『若菜集』島崎藤村 著 より、「おくめ」を読んでの勘違い

まずは、昨日のブログ記事に追記です。

昨日の記事では、宇多田ヒカルさんの『Prisoner Of Love』の歌詞で

>人知れず辛い道を選ぶ
>私を応援してくれる
>あなただけを友と呼ぶ。

人知れず辛い道を選ぶ人=あなた、そのあなたが私を応援してくれる、と私は解釈していたのですが。
だからこそ、その状況は速水さんに重なると思っていたのですが、これよくよく読み返してみると、私の勘違いですね(^^;

もし私の解釈通りなら、きっと

>人知れず辛い道を選「び」
>私を応援してくれる

となったでしょう。「ぶ」でなく「び」、ですね。

でも、実際の歌詞は、「ぶ」だった。

ということは、辛い道を選んだのは、私、と理解するのが自然なのでしょう。今さらですが、それに気付きました。
私がひそかに辛い道を選んだことを、あなただけがわかってくれた、そんな喜びが、にじみ出ている歌詞なのですね。最近ガラスの仮面のことを考えすぎているから、私はつい、変に歌詞をねじまげて解釈してしまったのかもしれません(^^;

後から自分の記事を読んで、その不自然さに気付きました。なので訂正です。

そしてこの解釈のねじれ、というので思い出したのですが。
そういえば昔、高校の国語の授業でも、私は恥ずかしい大勘違いをやらかしてしまったことがあるのです。
後から考えると、どうしてそんな風に解釈してしまったのか、自分でも「そりゃないだろ」と突っ込みたくなるような間違いでした。

島崎藤村の『若菜集』の中にある「おくめ」という詩です。ご存じの方も多いかもしれません。恋した女性の情熱を生き生きと表現した詩なんですけど、その詩を一節ずつ、意訳するのが宿題になりました。私に充てられたのはこの部分でした。

>しりたまはずやわがこひは
>雄々しき君の手に触れて
>嗚呼(ああ)口紅をその口に
>君にうつさでやむべきや

まあタイトルが「おくめ」であることからして、普通に考えればせつせつと恋を語るこの詩の主人公は、女性である、おくめ、なんでしょうけども。
私はなぜか、この詩のこの一節を読んだ瞬間、この描写は男性がおくめに抱いた恋情だと思っちゃったんです。

つまり、一人の男性が、おくめという女性に恋して捧げた詩、だと思いこんでしまったんですね。読んだ瞬間に浮かんできたのが、おくめではなく、おくめに恋する男性の姿でして。

私は、「雄雄しき君」を、男勝りのおくめだと、想定してしまったのでした。
当時の私の解釈はこうです。

>おくめ、君は知らないのだろうか。私の恋を
>強情な君の、その手に触れてみたい
>嗚呼、女らしい装いを嫌う君が、普段は決してつけない口紅を
>私の唇を通してつけずにはいられない(つまり接吻したい)

かなり、原作の意図からかけ離れちゃってますね・・・・。実際に書かれていない状況まで、勝手に補完しちゃってるしなあ(^^; 女らしさを厭う、男のような君って、いつの間にそんな設定ができたのかと。尊敬の補助動詞「たまふ」も無視しちゃって、ずいぶん上から目線の口調になっている点も、突っ込みどころですね。

ともかくこのとき、私の頭の中ではこんなシチュエーションが想像されていたのです。

主人公はおくめの幼馴染。密かにおくめに恋していますが、照れくさくてとても告白などできません。二人はお互い、憎からず思いながら成長していきます。おくめは女性らしくない、じゃじゃ馬で。普段からおしゃれなどには見向きもせず、ぱっと見は男(笑)な自然児ではありますが、年頃を迎えて。
なにかの瞬間に、はっと心が震えるような美しさを醸し出すことがあり。そのたびにひどく、男は心を動かされるのです。このまま黙って、君が誰か別のひとのものになるのを、見ているしかないのだろうか、と。

おくめのイメージは、『はいからさんが通る』の花村紅緒です。男のイメージは、中性的な蘭丸ではなく、もっとごつい感じかな。

それで男は、無理やりにでも、おくめに接吻したいと夢想しているのかなあ、なんて想像してしまったわけです。
なんて官能的なシチュエーションだろう・・・と、当時の私はドキドキしたものでした。
男が、まず自分の唇に口紅を塗って、キスするのかと思ったので。キスで口紅をうつすという。ちょっと退廃的で、官能的な場面なのかと勝手に妄想しておりました。今考えると、その発想がぶっ飛んでますね(^^;

こんな詩を授業でやるなんて、いいのかなあと赤面しつつ。でも、なんだかちょっと色っぽくもあり、綺麗な詩だなあと。意訳しながらワクワクしたし、授業で発表するのが楽しみでした。

そして翌日。
それぞれの生徒が、前日に宿題として充てられた担当部分を、順番に発表していきました。それを聞いているうちに、私は自分が、致命的な間違いを犯していることに気付いたのです。
私の担当部分は詩の中ほどのところだったので、他の人の意訳を聞けたのは幸いでした。

あ・・・・これって・・・・おくめさんの心情を歌った詩だったのね。おくめさんを恋した人が歌ったんじゃなくて・・・・
じゃあ、全然違うじゃん。
男が口紅塗ってキスするんじゃなくて、おくめさんがキスして、自然に口紅がついちゃうって話なのか。ああーなるほどー。それなら普通だよね。ていうか、私の発想ヤバかった。
よかった。今気付いて。

冷や汗をかきつつしどろもどろになりながら、私はその場で意訳をやり直し、事なきを得たのでした。
今でもそのときの、血の気が引く感じを覚えています。

言葉って難しい。直観的に、コレだ~と思ったことでも、後から読み返すと「なんで自分はあんなふうに解釈したんだろう」と不思議になることもあるし。

でも、一つの言葉から膨らんでいく想像が、人によってずいぶん違うというのは面白いことでもありますね。うわー、そういう解釈もあったのかーっていう、新鮮な驚きがあったり。

久しぶりに、「おくめ」を読み返した日曜日でした。

『淳之介さんのこと』宮城まり子 著

『淳之介さんのこと』宮城まり子 著 を読みました。以下、感想を書いていますが、ネタバレしていますので未読の方はご注意ください。

吉行淳之介さんといえば、宮城まり子さん。私は吉行さんの本を読んだことはないのだけれど、その名前と、宮城まり子さんとのことは知っていた。

吉行さんと宮城さんは、ずっと事実上のパートナー状態だったとのこと。

奥さんがいるのに、そうした関係を長く続けるというのは、当事者間ではいろいろ複雑な事情があるんだろうなあ。

実は今回この本を読んだのは、以前、大塚英子さんの『「暗室」のなかで』を読んだことがきっかけだった。

この本の中で、大塚さんは吉行さんとは長いこと恋人同士であったと書いている。つまり吉行淳之介さんは、宮城さんと大塚さん、二人と同時にお付き合いしていたということになる。

大塚さんの本を読んだ後だからこそ、宮城さんの本を読んでみたかった。

大塚さんの本を読んだ限りでは、吉行さんの愛情は大塚さんだけに注がれていて、宮城さんとの関係は惰性(言い方は悪いけど)のようなものに思われたからだ。

大塚さんの本の中では、たしか「M女史」と表記されていた。嫉妬深く、怖い存在として描かれていたような。

M女史の激しさに疲れた吉行さんが、癒されるために訪れたのが大塚さんの部屋だったと、大塚さんはそんな風に書いていたような気がする。

(『「暗室」のなかで』の方は、読んだのが大分前なので、少し記憶があやふやです、すみません・・・)

それでは、宮城さんは吉行さんとのことをどう思っていたのだろう。

宮城さんからみた吉行さんの姿を、大塚さんとは違う視点で見てみたいなあと思い、『淳之介さんのこと』を読み始めたのです。

結果、驚きました。

宮城さんは、吉行さんの最後のときまで、相思相愛であったというふうに書いていたからです。

宮城さんの著書の中には、大塚さんの存在を匂わせるものはなにも、出てきませんでした。完全に黙殺です。存在を知らなかったとは思いませんが、敢えて触れなかったのかなあと思いました。そこには、同じ男性の愛情をめぐる、無言のバトルを感じましたね。

大塚さんの本を読む限りでは、吉行さんが本当に愛していたのは大塚さんだし。

宮城さんの本を読む限りでは、吉行さんが本当に愛していたのは宮城さんだし。

私には、どちらも真実だと、そう思えました。視点が違うだけなんですよね。きっと吉行さん自身、二人の女性のそれぞれの個性を、それぞれに愛していたんじゃないかと、そう思うのです。

大塚さんの前では、吉行さんは宮城さんのことを怖い存在のように言っていたみたいですが、それは本当でもあり、嘘でもあって。

両方真実なんだなあと。

恋人として愛おしく思う反面、束縛されれば煩いだろうし。

ずるいといえば、ずるいですね。愚痴をいいつつ、でもその人の元へ、戻っていったわけですから。関係を断ち切らずに。

宮城さんは、正式な妻ではないという立場を割り切っている人なのかなあと勝手に想像していましたが、それは違ったようです。

本の中では、「私が必要、どっちが必要」などと、何度も迫った過去があると書いていました。

これはちょっと意外だった。そうかー、やっぱり正式な結婚を望んでいたんだなあ。そりゃあ、世間体は悪いですし、やっぱり2番目の存在である、というのは自尊心が傷つきますよね。

でも、結局、入籍することはできなかった。ならば2番目の存在であってもいいから、傍にいたかった。それだけ好きだった、ということなんでしょう。

吉行さんが癌になり病院に入院したとき、寄り添っていたのは宮城さんだった。奥さんのことは書いてなかったけれど、宮城さんの著書を読む限りでは、宮城さんがまるで本当の妻のように、医師との話し合いや付き添いをしたらしい。

自分が弱ったとき、最後のときを一緒に過ごした人・・・やはり、宮城さんとは、強いつながりがあったんだなあと感じました。

でも、大塚さんに対しての愛情も、あったでしょうね。別の種類の。

それは、吉行さんが大塚さんを、家族というよりも恋人として、女性としてだけ見ていたからではないでしょうか。カッコいいところだけを見せたかった美学、みたいな。

大塚さんにはすべてを見せているようでも、実際、彼女には見せなかった深い部分が、あったのかもしれません。最後、病院で宮城さんと過ごしたのは、そういうことかなあって思いました。

元気にしている間だけ、会おう。重い病気で入院などしてしまえば、会えなくなる。その日はいつ来るかわからない。だからこそ、二人が会える今この瞬間を、最高に楽しもう、みたいな。大塚さんとは、甘い恋人同士としての期間が、延々と続く。そこには生活の匂いなんてないわけで。

大塚さんはホステスの仕事をやめ、社会とほとんど関わりを持つことなく、ただ吉行さんの訪れを待つだけの生活を送りました。

いつでも自分だけを待っていてくれる存在がある、安らげる場所がある、というのは、吉行さんにとっては天国だったろうなあと思うのです。通常なら、「あなたが世界のすべて」という恋人の存在は、次第に重くなるものと思いますが、吉行さんの場合は、重さを感じたときにはフラっと出て行けばいいわけで。そしてまた、戻りたければ戻ればいいわけで。

そういう存在の女性がいる。小さな暗室で、ただただ自分を待っている存在がある。しかもその人は、嫌なことなんて言わない、とくれば、これほどの幸福はないでしょうね。

傍からみれば、まさに「都合のいい女」状態なんですけどね(^^; それでも大塚さんは、どんな立場でも構わない。一緒に居られるならそれで幸せ・・・と感じたのでしょうから、吉行さん、モテモテだなあ。

宮城さんも大塚さんも、自分こそが彼に一番愛されたと思っているし、それぞれの心の中でそれは真実なのだろうなあと、そう思ったのでした。

ところで、本妻の方も、吉行さんとの日々を綴った本を出版されているそうです。興味が出てきました。

本妻の方から見た吉行さんは、どんな方だったんでしょうね。

そして、なんと大塚さん以外にも、自分も愛人であったと名乗り出た方がもう一人いて、その方も本を出しているそうです。

すごい。吉行さんの周りには、4人の女性がいたんですね。そしてみんな、自分の言葉で、本を出しているとは。

愛人・・・。嫌な響きの言葉ですけど。それでも構わないと思えるほどの、魅力がある人だったんでしょうね。

昔ラジオでよく流れていた曲を思い出しました。愛人の心境を歌った歌です。「眠れぬ夜に泣いてしまうの・・・・」から始まる曲。全然ヒットしなかったけど、ある時期、しょっちゅう流れていました。

愛人かあ。

自分だったら、絶対嫌です(^^;

嫌というか、冷めてしまうと思いますね。相手が別の人を好きだとわかったら、一気に。

たとえ2番目以降の存在であってもいいから離れたくない、という気持ちは正直わからないです。

『おれは薔薇』茶木宏美 著

茶木宏美著 『おれは薔薇』を読みました。以下、ネタばれありの、感想を書いています。未読の方はご注意ください。

薔薇の香りがする人って、その設定がいいですね。それだけで興味をそそられる。ましてそれが、黒いアームカバーの似合う、美形の税務署職員・・・しかもその香りには秘密が! ときた日には、もう読まずにはいられませんでした。

読み終えた感想としては、思っていたよりも少し軽い話だったかなと。

税務署の半田さん(薔薇の香りの人)と、女子高生あけ乃が出会い、そして二人が次第に心を通わせていくわけですが、半田さんの心の扉が開くのが早い!と思いました(^^;

もっと冷酷というか、感情のすべてを凍りつかせている人を想像していたんですよね。

でも意外に人懐っこいような感じ。そもそも、手帳届けてくれたお礼で、あけ乃にお茶をごちそうしてあげるって、その時点でフレンドリーじゃーん、と。

半田さんがもし、あけ乃の言うところの「地獄で生きてる」のであれば、最大限の努力で、人と関わらずに生きているんじゃないでしょうかね。その目には、モノクロームの世界が広がっていて。

通り過ぎる人の誰もが、まるで無生物のように、おもちゃのように。半田さんの中では、他者は自分とは異質のもの、なんの興味もひかれないものとして映っているのではないかと。

いや、違うな。本当はそんなことなくて、誰かに救いをもとめてはいるんだろうけど・・・。でも、世界をそういうふうに思いこもうとしているのが、半田さんじゃないかなーと。

関わらなければ、誰も不幸にしないわけだから。

一番萌えたシーンは竜月先生の事務室で、半田さんとあけ乃ちゃんが二人きりになってしまうところです。あけ乃ちゃんのセリフがまっすぐで、そりゃ半田さんも心揺れるよなーと思いました。

泣く胸があるっていいなあ、としみじみ。言葉なんかより饒舌に、半田さんは愛を告白しちゃってる。

だって、恋愛感情がなかったら、あのシチュエーションで胸は貸さないもの。

半田さんはあけ乃ちゃんの悲しみに共鳴したんだね。

だけどそんな時間は短くて。竜月先生が戻ってきたときにはもう、二人は他人だったし。なんの余韻も残さないよう努力したんだろうな。

竜月先生は気付いてなかったみたいだけど、水絵さん(半田さんの奥さん)は敏感。さすが、全部わかっちゃったみたいで。具体的なものなんてなくても、そこに流れてる空気だけで、理解してしまった。

あけ乃のいる二階の窓を見上げる目が悲しい。怒ってるんじゃなく、嫉妬でもなく、悲しいんだな。

そのとき、水絵さんは半田さんに寄り添って歩いてるのに。見送る側であるはずのあけ乃ちゃんに、かなわないって思ったんだろう。

脅したところで、人の気持ちを手に入れるのは無理なんだよね、そもそも。

このときの水絵さんの、あけ乃ちゃんを見る複雑な表情が秀逸です。

この漫画、それにしてもタイトルがすごいです。『おれは薔薇』って。

どんな世界が広がっているのか、つい手を伸ばしたくなるインパクトがありますね。

一條和春さん的詩の世界

 暗記した詩というのがいくつかあって、それをときおり思い出しては、口ずさんで楽しんでいる。言葉の響きや、連想する情景に胸をうたれる。 

 もちろん、そうした詩に出会えるのはめったにないことで。

 私が心惹かれた詩は、これまでに三篇。そのうちの一つは、以前にも書いた西脇順三郎さんの『太陽』。

 『太陽』が、見知らぬ異国の初夏のイメージならば、秋から冬にかけて、金木犀の香りと共に思い出すのは一條和春さんの詩だ。

 今はもう、遠い昔。

 なにげなく古本屋さんに足を踏み入れ、なにげなく棚を眺め、なにげなく手に取った一冊の本。

 本当に、すべてが偶然だった。なんの予備知識もなく、その本を手に取り。そして、表紙が気に入って買い求めた。

 漫画だったけど、内容はほとんど覚えていない。ただ、その漫画の中に出てきた詩が、とても印象的だった。

 漫画の作者は一條和春さんなので、一條さんが書いた詩なんだろうと思う。

 漫画のストーリーとはまったく別のところで、私はその詩が好きになってしまった。その詩だけが、独立していたように思う。絵柄もストーリーも、関係のないところで。その詩だけが、異世界を構築していたような。

 それはこんな詩です。

>東京世田谷松蔭神社前における

>逢魔の見事な投身自殺

>小さな頤(おとがい)は

>冷たくレエルの上に映ゆ

>それは路地裏に幽(ゆら)ぐ青い燐光か

>金木犀の仄かに香る月光蘭灯(ランプ)か定かでなく

>ただ一つわかるのは

>彼女の魂はもうここにはいないのだと

 もしかしたら、漢字の使いかたなど、ちょっとうろ覚えなので多少、原文と違っているかもしれませんが(^^; 

 この詩は、読み終えたときに、目の前に寒々とした空気が漂ってくるような感覚がありますね。

 果たして逢魔に命があるものかどうか。レールではなく、レエルとした言葉遣いも、独特の雰囲気だと思いました。

 私のお気に入りの、高架橋があります。

 先日、そこを通りがかったときに、すぐこの詩を思い出しました。夜になれば人通りもまばらとなり、冷気があたりを包みこむような寂しい場所です。

 高いところだから、眼下の景色がよくみえます。あたりには視界をさえぎる物もなく、遠くに高層ビルが見えます。眼下にはどこまでも、線路が伸びていきます。

 レールは、何本も通っています。どのレールにどの列車が通るのか、切り替えが大変だろうなあと心配になるくらいです。

 しんと静まり返ったその向こうに、月が煌々と輝いていました。

 世田谷の松蔭神社には行った事がありません。でも、この詩の情景には、この高架橋のほうが似合うのではないかと思ってしまいました。しばらくその場でお月見です。人が通らない不気味さや怖さはあったのですが、その眺めはぞっとする美しさでした。

 人の気配のしない詩、ということでは、『太陽』と共通しているなあと思います。

 どこにも、誰の気配もしないから。その情景を眺めている、自分という視点があるだけです。『太陽』にはドルフィンを捉えて笑う少年が出てくるけど、この少年は人間じゃないだろうなあ(と、私は勝手にそう思っている)。

 どこまでも、この世界とは違う、また別世界の話ではないだろうかと、そんな気がするのです。

 逢魔、という言葉が暗喩するのは、異世界で。だから、この一條さんの詩も、きっと別世界のことを詠っているのかなと思うのです。

 私はこの、別世界の持つ、不思議な雰囲気が好きなのです。一歩足を踏み入れたら、二度と帰れないような怖さを含めて、その静けさに安らぎを覚えるというか、懐かしさを感じるというか。

 夜、その高架橋の下を通る貨物列車にも、妙な感慨を覚えるのです。あの貨物列車に乗っていったら、いったいどこに辿り着くのかなあ、なんて。夜通し走る列車に乗っているのは、運転手さん一人きりでしょうか。闇の中を、たった一人でどこまでも走るのは、どんな気持ちなのでしょう。

 そうそう、そもそも夜行列車という存在そのものが、なんだか胸をざわめかせるんですよね。一度は乗ってみたいと思っていて、数年前、カシオペヤ号に乗り北海道へ行きました。憧れて憧れて、期待に胸をふくらませて乗ったものの、すぐに頭が痛くなってしまって、実際にはあまり楽しめませんでした(^^;

 軽い頭痛が続く中、憂鬱な気持ちで、窓の外を眺めていたのを覚えています。いったん乗ってしまえば、途中下車して気分転換というわけにもいかず、「なんだか空気が薄い気がする・・・・」なんて思いながら、眠りについたのでした。

 

 秋から冬にかけては、どことなく寂しい気持ちになる季節ですが。そのたびに、この詩を思い出します。

 

 寒いのは嫌ですが、でもその一方で、寒さを気高く感じたり。どんな生温さも受け付けない、その冷たさを綺麗だと感じたり。

 気温が下がるにつれ、月は輝きを増しますね。寒さの中で美しさを増すものもあるのだと、そう思いました。

『遠いうねり』栗本薫 著

『遠いうねり』栗本薫 著を読みました。以下、感想を書いていますが、ネタばれしています。未読の方はご注意ください。

グインサーガの127巻です。

一時期精神的に追いつめられてたイシュトバーンが、昔のように陽気で単純(シンプルというべきか?)な個性を取り戻していて、よかったなあと。以前は、疑心暗鬼で周りがみんな敵、という被害妄想まで出現していたから。

元妻、アムネリスに対する思いを語る場面では、うん、うん、と読みながらうなずいてしまいました。かなり冷静で常識的な見方ができているなあって。

そう。本当にイシュトの言うとおりで。恨むならイシュトや、見抜けなかった自分自身を恨めばいい。少なくとも、生まれた子供には何の罪もないのに。「悪魔の子」ドリアンと名付けて、自分だけはさっさと逃げてしまったわけで。これは本当にひどすぎるかと。

アムネリスには、いい印象がないです。

ドリアンやアムネリスについての気持ちを語るイシュトバーンは、ついでのように、自らの生い立ちに対する思いも正直に吐露していて。これは意外でした。そういうことを、全部受けとめて、ことさら気にもとめていないイシュトだと思っていたのに。

ちょっとホロリとさせる語りでしたが、でもイシュトバーンの激情っぷりを考えると、そばにいる人は大変だろうなあ・・・。いつ殴りかかられるか、それこそ殺されてしまうかわからない。実はけっこう繊細な神経の持ち主で、だから人の感情の、微妙な動きも敏感に察知するし。思い通りにいかなかったときの爆発の仕方は、なまじ権力を持ってしまったばかりに、常人以上の被害をもたらすわけで。

権力をもたなければ。一介の流れ者のままだったなら。まだ、純粋に、陽気な若者のままでいられたのかなあ、と考えてしまいました。リンダに軽口を叩き、夢を語り、一緒に旅をしていたときのイシュトバーンには怖さを感じなかったけれど、いろいろあった今。

穏やかに話していても、どこかゾクっとするんですよね。次の瞬間、何かのきっかけで豹変する描写があるんじゃないか、なんて想像してしまったり。

一方、ヨナ博士と、アルゴスの黒太子スカールの二人旅は、スカールのこの台詞にドキっとしました。

>大丈夫だ、お前のことは、俺の一命にかえてもちゃんとパロまで連れ帰ってやる。

スカール、かっこよすぎるんですけど(^^;

すっごくサラっと言ったんだろうなあとは思いますが、でも目の前で聞いたら感動するでしょう。やるっていったらやる人ですから。

私はスカールというと、読むときにクラーク・ゲーブルを思い浮かべているのです。『風と共に去りぬ』でレット・バトラーを演じていたときの。

レットもかなり頼りになる人でしたが、スカールも有言実行の人だろうなあと想像してます。一緒に旅をしていてスカールにこんな台詞をさらっと言われたら・・・・いかん、惚れてしまいますな。そして、どんなに安心感を感じるだろうと思うのです。

そして二人が招待された、イオの館。「この部屋だけは近づいてはいけないよ」って、いわゆる恐怖物の定番の設定が示され、緊張感が高まります。幽霊だの殺人鬼だのという恐怖よりも、こういう心理的に追いつめられるようなものが、ぞっとしますね。

やっぱり人間の、好奇心なんでしょうか。

隠されれば見たくなるし、いけないと言われれば、その理由を知りたくなる。

けれど禁忌を破れば、もう元の世界には戻れないというおぼろげな予感・・・。なぜイオはわざわざ、そんなことを注意したんだろう?という疑問もあります。

広いお屋敷なのだし、いちいちそんなこと言わなくても、入ってほしくない部屋には鍵をかけておけばいいだけなのに。

罠?だとしたらよけいに不気味です。

イオが完璧に「いい人」として行動しているだけに、その仮面の向こうには何があるのだろうと。

そしてこの本の最後の一行を読み終え、頭の中に流れてきた曲は、イーグルスでした。そう。『ホテル・カルフォルニア』です。

この曲、初めて聴いたときから、そのメロディがとても印象的でした。美しいのですが、とても哀しくて、寂しさを思わせるような。

それから歌詞を知って、妖しい魅力にとりつかれてしまいました。幾通りにも解釈できる意味深な言葉。果たして現実なのか、それとも夢なのか。

読後しばらく、この曲が頭の中をぐるぐるしてました。次巻が楽しみです。

ところで最近、グインサーガが過去に、舞台化されていたことを知りました。あの世界がミュージカルになっていたんだ! 興味津々ですが、気になるのはその配役です。

なんと、岡幸二郎さんがイシュトバーンで、駒田一さんがヴァレリウス!

駒田さんは納得ですが、岡さんのイシュトバーンは想像つきません。グインの世界だったら、岡さんは明らかにナリスなのでは??と思ってしまいました。配役したの、誰なんだろう。

うーん。岡さんの中に、イシュトバーンぽさは感じないなあ。怒っても、表に出さなそう。そういうところは、ナリスっぽいと思うのですが。ストレートの黒髪も似合いそう。

それにしても、あの世界をミュージカルにするというのは、すごいですね。見たかったです。