仕事が終わった後は、必ず階段を使って帰るようにしている。エレベーターは待つのも面倒だし、誰かと乗り合わせるのも何となく気詰まりで。
重い扉が閉まる音を背後に聴きながら、無心になって階段を下りる瞬間が好き。誰もいない空気。白い無機質な壁。ひたすらゆっくりと、下っていく。
さっきまで頭を占めていた仕事のあれやこれや、数字なんかも、たちまち頭からこぼれていってしまう。そして空っぽになる。
かび臭い、とまでは言わないけど。使われていない場所の匂い、とでも言うんだろうか。微妙な埃臭さのような。あるいは、微かな塗装の残り香。
そういう、人の来ない場所特有の、淀んだ空気の感じが、私は好きなのである。そう、この階段は非常用ともいうべきもので、みんなは通常、エレベーターを使う。
階段は1階から最上階まで、つながった空間だ。たまに、どこかの階で誰かが扉を開けると、とたんに階段を駆ける靴音が響き始める。その音の大小で、自分のいる場所と、その人との距離感が計れる。
たいてい、階段を利用する人は1階分、もしくは2階分くらいの昇り降りをするだけだ。響き始めた靴音は、すぐにまた、別の階の扉が開かれる音と共に、消えてしまう。そんなときのその人の靴音は、とても無防備で。私はなんとなく、微笑ましく感じる。たぶん、私がいることを、そこに他人の耳があるということを、全く意識していない靴音だから。素の音っていうのかな。
疲れてるような足音もあるし。少し怒っているような、乱暴な足音もある。誰もいないと思うからこそ、足音にはその人のそのときの気持ちが現れるような気がして、興味深い。
そして私は、なるべく足音をさせない。
特に意味はないけど。なんとなく。ここに自分がいることを、気づかれたくないって、そういう気持ちがあるのかもしれない。その場の空気に溶けこんでしまうのが、心地よくて。
慎重に、足音を忍ばせて階段を下りていく。だからヒールのあるパンプスは履かない。コツコツいう音が嫌だから。
ここのオフィスビルの何がすごいって、階段の空間に、低く音楽が流れているということだ。粋だなあと思う。ビルの共有部分を音楽で満たす、そんなささやかな贅沢さって、いいなあ。ビルのオーナーが誰なのかは知らないけど、きっと素敵な人なんだろうな。だって、テナント募集に、特別有利な要素とは思えないから。階段に音楽を流してますって、それは売りにはならないだろう。そもそも、階段使う人が、ほとんどいないんだから。
音楽は日によっても、時間によっても違う。穏やかな、自己主張のないものが多い。楽器だけのときもあるし、人の歌声が入っていても、声が楽器と一体化して溶け込んでしまっているような、そんな感じのものばかりだ。
今日は、扉を開けて階段に滑りこんだ途端、懐かしい音が耳に飛びこんできた。
『FLY ME TO THE MOON』だ。うわぁ~!!と、思わず心で叫んでしまった。
これ、初めて聴いたのがエヴァンゲリオンだった。エンディングテーマに使われてて、それがまた番組によく合っていたんだよなあ。真夜中に、部屋の電気を消してよく見てた。物憂げなメロディと、暗喩の歌詞にこめられた媚態。そのバランスが、なんとも言えない味だと思う。
曲中のおねだり。どんだけ可愛い我儘だよと(^^;
そういえばその頃。私が、真っ暗な部屋でよくエヴァンゲリオンのエンディングを見てた頃。向かいの部屋には、きれいなお姉さんが住んでいた。お姉さんの元には、ときどきカッコイイ彼が訪ねてきていた。
たまに2人とすれ違い、会釈を交わすとき。美男美女のカップルだなあ、なんて思った。まるで絵に描いたように完璧で、幸せそうな恋人同士だった。
だけど、2人は表に見えてるような普通の関係ではなかったのだ。ある日の真夜中。私は下の道路から聞こえる怒鳴り声で、目を覚ました。
「なんだよ。馬鹿にしやがって!! 人をなんだと思ってやがる!! チクショーッ。このままじゃすまさないからな!!」
夜中だというのに、まったく辺りのことなど気にしていない怒声。ただ事ではない。それがいつまでも続くものだから、私は窓を開けてベランダに出て、下の様子をうかがった。私だけでなく、近所の人たちも家から出てきて、こっそり様子を見ているようだった。
怒鳴っているのは、40代くらいのおじさん。おじさんの前で途方にくれているのは、私の向いの部屋に住む、あのカップルだ。おじさんは、辺り構わず、自分の思いのたけをぶちまけ始めた。事情がわかった。
おじさんは長距離トラックの、運転手をしているらしい。お姉さんと付き合うようになり、彼女にねだられるままに高価な宝石やバッグを買い与え、あげくには部屋までも、おじさんの名義で借りてあげたとか。つまり、あの部屋はお姉さんのではなく、おじさんの部屋だったのだ!!
おじさんは幸せだった。彼女を信じていた。美しい彼女が自慢で、大切だった。仕事がら地方を車で走ることが多く、あまり彼女を住まわせる部屋には来れなかったけれど。この部屋で彼女が幸せに、自分の帰りを待ってくれるとばかり思っていたのだそうだ。
今日、連絡なしに突然この部屋を訪ねると、なぜかその部屋には彼女と男がいたと。結婚してないとはいえ、おじさんにとっては間男同然。しかもその男は、ちゃっかり自分の荷物などを部屋にいくつか置いていたようで、それがおじさんの怒りに火を注いだようだ。オレが借りた部屋なのに、なんでお前の皮ジャンがあるんだ?とか、そんなことをわめくおじさん。最初は興奮して怒鳴りまくっていたおじさんだったが、勢いがいいのは言葉だけで、実際には間男?を殴ることもしなかった。これ、手が早い人なら本当に大喧嘩になってると思うんだけど、おじさんは口で罵るだけで、手を出すことはなかった。
固唾を呑んで様子を見守る近所の見物人(私を含む)たちは、次第におじさんに同情し始めた。そりゃ腹も立つわな。
間男は言い訳もせず、神妙な顔をして、彼女と2人、並んで俯いていた。その姿が余計、頭にきたらしく、おじさんは怒鳴りまくる。一度、興奮するおじさんをなだめようと、若者がおじさんの肩に手を触れようとして、思いっきり払いのけられていた。
そりゃそうだ。他人がまあまあと止めに入るならわかるが、腹を立てているその、根本的原因である若者がおじさんをなだめたなら、火に油を注ぐようなもの。
しかし。第三者的な立場から見ると。おとなしそうな様子のお姉さんと若者は、やっぱり似合いのカップルだった。おじさんは結局、利用されていただけなんだろう。その似合いの様子を目の前で見せられるからよけいに、おじさんは収まりがつかないんだろう。
最初は若者、男の方をターゲットにしていたおじさんであるが、やがてその矛先はお姉さんへと向かった。未練なのか、お姉さんに対してはやはり遠慮があるのか、おじさんの口調は少しだけ、男に対するものよりは優しいものに感じられた。
おじさんは語った。どれだけ信じていたか。大切だったか。お姉さんのために、あれも買った。これも買った。なにが不満だったのかと。お姉さんの声は聞こえなかった。たぶん、黙っていたんだと思う。おじさんの声には、涙が混じっているように聞こえた。
エンディングでFLY ME TO THE MOONを聴いていたあの部屋。ベランダで、そんな喧嘩の一部始終を聞いたのも、懐かしい思い出である。
耳に残るメロディを、心で口ずさみながらビルを出た。空には、まるで狙いすましたかのような丸い、大きな月。こんな日にはふさわしい、綺麗なお月様である。