アンドリュー・ロイド・ウェバー『オペラ座の怪人』のラストシーン。原詩と訳詞の違いについて、今日初めて気付いたことがあるので、語りたいと思います。ネタバレも含んでおりますので、舞台や映画など未見の方はご注意ください。
『オペラ座の怪人』は、ファントムのこんな言葉で、幕が下ります。
>You alone can make my song take flight
>it’s over now, the music of the night
(直訳:君だけが、私の歌をはばたかせることができる。今終わった、音楽の夜)
※この直訳は私が勝手に書いたものです。参考まで。
私は以前のブログでも書いたように、この原詩より、下記の劇団四季訳詞の方が好きです。
>我が愛は終わりぬ
>夜の調べとともに
この日本語訳だと、You alone can make my song take flight(直訳: 君だけが私の歌をはばたかせることができる)の部分は全く訳されていないのですが、私はそれを全然気にしていませんでした。この部分に、全く必要性を感じていなかったのです。
だからこれまで、日本語訳でそれが抜けても全然オッケーという気分だったのですが、今週、オペラ座ファンのSさんからメールをいただき、あらためて考えました。
Sさんは、この一文は「決して省略してはいけない重要な言葉」だとおっしゃいました。
それで、もう一度この英語を何度も反芻するうちに、はっと閃いたことがありまして。
これ、たぶんラストシーンのファントムの心情をどう捉えるかによって、言葉が変わってくるんじゃないのかなあと。
あの最後の場面で。
わずかに残った希望の糸。
ファントムはそれでも、クリスティーヌに敢えて告白しますよね。
Christine, I love you と。
指輪を返して去っていくクリスティーヌ。
私がもしファントムの立場であったなら・・・・。
私の中で、クリスティーヌは消えます、ハイ。その瞬間。
たぶん、自分の中の世界が壊れる、と思うんですよ。彼女とのいろいろも、すべて色を失うというか、過去になるというか。
あ、もちろんクリスティーヌを責めてるとか失望するとかじゃなくてね。あー、全部終わった。というかそも自分がクリスティーヌに抱いた感情そのものが、間違いだったんじゃないかなあっていう。
なんて愚かなことをしてしまったんだろう。
身の程も知らずに。
最初から最後まで全部、間違いだった。
クリスティーヌに愛されようなどと。共に暮らそうなどと、夢見たことは間違っていた。
壁から剥がれ落ちたタイル。
1枚、2枚程度なら、拾い上げて修復するでしょう。
でもそれが、ボロボロと際限なく落ちてきて、もはや残ってるタイルなんて無きに等しい状況になれば。
もう修復とかいうレベルじゃなくなって。
その壁はもう、諦めるしかなくて。
そしたらむしろ、それを壊したくなりませんか?
大切なお気に入りの壁。ボロボロと崩れるタイルを、必死で拾い上げ、なんとか元に戻そうと努力を続けたその後で、「もう絶対に無理」なほどに、その壁が崩壊したなら。
むしろ、そこに僅かに残ったタイルを自分の手で剥がす、という暴挙に出てしまいそうなんです。自虐といってもいいような、乱暴な感情。
タイルが落ちるたび、痛くて痛くてたまらなかったのに。もう一線を越えたら、開き直ってむしろ、自分の手で壊したくなるという皮肉。
中途半端なくらいなら、むしろこの手で全部なくして、そのなんにもなくなった空間で深呼吸したい、みたいな思い。
私はオペラ座のラストを、そんなふうに捉えてました。
安全地帯の初期の曲に、『デリカシー』というのがあります。その一節が、この場面にはふさわしいかもです。
>こわれすぎて いい気持ちにも
>なれそうだから
この曲、初めて聴いたときから妙に印象に残っていて。
絶望の向こうにある、妙な明るさ、みたいなもの。
ある一点を越えたら、もうどうでもよくなって。
それは、事態が好転したとかそういうことでは全くないんですけど、自分の中で、今まで悩んでたことがもうどうでもよくなって、むしろ今までの痛みがある種の快感に代わる瞬間というか。
この『デリカシー』という曲の歌詞、全体を見るとまた、印象が違うんですけどね。私はこの、上記の一節だけが妙に頭に残ってまして。
苦悩の果ての、転換点というのでしょうか。
つきつめてつきつめて、ガラっと変わる瞬間を表すのに、言い得て妙な一節だなあと思ってました。壊れ過ぎて、逆にいい気持ちになるって、皮肉すぎる(^^;
2004年にアメリカで製作された映画版の『オペラ座の怪人』。この映画版のラストが、まさにこれだと思うんですよね。鏡を、どんどん自分で割っていくじゃないですか。
あれ、ファントムの世界が崩壊する、心が粉々になるのをそのまま絵で表していて、すごいなあと思いました。私が想像するファントムの内面って、まさにあんな感じだったから。
想像するに、あのときファントムの中で、クリスティーヌの存在はかなり、薄くて。
もう全部、過去のものなんです。
あそこにあるのは、残っているのはただ、ファントムの内面世界。その世界を自ら、バリバリと凶暴に破壊していく。跳ねたガラスの破片が、恐らくいろんなところに飛び散って、血も流れるんでしょうけど。その痛さなんてもう感じないくらいに、根本的なところからもう、崩れて、なくなっていく、絶望感が、至福に変わる。
それでちょっと、もう狂っちゃってるんですよね。痛みを幸福と認識してしまうくらいに。あのとき流れる壮大な音楽は、もう天空のメロディで。むしろ幸せ~、これ以上ないくらいの幸福感。
アハハ~アハハ~と、頭の上に蝶々が舞ってる。
何もかもどうでもよくなってる。
ただ壊すのが、楽しくて楽しくて。全部なくなってしまえばどんなに素敵だろうと、破壊衝動に突き動かされて。
クリスティーヌという、平凡な少女(決して歌は天才的ではなかったと思う)に抱いた、ごくごく当たり前の、普通の恋愛感情が。あのラストでは、個人的な生生しさからむしろ、神々しいような、圧倒的な広い深い、歓喜の波に変わるような気がして。
正しいのか正しくないのか、とか、これは現実なのだろうかとか、夢なのだろうかとか。
もはやそういう次元をすっ飛ばして、その先にある境地。
許容範囲を越えたことによる、人間の本能的な防御反応なのかもしれません。このままでは耐えられない、と判断したからこそ、その楽園のような境地に達するという・・・・。
鏡をガンガン、気持ちがいいほど叩き割っていくファントムの姿。
やっと楽になれたのかもしれないって。
と。こういう解釈の仕方をすると、あの
>You alone can make my song
take flight
という部分は、あんまり重要じゃなくなってくるんですよね。
もう、ファントムにとってクリスティーヌのことは過去になってしまっているから。うーん過去というのも、微妙に違う・・・忘れたわけじゃないけど、もはやそこにポイントが置かれていない、気がするのです。
クリスティーヌというのが、唯一無二の存在ではなくなっていて。クリスティーヌは、ひとつの象徴だったというか。ファントムにとって、救いを求めた、救いを得られると思った、淡い期待を抱いた、そんな相手として。
そこにはクリスティーヌの個性はもうなくて、偶像みたいなものがぼんやりと残っているような。
駄目だったなあ。結局なにも残らなかった。夢をみただけ。ハハハ、全部壊してしまえ~。ああ、この世界はなんて、脆いんだろう。みたいな。
この時。ファントム目線で見ると、そこにあるのはファントムの内面世界だけで。クリスティーヌはもはや、「こんな自分でも愛してくれると思った偶像の幻影」でしかなくなっているような。
もう、クリスティーヌとファントムを結ぶ絆、切れちゃってると思うんです。これはファントムが切ったんではなくて、あの指輪を返された瞬間に、自然消滅しているような。
私はそんな解釈をしたので、上記の英語が劇団四季訳で省略されていても、全然気にならなかったのです。
でも、そもそもラストの大事なシーンにこの
>You alone can make my song take flight
という言葉が入っていたということは。これは元々、この時点での、ファントムからクリスティーヌへの変わらぬ熱情を表しているのではないかと、今になって初めて気付いたのです。
そうか~と。それでやっと理解できたのです。過去形の could ではなく、現在形 can を使っている理由。
今も変わらず、強い思いを抱いているからなのですね。ファントムはクリスティーヌに対して。
そりゃもう、クリスティーヌには決定的にお断りされているわけですから、これ以上なにを望むとかはないんですけども。
ただ一方的に。見返りを求めず。
胸から勝手にあふれだす思いを、ファントムはクリスティーヌに捧げてるんだなあ。
わかってるけど。自分を選んではくれないことは重々承知の上で。それでも思いだけは、クリスティーヌの元に飛んで行ってしまっているわけです。決定的な破局を、思い知った後でさえも。だから現在形で訴えているんだ。今も変わらず、(おそらくこの先もずっと)、君だけが私の音楽の天使。君でなければ、私の音楽は翼をもたないと。
あのラストの時点で。
1.ファントムはもう、崩壊している。もうこの世界の何物をも、彼にとっては意味を持たない。
2.ファントムの気持ちは、クリスティーヌの選択に関わらず常に彼女の元にあり、そしてこれからもあり続ける。彼が彼である限り、ファントムはクリスティーヌを愛し続ける。
この2つの考え方があって、それによって
>You alone can make my song take flight
という言葉の重要性が変わってくるんですね・・・きっと。
私は1の解釈だったんで、2のような考え方は新鮮でした。
これ、英語詩は2の解釈で書かれてると思います。1の解釈だったら、きっと could になってたはず。
それでもって、劇団四季の訳者の方は、1の解釈をされたのではないでしょうか。
だからこそ、敢えて
>You alone can make my song take flight
上記の訳を抜かして、日本語訳を作り上げたのではないかと、そんなふうに想像してしまいました。
日本語と英語の字数の違いとか、そういうものもあるかもしれませんが、ここ、最大の見せ場ですもんね。2の解釈であれば、原詩の一文をまるまる抜かす、ということはなかったと思います。なんとかして、その一部の訳だけでも、日本語に変換していたはずです。
私は最初から1のように考えてファントムに感情移入してたんですが、一般的にはどちらの捉え方が主流なんだろう?
1派か2派か。
国によっても、それは違ってくるんでしょうか。
『オペラ座の怪人』、深いですね。想像がいろいろふくらんでいきます。