ドラマ『二千年の恋』 感想

 ドラマ『二千年の恋』を見ました。以下、感想を書いていますが、ネタばれ含んでいますので未見の方はご注意ください。

 2000年に放送されたドラマです。当時は全く興味がなく、本放送は見ていませんでした。そもそもタイトルに「恋」が入ってる時点で、見る気は失せます。安易すぎる…愛とか恋とかいれときゃ、一定の視聴者は食いついてくるとか、そういう意図があったのかな。

 タイトルも、それから国際スパイものだという設定も、陳腐すぎて当時全く興味をそそられませんでした。

 そしてあらためて2014年、このドラマを見て思うのは、やっぱり荒唐無稽だなーと。
 あまりにも現実離れしていたり、つじつまがあわないようなことが多すぎて、冷めた目で見ていました。主人公である金城武さん演じるユーリと、中山美穂さん演じる理得(リエル)が、どちらも美男美女、美しいというところだけが見所で。

 私はコッテコテの恋愛ドラマって決して嫌いではないのですが、それなりに真実味のあるお話でないと、物語に入りこめないんですよね。いくらドラマとわかっていても、ちゃんと説得力が欲しいのです。ユーリは国際スパイという設定でしたが、もしこれが現実の話なら、理得がらみで不用意に勝手な行動をとるユーリは、お話のもっと最初の方で同胞から危険視され、命を奪われていたような気がします…。

 スパイが情報収集のために近付いた相手と、恋に落ちる。これ、絶対に許されないことでしょう。一番危険なことでしょう。私情が任務を左右するようになったとき、それを許しておくほど、組織は甘くないのではないかなあ。
 だから、理得を守ろうとユーリが彼女をホテルに匿ったとき、請われて一晩彼女と一緒にいたとき、もうその時点で、ユーリのボスはユーリを許さなかったと思う。決定的すぎる。
 連絡もなく、長時間行方不明になっちゃったんだから。仕事中のユーリが。

 理得をどうこうしたところで、不信はぬぐえないはず。もうユーリそのものに対する信用がゼロで、ユーリは即刻、仲間から殺されてもおかしくなかったと思います。

 二人きりで、いろいろ素直に話すシーンはロマンチックでしたけども。現実味はまるでなかった。そんな時間を過ごせば、もう、何事もなかったかのように、ユーリは仲間の元に戻れるはずなんてないのに。そのことに対するユーリの覚悟が、見えてこなかった。

 そもそも、ユーリがスパイっぽくない…。
 それは最初から思ってました。金城さんが気のいいお兄さんにしか見えないから。スパイの凄みも、陰も見えなかった。
 どうしても隠しきれない人の良さが、金城さん演じるユーリにはありました。お気楽なあんちゃん。のんきで楽天的な自由の国の好青年に見えました。むしろ。

 だからどんなに、ドラマでユーリの運命の過酷さを説明されても、どこか遠い出来事のようで。その重さを、実感することはできませんでした。

 ところがです。このドラマで私が心を奪われてしまったシーンは、最終回の最後の最後に出てきたのでした。

 それは、家族全員を国に殺され、弟も父もその手にかけたという壮絶な人生をいきたユーリが、理得を人質にとられ、究極の選択を迫られるシーンです。

 そのときのユーリの表情は、忘れられないものでした。
 fayrayさん演じるナオミは、爆弾のスイッチを、人質にとった理得の心臓の前にかざします。スイッチを撃てば、理得を撃つことになる。ユーリは撃たないだろう、とナオミは確信しています。

 ユーリの目から涙が流れて。ユーリは理得を撃ちます。そのときの表情が凄いのです。ナオミに対する怒りや苛立ちではなく。静かな哀しみが、涙と共に流れて。

 理得がそのとき、スコープ越しに小さくうなずいたのを。「撃って。たとえ私が死んでも、みんなを守って」という彼女の心の声だと、ユーリが解釈したのであろうことは容易に想像できますが。
 なんだか、その前に、ユーリは理解してしまったような気がしたのです。理得の意志がどうであれ、ユーリは撃つことをもう決めていたように思います。ナオミは絶対に引かない。二択しかない。なら答えはひとつだと。

 もちろん、理得が暴れて、撃たないで、死にたくないと抵抗するのを目の前で見たら、ためらったかもしれないですが。理得はそんな女性ではありませんし。

 理得と生きる、新しい人生なんてどこにもなかったんだと。人質にされた理得を見たときに、誰よりも早く深く、ユーリは悟ってしまったような気がしてならないのです。だからこその、哀しみの涙だったような。全部わかってしまい、悲しい結末がすぐそこにあることを知っての涙。

 ドラマで映像として描かれた、荒唐無稽な過去よりも。もっとたくさんの、もっと苦しい出来事が、どんなにかユーリにはあったんだろうと、そう思わせる表情でした。表現が大げさでないぶん余計、心にしみました。
 ユーリの過去が、垣間見えたようで。

 

 自分の銃弾が、多くの人の命を救う一方で。大切な相手の命を奪ってしまう。ユーリの苦悩。彼女を失えば、自分も生きてはいけない。私はユーリの指にかかる引き金の重みを、まるで自分のことのように感じながら、画面に見入ってしまいました。

 その後がまた、ユーリらしくて。撃ったのは自分だから、彼女が確実に死ぬであろうことも、誰よりもわかっているわけです。そしてふらふらと、放心状態で理得の元へ歩み寄り、警官隊に撃たれて理得の横に崩れ落ちるのですが。理得のすぐ横であっても、決して理得の上に倒れないところがまた、ユーリの優しさであると思いました。

 最後なら、普通は触れたいと思いませんか。顔でも手でも。抱きしめたいと思えば、理得に覆いかぶさるようにして崩れ落ちてもおかしくないと思うんですよね。でもそしたらきっと、痛いし重い。だからこそ、わざと、真横に倒れて。それで理得のことを見るんですよ。

 許しを請うように? 救いを求めるように? 理得が目を開けて、視線が合ったら、ユーリは一瞬だけかすかに笑って、すぐに目を閉じて。この、微笑すれすれの演技がすごいと思いました。
 実際には表情は笑ってないかもしれないです。でも見えるんですよね。笑ってるユーリが。

 演出もすごいし、それにぴったりはまったのが金城さんだったと思います。

 ただ、理得が妊娠していたという後日談は蛇足だと思いました。う~ん、本当にこのドラマ、そういうところがやりすぎというか、陳腐というか。むしろ、そういう設定はない方が、二人の最後にはふさわしかったと思います。余韻が台無しになるといったら、言いすぎかな。

 このドラマ、最後の金城さんの演技が、しみじみと心に残ります。全11話ですが、最後の表情にやられました。それまでの10話の物足りなさが、ふっとんでしまう勢いです。

ドラマ『愛していると言ってくれ』 感想

ドラマ『愛していると言ってくれ』を見ました。以下、感想を書いていますが、ネタばれしていますので未見の方はご注意ください。

1995年に放送されたドラマです。当時は見ていなかったのですが、主題歌の『LOVE LOVE LOVE』が大ヒットしたのはよく覚えてます。街のあちこちで流れていたから。

本当にそうだなあと納得する歌詞。
好きっていう気持ちは不思議なものです。理由なく心が震える。

昔のドラマだけど、今見ても面白かった~。なにより、榊晃次を演じる豊川悦司さんが美しいのです。

なんだろうなあ。繊細で影があって、目が離せなくなる魅力があります。今とイメージが全然違いますね。今も素敵な俳優さんですけれど、このときのトヨエツはまた特別だと思います。
時間の創り出した一瞬の煌めきみたいなものを、ドラマ映像で堪能することができます。

このドラマ、主役は常盤貴子さん演じる水野紘子(ひろこ)だと思うのですが、紘子から見た晃次と、晃次から見た紘子、二人の心のすれ違いがせつないです。

年の差、とかね。晃次の耳が聞こえないという事実に対しての、二人の認識のずれ、とか。

紘子は23才位で、晃次は30才くらいの設定だと思いますが、このときの感覚的な年の差は大きいな~と思いながら見てました。年齢上がれば上がるほど、年の差は縮まっていくと思いますが、20代だと大きいな。
80才と87才だったら、もはや同い年みたいな感覚かもしれないですが、20代の一年は大きいかも。

晃次が常に上から優しく紘子を見守っていて、紘子はそれに追いつこうと、ぴょんぴょん飛び跳ねてる、というイメージでした。オープニングの、りんごを取るシーンみたいに。

物語の中で、ずーっとそうだったような気がします。
紘子には晃次がわからない。大好きだけど、自分が知らないことを一杯知っていて、いっぱい知らない過去があって。そういう自分のわからない部分に嫉妬して、疑心暗鬼になって、勝手に怒って、という繰り返しだったような。

晃次は晃次なりに、年長者として紘子に責任も感じるし、誠意をもって付き合おうとするんだけど、それがうまく伝わらない。誤解されて、怒られて、そして結局は紘子に逃げられてしまう。

うん。私は結局、紘子が去って行ったのだと思いました。晃次を捨てて。
最初の頃、多少強引に晃次に迫って来る紘子に対し、「君のセンチメンタルの道具じゃない」みたいな厳しい言葉で拒絶しますけども、結果的には彼が危惧した通りになったわけで。気の毒に思ってしまいました。かき乱すだけかき乱しておいて、去っていくなよ~と。
紘子みたいに可愛くて純粋な女の子に、好き好き攻撃をかけられて平静でいられるわけないのにね。絵の具や絵をあげたりしたところからして、そもそも晃次は、無意識の部分でも紘子はタイプであったように思います。
でも長い目で見たときうまくいかないのはわかってたから、防御反応でそれ以上は近付かないように、一定の距離を保つようにせっかく理性を保ってたのに。
その壁を、ひょいひょいのぼって来られて、ぐいぐい心の扉を開けられて、あげくにふいっと、また去っていくのですからたまったものではありません。

個人的な感想ですが、私はもうこの後、晃次は誰かと付き合ったりすることなく、一生過ごしたんじゃないかな~と想像してしまいました。最終回では、数年後の二人の再会、後は御想像におまかせします的な感じで終わってるんですけども、お茶飲むくらいはあっても、また付き合うことはないだろうなあって。

また同じことの繰り返しのような気がします。
人はそんなには変わらない。根本的な部分は一緒だし、そこを変える必要性もなくて。それが個性というものではないかと思いました。
変えられる部分と、変えられない部分がある。
一緒にいれば、傷付け合う相性、というのもあるのではないかと。

紘子と晃次は合わないと思いました。
どっちにとっても、一緒にいることは不幸なんじゃないかなあ。楽しくて、刺激的な部分はあるけど、それ以上に反発しあう部分があって。

紘子は若いから、晃次のいろんな部分が気になって仕方ない、笑って見過ごせない、という面もあるとは思いますが、じゃあ年をとって紘子が鷹揚になるかというと、それも多少、というレベルじゃないかなと。二人がぶつかりあわず、冷静に話し合えるような関係になるには、あまりにも紘子が神経質すぎるような。

決定的だと思うのは、喧嘩したときに紘子が言い放った言葉。一緒にいてもつまらないとか、手話が疲れるとか、CDを一緒に聞けないとか言ってましたね。

これはね~。いくら喧嘩したからといって、ありえないひどいセリフです。たとえ思っても、思ったのと、口に出して言うのには大きな差がある。というか、こういう人が、晃次と付き合っていくの、無理だと思う。いつか必ず、また傷付ける日がくる。(まあ、実際11話で、また晃次を泣かせてましたし)

紘子がいいとか悪いとかではなく、紘子はそういう人だから、です。そして、紘子は自分の言葉を反省はするけれど、また晃次と付き合おうとする、その行動が、私には理解できなかったなあ。
ああいうこと言っちゃった自分っていうのも、本当だと思うんですよ。まるっきり心にないことを言っちゃったわけじゃなくて。普段思っていても、口にはしなかったことがぽろっと、飛び出しちゃったわけで。
喧嘩して、相手を憎いと思って。傷付けてやりたいと思ったからこそ、口にできた言葉。

そしたらもう、諦めるしかないのにな。
だって、また同じことは起きるから。きっとまた、怒ったときには言ってしまう。一番晃次を傷付けてしまう言葉を。

喧嘩でも、言っていいことと悪いことが、あると思うので。紘子は、相手を大切に思うなら、この喧嘩の時点で、別れるべきだったんじゃないかと思います。本当に相手を好きだと思うなら。

それに喧嘩の理由も、なし崩しに女優をやめようとする紘子を、晃次が諌めた、という、晃次に非のないものでした。お説教かと反発した紘子でしたが、いやいや、それは晃次の誠意だろうと。
自分と付き合うことで、相手が堕落したら嫌だという気持ち、わかりますもん。年上ということで責任も感じていたのだろうし。

最終的に、紘子と晃次が別れる決定的な原因になったのは、晃次の元彼女である、光という女性に関する誤解ですけども。この人じゃなくても、きっと他の誰かのことでも、紘子は嫉妬したんだろうなあ。だから光がいなくたって、時間の問題で二人は別れていたんだろうなあ、なんて想像しました。

この光っていうのも嫌な人でしたね。
そもそも、元彼氏に頼りすぎだし(^^; 自分がつらいからって、そこまで寄りかかるのはあまりにも、甘えすぎかと。
元彼には元彼の、新しい人生があるわけです。新しい彼女と、幸せに暮らしてるなら、そこに入りこまないのは最低限のマナーじゃないのかと。

雨に濡れて元彼の家に行くかな~っていう。しかも断わられて、自殺未遂とか迷惑すぎる。どうしてそこに、元彼を巻き込むのか。

晃次を責めるのは、酷だと思いました。最初はきっぱり、元カノを家に上げるのを断ってる。それも、ここは自分だけの家じゃない(恋人と住んでるから)という意味のことを、ちゃんと言ってるのに。
自殺未遂までして、放っとけないと思った元彼の優しさにつけこんで、家に上げてもらう。しかも、置き土産に、今の恋人へのあてつけに、こっそり指輪を残していくとか、どんだけ性格が悪いんだ( ̄Д ̄;;

たとえ自殺未遂されようがなにしようが、きっぱり断れない晃次が悪いんだ、という人もいるかもしれませんが、私には晃次が可哀想に思えました。あそこで「俺には関係ないね」と知らんぷりできる人じゃないところが、晃次の良さだと思うので。

じゃあどうすればよかったのか。
あの場で紘子にFAX打てばよかったのか。これから元カノを家に泊めます。でもなんにもないから、心配しないで、って?
それは逆に、残酷というものです。事情のわからない紘子に、無駄な心配をかけるだけ。だから直接会って話すまでは、黙っていようと思ったのは、賢明な判断だったと思いますが。

あの指輪がねえ。
うん。怒れるのはわかるけれども。まずはちゃんと、晃次の話を聞いてあげればよかったのにな。目の前にいて、説明しようとしている相手に聞く耳もたないなら、付き合う価値はないと思うのです。人に聞いた話じゃなくて、ちゃんと本人の話を聞くべきだと思う。別れるにしても、ちゃんと説明だけは、聞くべきじゃないのかなあ。

そして、晃次と元カノの仲を誤解した紘子が、何をしたかといえば、腹いせに幼馴染のけんちゃんの家に一泊。

なにやってんだよと\(*`∧´)/
そんな幼稚な嫌がらせで、大事な人を傷付けるな~と。ドラマとはいえ、思わずため息が出てしまうような展開でした。
思えば、なにかあるたびに、けんちゃんを利用する紘子。けんちゃんは紘子が好きだから、紘子に求められれば絶対に拒絶しない。それがわかってて、けんちゃんに甘え続ける紘子。
書いてて思ったけど、紘子だって光(元カノ)とたいして変わらないなあ。相手の優しさを利用してるから。

そして紘子がひどいのは、自分が秘密を抱えているのが苦しいから、けんちゃんの家に泊まったこと、晃次に言っちゃうんですよね。相手に対する誠意というより、自分の罪の意識から逃れるために、言ってしまったような気がします。どうせ別れる気でいるのなら、墓場までもっていけばいいのに。そんなこと知っても、晃次が傷付くだけなのに。そのときの晃次の表情がすごく印象的でした。そりゃこういう顔になるよな~っていう。そういう顔以外の、なにができるの?っていう。

紘子は若いから、なのかもしれませんが。追いかける愛なんですよね。押し付ける愛、といってもいいかもしれない。自分の気持ちを相手に投げるだけ。投げられる側の気持ちや事情は、考慮しない。自分が好きだと思えば、そうしたいと思えば躊躇しない。

晃次のは、追いかけない愛なんだなあと。相手を追いかけないのも、また愛なのです。
たとえば最終話で、紘子といい雰囲気になっても、紘子がけんちゃんを思い出して泣きだせばもう、それ以上は踏み出せない、みたいなところ。バスで去っていく紘子を追いかけ、強引にでもひきとめるようなまねが、できないところ。

そういえば、同じような引く愛をもっていたのが、画廊のマネージャー、余貴美子さん演じる神崎さんではないかなあと。あの人、晃次のことを好きだったんじゃないかなあ。ほんのりと気持ちが描かれていたように思いました。
冗談めかして、ちゃんと逃げ道残した上で、晃次にそっと愛情を告げていたような。それで晃次からなにも返ってこなければ、諦めてそれ以上は追いかけない。だって追いかければ、彼が困ってしまうだけだから。

トヨエツがとにかく美しく、常盤貴子さんの若さが眩しいドラマでした。

『常套句』Mr.Children 感想

Mr.Children の『常套句』を聴いています。以下、その感想です。

 

ミスチルのこういうバラード、好きだなあ。綺麗なメロディに乗せて想いを歌う、という。このシンプルな構成。

 

タイトルが『常套句』ってところがちょっとひっかかりましたが。常套句っていうと、なんとなくマイナスのイメージだから。嘘の言葉。偽りの言葉。心にもない飾り文句、みたいな。

でもこの曲中に何度も出てくる、愛を告げる言葉はどれも真摯で。胸にしみいる真実の声。これ、常套句なんかじゃないよ~って、思ってしまいました。

照れなんでしょうかね。このタイトルは。主人公は男性? どうせ、それが君の常套句なんでしょ?と、拗ねる彼女に、そうだよ、とぶっきらぼうに返しながら、歌い続けてる感じがします。

誰かを好きになったら、たしかにこうなるだろうなあという。
それ以外、なにがあるの?っていう。

今何してるのかなあとか。どんなこと考えているんだろうとか、そればっかり気になって。
そして、思うんだよね。自分と同じくらい、相手も同じ気持ちでいてくれるんだろうか、と。

曲の中ごろまで、ただふわふわとした甘い気持ちが続くのですが。この曲の凄さは、途中でぶった切りが入るところです。

ええーっ!!と。椅子から滑り落ちる勢いといったら大げさでしょうか。その瞬間、甘い物語が悲恋に変わってしまう。それも、ただの片思いなどではなく。

この曲を途中まで聴いた時には、両思いの微笑ましい歌なのかな?と思ってました。付き合い始めたばかりのカップルが、互いのことをまだよくわからなくて、信じきれなくて。離れている少しの時間がもどかしくて、相手を思う歌なのかな~って。

でも、途中、話が違ってくる。

二人に明るい未来がないことを、知っている歌になる。

相手を好きだ、とはっきり自覚したそのときから。絶望的な結末しか見えない、そういう関係を歌っているように想像しました。だから、相手を好きになる、嬉しい気持ちと同じだけ、悲しみに襲われるのでは? どんなに好きになっても、幸せな結末などないとわかっているから。

嬉しさと、悲しみと。二つの感情をもてあましながら。ただただ、愛というエネルギーだけが、どんどん膨らんでいくような。

それは・・・困るだろうなあって思います(^^;
どこにも、行き場がないからです。

狂おしいって、言い得て妙。
たぶん、理性ではわかってるから。幸せになれないとわかっているのに。どうせ駄目だってわかってるのに。なぜ相手を好きになってしまうんだろうっていう。
冷静に考えたら、本当に狂った行為なわけです。
どうしてわざわざ、不幸になる方向に向かってしまうのか。
くるっと反対方向向いて、軌道修正したらいいのに。忘れてしまえばいいのに。後で泣くの、わかっているのに。

それでも、好きになってしまう気持ち。
メロディが、胸に響きます。
感情だけが、理性に反して暴走する。痛いですね。

相手の気持ちを気にしていたのに。この曲の最後はシンプルな言葉で終わるのです。

・・・深いなあ・・・。もう、相手の気持ちを問うことなく。ただ独白で終わるんです。
その言葉が、相手に届かなくてもいい。そんな気概すら感じます。君がなにを思おうとも、僕の気持ちは変わらない。そういうことなんでしょうか。

少し悲しい瞳で。離れた位置から彼女を見ているような。
ただただ、無邪気にはしゃいでいた時は過ぎて。そこにいるのは。どんな人なのだろうと。

常套句なんかじゃないなあって、思いました。「愛しています」っていう言葉にこめられた気持ちの重さは。

ドラマ『世紀末の詩』 最終話 感想

ドラマ『世紀末の詩』の感想を書きます。以下、ネタばれ含んでおりますので、ドラマを未見の方はご注意ください。

これ、放送されたのは1998年。まさに世紀末の年。

私はリアルタイムでは見ていなかった。野島伸司さんが脚本を書いているということで、もっと過激なお話なのかと思っていたから。

実際には予想を裏切られるほどメルヘンで、そして深いドラマでした。

おとぎ話なのです。一話完結。ですが、全体を通して見るもよし、一話ごとの独立のお話を楽しむもよし。十一話全部のお話に登場する名コンビ、百瀬と亘(わたる)、それぞれ山崎努さんと竹野内豊さんが演じています。二人が、愛について考察していくのです。

最終話では、二人はそれぞれに答えを出します。

愛は冒険(潜水艦)で、風船だと。

冒険っていうのは。危険を承知で、でも旅立たずにはいられない、そういう気持ちを愛に例えているのでしょうか。
愛は衝動的だからなあ。
理性では、説明できない感情の発露だったり。

冒険家っていうと。山登りとか?
どうして登るのかと問われて。そこに山があるからという答えは、有名な話ですね。

登った先に、なにか目に見える凄いものがあるわけではない。命に代えても惜しくないほどの宝が眠っているわけでもない。

なにかが保証されているわけでもないのに。すべてを投げ打ってでも、心の奥底から涌き出る衝動に導かれて、その先にある景色を見に旅立つこと。

劇中で亘は潜水艦で旅に出ました。それは、愛を象徴する冒険なのか。

見返りを求めない。ああ、求めないっていうのは嘘かな。求めるけど、たとえ何が返らなくても、そうせずにはいられない、なにも変わらない。一方的で激しい、感情のうねり。
だから冒険に出かける。とにかく、そうせずにはいられないから。

そう考えると、愛と冒険は共通点、あるかもしれない。

愛は風船っていう例えは。これは儚いという意味で、共通してるのかなあ。空に昇った色とりどりの風船も、いつかは空気が抜けて。落ちてしまうから。

私は、最終話の亘が好きです。
第二話では、他人(コオロギさん)を見下して大笑いするような卑小な側面を持っていた彼が。一話ごとに成長していった末、出した答え。

里見のことは好きで。
厳しい親に育てられて、人の物を盗るなんて一度もしたことがない彼が、結婚式の日にあなたを盗みに行きますなんて宣言しちゃって。まあ、それくらい好きだってことなんでしょうけど、でも結局行かなかったのは。それが彼の出した答え。亘の愛の形。
盗みたいと思っています。でもしませんよ。僕はあなたが、好きだから。亘の胸中を察するに、そういうことなのかな~。

>僕本当にあなたを、さらいに行きますからね。
>ええ、待ってます。

結婚式前夜。上記のセリフのときの二人は、まるでおとぎ話の主人公のようです。疑いを挟む余地など、どこにもないほどに。ただ、幸せなハッピーエンドを信じる童話の王子様、王女様みたいで。

>里見さん。愛の形が見たくありませんか?
>愛の形?
>ええ。明日見せてあげます。
>約束します。

里見を見上げる亘の表情は、とても大人びて見えました。今までとは違う自分になったから? 愛についてまたひとつ深く、悟ったから?
亘はこのとき、もう二度と里見に会うことはないと、決意していたのだと思います。里見にかける最後の言葉。永遠の別れ。

結婚式当日。

>(中略)生涯の愛を、ここに誓いますか?

そこで黙りこみますかっていう、ね(^^;
隣で新郎は、促すように優しく微笑みますけれども。私だったらもうこの瞬間、心の中で愛情がぷつんって、切れちゃってると思う。

要らないよ。誓いの言葉が言えない花嫁なんて。
他の人が好きなら、その人のところに行けばいいじゃないかーと。無理して、妥協で結婚とか、失礼だろうと。

長い長い沈黙の後。「誓います」と花嫁の微笑。

ひどいな。嘘をついても平気なのか。たった今、この瞬間まで。他の人との未来を夢見てたくせに。その人が来ないなら、次点の人でってことなのか。なんだその変わり身の速さは。

そういう愛って、欲しいですかね。それは、愛というより打算のように思える。
私がもし、花婿の立場なら。要らないですそんなもの。

知らなければ、うまくやっていけるんだろうかこのカップル。
なんだか、でも私が花婿だったら、本当に嫌だ。
ただ、そんな里見を選んだのもまた、本人の意志なんだよなあ…。

私はこのとき、教会に現れなかった亘の気持ちが、少しわかったような気がしました。亘は里見がそういう人だったから、教会に行かなかったのではないかと。

里見の中にある、傲慢な部分を。
恋人を傷付けても構わない。それも、最も劇的に、残酷な方法で。そして相手の痛みに酔い、自己の価値を確認する、エゴイスティックな心を。

そうか。里見は。亘を捨てた花嫁と、同じ存在なのですよね。

そうして、再び亘は彼女と向き合う。愛してると思った相手に。でもそこにあるのは、本当の愛じゃなかった。

彼女は亘を、愛していない。愛しているのは自分だけ。

略奪される花婿。略奪する恋人。亘の立場が変わっただけ。愛しい彼女はただ、状況を楽しんでる。悠然と微笑んでる。

そのとき、亘は気付いたのかもしれない、と思う。
なぜ自分があの結婚式で、惨めな敗者となったのか。それは、彼女の愛が本当ではなかったからです。

この世に、愛は存在します。ただ、真実の愛は、里見にも亘の元婚約者にもなかった。
教会でのドラマチックな奪還を許す花嫁に、愛などあるのでしょうか?花婿を傷付け、恋人に略奪者の咎を負わせ、それで幸せ? そんなはずないし。

最後の逢瀬で、さらいに行くという亘に、里見は嬉しそうに「待ってます」なんて言っちゃってましたが。その返事こそが。亘の行動を決定づけたんだろうなあ。もしも、それをとめる里見であったなら。

亘は教会に、現れたのかもしれない。

亘は、自分が略奪者の立場に立って初めて、略奪者もまた、愛されてはいなかったと知ったのではないでしょうか。

結婚式の前日。別れ際。階段を上がる里見を寂しそうに見上げたのは。自分が愛したのは幻だったと、亘が気付いたからかもしれません。目の前にいる人。姿形は、確かに自分の愛した人なのに。その心には、自分は存在していなかったと。深く悟った、その寂しさだったのかもしれません。

それじゃあまた明日、と言ったときにはもう、わかっていたんでしょうね。おやすみなさい、と言って車で走り去る亘を見送り、里見が不安そうな顔をしたのは。亘の心境の変化を、本能で察知したからだと思います。もう、亘は里見に恋していなかったから。
ただ、悲しい目で見てましたね。

最終話は、謎の少女ミアの演技も印象的でした。坂井真紀さんが演じています。このドラマを見るまで「絶対キレイになってやる」のCMの人、というイメージしかなかったのですが、ミアはハマリ役でした。

>お前は一体誰なんだ?
>死神…私いる…お前も…死ぬ…
>どうして、俺を連れていかない?
>あたし…お前…
>お前は死神なんかじゃない。天使だよ。
>ありがと。

亘を助けようとするミアと。ミアを気遣う亘と。二人の間に存在したのは、愛だったなあと。

私はこのとき、ミアに感情移入していたので、亘の言葉を聞いて胸がつまりました。

ミアは死神。だったら、こんなに好きな亘と、離れるのは必定。一緒にいれば死をもたらすから。なのに。
「天使だよ」なんて、力強い言葉。
いや、こんなこと言ってくれるような亘と別れなきゃいけないんだから、そりゃあ泣くでしょう。泣くしかない。たぶん、死神のミアにそんなこと言ってくれる人、亘しかいない。でも、だからこそ亘を解放しなきゃいけないという、この皮肉。

ミアは、自分の死神という役割に、今までなんの疑念も抱いていなかったんだと思います。ただ亘と出会って、この人を死なせたくないと思って。そのためなら自分が去るしかないと悟ってそれが悲しくて。
別れの時を知ったとき、ただ感情のままにわんわん、子供みたいに泣いた。その姿が、とても可愛かったなあ。

愛について考えながら、キャバレーのトイレでブラジャーを握りしめて独りで死んでいった百瀬。その最後は、百瀬らしかった。
百瀬の意志を継いで、潜水艦で新天地を目指した野亜亘。野亜が、新しい世界を創造するノアその人だとしたら、亘が行く潜水艦の先には、どんな景色が広がっているんだろう。

ノストラダムスが世界の終わりを予言した1999年が何事もなく過ぎ、今年はなんと2012年。『世紀末の詩』その続編があるとしたら、脚本家の野島伸司さんはどう描くんだろう? そんなことを考えていたらなんと、衝撃の事実が発覚。

野島さん、2011年に結婚されていたのですね。しかも23才年下の方と。そしてすでにお子さんがいらっしゃるとは。びっくりしました。自分を作品に投影しない作者はいない、と私は思っているので。亘は野島さん自身の投影だと思っていたから、その結婚はきっと、亘の見い出した新世界そのものなんだろうと想像しています。

ドラマの主題歌は、ジョン・レノンの『LOVE』。これを聴くと、愛って哀しいものなのかなあと、思ったりします。全面的な幸福を歌った曲には思えなくて。
ジョンとヨーコの愛も。この『LOVE』のように、喜びや優しさだけではなかったのかな、としんみりしたり。

愛ってなんだろう。あらためて考えてしまうドラマでした。

『One more time, One more chance』山崎まさよし 感想

山崎まさよしさんの『One more time, One more chance』を聴いています。以下、感想です。

駄目だ。この曲は泣ける。
そのうち泣けない日が来るのかと思いましたが、これは反則技とも言うべき、何度聴いても「泣ける曲」ですね。

私はこれ、山崎さんの歌でなくても、たとえば誰かがカラオケで歌っただけでも泣けてくるので、ひとりでいるとき以外は絶対に聴けないという禁忌の曲なんですけども。

曲中に、「桜木町」という駅名が出てきます。

この駅に、初めて降り立ったときの興奮を思い出します。おお~、ここがそうなのね~と。桜木町という言葉を聞くと条件反射のように、そのときのことを思い出すのです。

私は横浜が好きです。

懐かしすぎて、これまた胸がつまるんですけども。横浜という街の空気や建物が、大好きでした。

不機嫌なときも、憂鬱なときも、ともかく横浜をぶらぶらと散歩すればそれだけでご機嫌になれました。あの土地には強く惹かれるのです。いつか住みたいと思いつつ、その機会はないまま今に至ります。

みなとみらい地区も散歩スポットとしては素敵な場所ですが、山手の洋館巡りも最高です。港の見える丘公園なんて、もう、名前だけでノックアウトされるくらい大好き。何度も足を運びました。

この『One more time, One more chance』は、私の中の横浜のイメージそのもので。歌とともに、昔よく歩いていた景色が鮮やかに蘇ります。ほろ苦くて、少し痛いのです。

冒頭がいい。

別れを自分の罪と捉えたその、ズキズキするような痛みの感覚とか。
罰せられることで罪が贖えるなら、もう一度会えるのかって。冷静に考えればそんな訳ないんですけども。
せっぱつまれば、その矛盾にも気付かない。
どんな痛みを覚えても、だからってもう一度、関係が修復することなどないだろうって、客観的に考えればわかるのに。自分が当事者でどっぷり感情に流されていると、そんな単純なことにも気付かなかったり。
人ごとなら理性が働いても。当事者になれば見えなくなる・・・よくある話です。

つらい思いをしても。
それが贖いになるかといえば、そんなもの、相手には全く関わりのない話ではないでしょうかね。

もし自分なら、別れた相手に対して自分と別れた後、不幸になってほしいなんて思わないなあ。むしろ、自分と別れた後には、記憶をなくすくらい自分のことなんて綺麗さっぱり忘れて、別の人と幸せになってもらいたいです。
覚えていてほしくないし、思いだしてほしくもない。できれば、出会った頃からの記憶を全部、手動で消去したいくらいです。

そして、誰でもいいわけではないという気持ち。忘れられない人がいたら、いつもその人と比較してしまうと思う。
そしてその違いはどうしても乗り越えられないもので。
違う人といればいるほど、好きな人を思い出してしまうのかも。

降るような星空、あまりにも壮大で美しいものを見たら、とりつくろう気持ちなんてきっとどこかに吹っ飛んでしまう。
綺麗な景色に感動したときは、大好きな人とその感動をわかちあいたいその気持ち、すごくよくわかります。

迷いの果てに、行くとこまで行っちゃいましたって感じで、曲は続いていきます。
最初は、その人が住む街だとか、よく行く店で、無意識にその人の姿を探してしまうでしょうけど。そのうち、全く関係ない場所でも、心のどこかで影を追いかけているという、その感覚。

ないに等しい可能性にすら、すがりついてしまう弱さ、みたいなもの。

そして最後の方。ええ~~!! これだけ好きだったのに、ちゃんと言葉で伝えてなかったんかい!! そりゃ未練も残るわ~!!\(;゚∇゚)/

と。私はここでいつも、驚きを覚えてしまうわけですが。
言葉で好きって言わないのは、惰性だったのか、プライドなのか。

でも、大丈夫な気がする。
一応つきあってて、一緒の時間を過ごしたら。相手がどれくらい自分のこと好きか、それは彼女は察していたと思う。

この曲の中のカップルが別れた理由は、好きって言わなかったからじゃないと思うし。
まあ、それには関係なく、ストレートに気持ちを伝えられなかったことを、彼は悔んでいるのかもしれませんが。

どうなんだろう。
言葉って大事か? 言葉なら一度でもいいと思うけど。その一度すら、なかった関係なのかなあ、この曲。

今ならどんなことだって乗り越えられるのに。なにを失ったって構わないのにっていう。でもその肝心なときに、肝心な相手は目の前にいないっていう。

二人ともが、あなた以上に大切なものなど自分にはなにもない、と思うことが、幸福な恋愛の条件なのかもしれません。難しいけど。

でもそれぐらい好きでないと、いろいろ乗り越えられないかもしれないなあ、なんて思ってみたり。

「忘却は、神様のくれた最大の宝物」だとか。たしかそんな言葉を昔、どこかで耳にしたことがあります。あれは誰の言葉だったのだろう。言い得て妙。

失くしてみて初めてわかること。経験してみて、初めて気付くこと。記憶は次の機会に活かされるかもしれませんが、あまりに生生しくては先に進めない。記憶と折り合いをつけながら、ちょうどいい距離を探しながら、時間は過ぎていくんだなあと思いました。