽっかり浮かんでたっけ。

ヨモギさんによく似合う。グリーンノートって言葉自体が。草とか森とか、自然の風ってイメージだから。

そして私は、その名もずばり、エステバンの『グリーンノート』というルームスプレーを捜し求めてデパートへ。かなりワクワクしていた。だって、この『グリーンノート』のキャッチコピーが素晴らしいんだから。期待は高まるというものです。

>プロヴァンスの森で見つけた
>みずみずしいシトラスグリーンの香り。

このコンセプトを読めば、気分はもう南仏です。変に甘ったるくない爽やかな草原の風を想像していた。そして匂いを試してみると・・・。
あれ。想像してたのと違う。

期待が大きかっただけに、拍子抜けした感じ。すくなくとも、「コレだ!!」的なものではなかった。

私はむしろ、都内のとある神社に出かけたときの木の匂いに、ヨモギさん的なものを感じた。その神社の森、吹き抜ける風の匂い。湿気を含んだ夏の暑い空気。決して強い匂いじゃなくて、植物の清浄な香りが、ふっと鼻先をかすめる、みたいな。
これを香水にするのは、難しいかもね。植物のいろんな成分が渾然となって醸し出すものだから。

境内は、小さな森だった。そこを歩いて上空を眺めると、空を覆う木の葉の切れ間から、太陽の光が射してきて、それがとてもきれいで。何度も立ち止まって、深呼吸した。体中の毒が抜けていくような。

山に行きたい、とは前々から思ってるけど、その代替地としてこの小さな森が、今の私のお気に入りなのだ。中でも、1本のクスノキを「私の木」と決めている。勝手に。

ときどきここに来て、両手をクスノキに当てて、心の中で会話してみる。「元気にしてた?」みたいな、他愛もない事柄。離れるときには、「またね」と心で呼びかけながら帰る。こういうことを繰り返していると、ただのクスノキが自分にとっては特別な、大切な木になってくる。

ヨモギさんは人間というより、なんとなくここの木みたいな人なんだな。私のイメージの中では。普通に黙って、ふらりと境内を散歩してそう。なんにも話したりしないで。それで、ふらっと消えそうなんだな。ある日突然。なんにも言わないで。
その人が暮らした痕跡も、生きてきた歴史も、なにもかもなくなって。まだらに思い出だけが残りそう。それでときどき、ヨモギさんに縁のあった人がこういう場所を歩いて、不意に思い出すの。

ああ、ヨモギさん、今どうしてるんだろうなって。

そんなことを、つらつらと考えたりしました。