東方の三賢者

星に導かれ、砂漠を越えて歩む確かな足取り。

前回書いたブログで、ふっと昔見た挿絵のことを思い出しました。クリスマスキャロルの歌詞集。
We Three Kings of Orient Are の挿絵が、確かこんな感じだったかと。

その本にいくつも載っていた曲の中で、私の好きなベスト3曲に入るのです、これ。

今も、ひっそり実家の押し入れの中に眠っているはず。

昔、高校の時の英語の先生が、ある日、授業の後で段ボール箱をたくさん持ってきて、それを廊下の端に並べました。

「これ、要らなくなったから。好きなの持ってっていいぞ」

ほとんどは、英語初心者向けの薄い短編小説だったり、参考書だったりしたのですが。中に、外国で子供向けに売られているような、絵本とカセットのセットがあったのです。

これ、アメリカの書店とかで、普通に売ってるっぽいな。面白そうだなあ。

Carol という字が、ちらりと視界に入りましたが、実際のところそんな英語は全然気にしていませんでした。挿絵が気に入ったのと、テープの中身が気になって、持ち帰ったのです。他にも、面白そうな小説を何冊か。

カセットの中身、歌だとは思っていなかったため、テープレコーダーで再生したときには少し、驚きました。歌ではなく、物語が語られているとばかり、思っていたから。

 

歌いだしから厳かな雰囲気で、少し悲しげにも聞こえるメロディ。これは確かに夜だ~と思いました。挿絵にあるような、静かな夜。粛々と進む東方の三賢者。
コーラス部分で、一気に明るくなる。

 

何度も繰り返される部分は、自然と覚えてしまいました。口ずさむと、挿絵の世界に自分も入りこむことができました。
星の光が優しく、救世主の誕生を告げている、その空気。

教会で聴けばまた格別の響きをもつ、素敵な曲ですね。

『CANDY』 Mr.Children 感想

Mr. Children の『CANDY』を聴いている。

これ、最初に聴いたときには全然ピンとこなかったのだが、久しぶりに聴いてみたら、心に響くなあ。いきなりサビから始まっているように思います。
イメージするのは、「君」のホログラム。立体なんだけど、あんまり精巧じゃなくて。明らかにフィクションなわけで。
それも無理はない。
全部、脳内映像だから。自分の希望だけで作りあげた、つぎはぎだらけの嘘の映像。

諦めなきゃという理性の回路に、その稚拙なホログラムは侵入してくるんだろうなあ。容易く。

そして何度も、同じ表情で気のある素振りをしてみせる、みたいな。

そりゃ何食わぬ顔でしょうよ。自分の都合だけで作りあげた幻なんだから。でもその幻に、ほんのわずかな希望に、みっともないほどすがりついてしまうのが、恋の病の症状でもあって。

でもさ。たぶん気付いてるね。自分でも。そのホログラムは本物じゃない。もう実物とは別の部分で、自分の理想を形にしちゃってる。それで、その無垢な魂は要求通りの言葉をくれる。

だけど、どんなに理想通りでも。言葉が希望通りであればあるだけ、虚しさみたいなものは、ひたひたと押し寄せるでしょう。しょせん、ホログラムだもん。

どんなに瓜二つの人間だって、その人、本人じゃなきゃ意味がない。その人そのものじゃなきゃ、要らない。

突き詰めれば、結局のところ、それが答えなんですよね。みっともないほど、全面降伏。ただひたすらに、思わずにはいられない。
理由もない。ただ、愛しいだけ。会いたいだけ。

そして、ホログラムの登場です。ループです、きっと。

幻に、慰められて。何度も語りかけるんだな。幻になら、言えるから。だけど所詮それは、幻なわけで。

予定調和の世界に、どれほど幸せな結末を夢見たとしても。その脚本書いたの、自分だからね。虚しいだろうなあ。

『みすて・ないでデイジー』で、デイジーちゃんそっくりのロボットを作った歩野くんのことを思い出しました。あの漫画、一見コメディーだしハチャメチャなんだけど、実は深いです。

ホログラムに慰められながら、人は、少しずつ忘れていくのでしょう。

私の宝物に手を出す奴がくれた、勇気の話

このところ、寝る前によく、目を閉じて頭の中で口ずさむフレーズ。『オペラ座の怪人』です。

>Insolent boy!  This slave of fashon,  basking in your glory!

>Ignorant fool!  This brave young suitor,  sharing in my triumph!

歌というか、ミュージカルの一節なんですが。
このフレーズ、かなり好きなのです。

劇団四季だと、こんな風に日本語に訳されてます。

>私の宝物に手を出す奴
>無礼な若造め 愚か者め

この翻訳のセンスには感嘆します。歌詞をちゃんとメロディに乗せて、かつ簡潔に原詩を変換、そして不自然にみえない、というのは。
元の英文のように、全てもれなく韻を踏んで、というのは無理でしたが。でもちゃんと、「若造め」「愚か者め」って少なくとも一か所は、対比させてるところが聞いていて心地いいです。

「私の宝物に手を出す奴」って、ファントムが激怒しちゃってるところがなんとも微笑ましい。いや、こんなこと言っちゃったら、さらにファントムには激怒されそうですが。でも、なんだか可愛いとすら思ってしまう。嫉妬まるだしすぎて。

私の宝物、だなんて表現は。中学生の初恋っぽくていいですね。
たぶん、本当に慎重に慎重に歩み寄って。払いのけられる怖さにおののきながら、それでも情熱に突き動かされて、クリスティーヌを追い求め。

師という立場で、重々しく、彼女を歌姫へと導いたのに。
あっさり、恋敵ラウルの登場で、大人の仮面が剥がれおちるから。

もうね、言ってることが中学生、というか、小学生の喧嘩みたいなんですもん。

以下、私が想像したファントムの心の声(* ̄ー ̄*)

☆おい、お前。冗談じゃねえっつーの。
☆俺がどれだけあの娘を大事に見守ってきたか、お前わかってんのかよ。
☆今日の舞台の成功も、俺が裏で動いた結果なんだぜ。
☆それを、いきなり来たお前が、大胆にもデートに連れ出すなんて、どんだけずうずうしいかっていう話よ。あん?
☆ぽっと出が、いきがってんじゃねーよ。
☆どこの貴族のおぼっちゃんか知らねえけどよ、身の程を知れっつーの。
☆今日の成功は、俺とあの娘のもんであって、お前なんかが首つっこむ権利、まったくないんだからな。

ああ、ファントム。素直すぎて、なんとも言えません。

なんだかね、きっとラウルのしたことは全部。鏡のように。ファントムのやりたかったことなんだろうなあって思います。

もっと早く。なんのためらいもなく、クリスティーヌに惹かれたなら素直に彼女の手をとり、誘いたかったんだろうなあ。
しかめつらした、教師の顔なんていう途中経過を、すっ飛ばして。

私は、insolent という単語を、この歌で覚えました。だから、なにか英文を読んでいて insolent と出てくると、いつもこの、insolent boy を思い出します。ファントムの、悔しさがにじみ出た歌。

boy ってところがまた、いいのです。ファントムは、若さにも嫉妬してると思います。若さは、可能性ですから。(そう。五代君もめぞん一刻で言ってました。)

本来、クリスティーヌの相手は、boy でちょうどいいんです。だって、クリスティーヌは girl だから。どうみても、woman って感じではないなあ。

girl が 見目麗しい幼馴染の boy に再会した。二人はたちまち時を超え、惹かれあった。

ファントムが歯ぎしりするのも無理ありません。それだけ二人はお似合いだったし、傍目にも、心は通じ合っていたのでしょう。

ただ、ファントムにしてみたら、最悪のタイミングです。ようやく一歩、クリスティーヌに近付けた夜だったから。彼女のために設定した舞台。初めての成功。二人だけの秘密。
それが、そのまま他の男への再会へのきっかけになってしまったのですから。

それにね。最大の弱点。ファントムはクリスティーヌの前に、姿を表すことをためらっていた。たとえ顔を仮面で隠していても。自分の醜さが彼女をおびえさせ、二人の関係はたちまち破綻するのではないかと怯えていた。それなのに、いきなり現れた若い男は、クリスティーヌを夢中にさせる容姿を備え、しかも自信に満ちている。彼女に拒絶される不安など、みじんもみせない。その自信も、さぞかし、ファントムのコンプレックスを刺激したことでしょう。堂々たる求愛。ファントムには、できなかったことだったから。

その刺激が、ファントムを動かすエネルギーになったのには、感慨を覚えます。運命の糸は繋がっていて。ひとつの模様が、また次の模様を織りなす。決して、断片ではない。

もしもこの日、ラウルが現われなかったら。
きっとファントムは鏡の向こうに、クリスティーヌを誘わなかっただろうなあ、なんて思うのです。

舞台が成功して、クリスティーヌに感謝され。ますます尊敬の念を向けられて。そしたらファントムはきっと照れながら。もしかして彼女の手をとりたい、もう少し距離を縮めたい、なんて思いながらも。

いやいや、待て待て。もう少し。ゆっくり時間をかけて、近付いた方がいい。あせればこれまでの良好な関係を、壊してしまうことになるかもしれない。多くを望めば、失うかもしれない、と。

逆に慎重になっただろうなあと想像します。

でも、吹っ飛んじゃったんですね、たぶん。ラウルが現れたものだから、怒りが臆病を凌駕しちゃったわけです。あんな奴にあっさりかっさらわれるくらいなら、自分が連れていく、と。少なくとも勝利の夜、彼女と祝杯をあげる権利があるのは、ラウルではなく自分の方なのだと。

鏡の向こうの世界。地下のファントム帝国へ、初めてクリスティーヌを連れていく決心ができたのは、皮肉にもラウルの登場があったからこそ、だと思いました。

自分にはない fashion の世界の住人であるラウル。恐れることなく、あっさりsuitor になり得たラウル。そんな彼をみつめるファントムの胸中は、いかばかりでありましょう。

クリスティーヌを思うあまり、あと一歩が踏み出せなかったファントムの、背中を押したのはラウルだったのだと、そう思います。

>basking in your glory

この your glory は、クリスティーヌの舞台での成功を表していると考えたのですが、違うのかなあ。your は、クリスティーヌを指すと思ったのですが。
でも、ネットで、ラウル自身の栄華を示すような訳をみたので、はっとしました。

たしかに、これってラウルに向かって言っている言葉なら、そうなりますね。「お前」=「ラウル」になる。

でも、私はなんとなく、ファントムがラウルだけでなく、ラウルとその横にいるクリスティーヌ、2人に向かって呟いているようにも、思えたんです。

若造め、こしゃくな、と怒っているのは確かに、ラウルに向かって、ですけれども。
そのすぐ後で、クリスティーヌに向かい、「可愛いクリスティーヌよ、奴(ラウル)は、お前さんの栄光に酔いしれておるよ」と、寂しく、困ったように、けれど彼女自身には聞こえないくらいの小さな声で、甘えるように訴えているイメージです。

ラウルには憤怒の形相で。
クリスティーヌには雨に濡れた子犬の目線で。

あくまで、イメージですが。
やれやれ、困った若造だ、と肩をすくめてみせるファントム。心中の怒りを抑えて、少しはクールに振る舞って、クリスティーヌの方をちらりと見たりして。同意を求める視線で。

あからさまな憤怒、激情と。
その一方で、クリスティーヌに向ける顔は、平静を装っていそうです。大人として、顕な感情の発露は見苦しいと、若者にはない余裕をみせたいのでしょう。

言葉だけをとらえたら、怒り心頭って感じですが。
でも、激怒しているファントムが、ふっとクリスティーヌを見るとき、とっても優しく笑いそうなんです。彼女を怖がらせないように。

音楽と詩だけで、想像は果てしなく広がります。『オペラ座の怪人』の中でも特に、上記のフレーズは気に入っています。今日もやはり、寝る前にはこの一節を、頭の中で繰り返すことでしょう。

『MAGICAL WORLD』鬼束ちひろ を聴いて

HP作り、なかなか進みません。6月中の完成を目指してますが、どうなるかな~。

PCに向かいながら、作業中に聴いていたのが、鬼束ちひろさんの『MAGICAL WORLD』です。ゆっくりとしたテンポの、穏やかな曲。聴いているうちに、だんだん鬼束さんの世界に引き込まれていきます。

『月光』をかいたのと同じ人が、この曲を書いたのだとは思えないです。『月光』は、棘を感じる曲だと思ってました。全身を鎧で固めて、猫みたいにフーって唸りながら警戒してる感じ。全然信用してない瞳に、射すくめられるような。

対するこの『MAGICAL WORLD』はすごく、弛緩のイメージがあって。ゆるーく進んでいく道を想像します。。いろいろあって、ここにいます、的な女性が、寂しく笑ってる感じがする曲です。

わかりあえないもどかしさが伝わってきますね。

想像ですけど。この女性の目の前に、好きな人が座っててですね。なにかの話の途中で、小さく笑うんです。もうね、胸がキュンとするような、女性にとってはものすごく破壊力のある笑顔なわけですよ。
でもね、その人はその瞬間、その女性には入りこめない、過去に思いを馳せてしまっていて。

女性にはそれがわかっちゃうんです。
それで激しく過去に嫉妬するんだけど。でもどうしようもないですね。なんだそりゃって話ですもんね。例えばこんな、です。

☆今なに考えてた?
☆ん? 別に、なにも。
☆教えてよ。
☆なんだよ、なんにも考えてないって。

うわー、恐るべし痴話喧嘩って感じですけども。
二人で勝手にやっとれ!という突っ込みをいれつつも、なんかこういう瞬間の寂しさみたいなものには、共感を感じてしまうのであります。

その人の目を、一瞬走った懐かしい光。ああ、私の知らない過去を振り返ってるんだなあって。それで、当たり前だけど、その景色の中に自分はいなくて。これからだって、そこに自分の居場所なんてないわけです。だって過去だから(笑)

その人が回想する、自分のいない世界、というのは。入りこめないだけに、美化されて、とてつもなく甘美で。

女性は思うのではないでしょうか。
私じゃない誰かが、やっぱりこの人の横顔を眺めていた時間があったんだろうなあって。
綺麗だなあって思いながら、愛しさで胸がいっぱいになりながら。

その人の指は、この人の頬に触れたのかな。そしたら彼は、どんな顔して振り返ったんだろう、なんて。突然のことに驚いて。照れながら? 少し嬉しそうに?

誰かを好きになっても、その人の過去をすべて、自分のものにすることはとても難しい。その人と同化したいと思っても、いったいどうしたらそんなことが、可能になるんだろうか、なんて、狂おしく答えを探してみたり。

結局、人を動かすものって、優しさ、温かさ、真心ではないかと。

外力では変えられないです。
心だけは、自由なものだから。圧力で偽りの言葉を吐かせても、心だけは取り出すことができないから。何を思おうと、どう考えようと、それは自由なわけです。

私が今でも強烈に覚えている瞬間があるんですが。
昔、優しい言葉をかけられたときに、こらえていたものが決壊して号泣したことを。その瞬間の、「優しい言葉のほうが、気持ちに深く突き刺さるんだ」という新鮮な驚きのようなもの、その衝撃は、今も心に残っています。

人前で泣くほど、恥ずかしいことはありません。なのに、単純な優しい言葉を、ほんの少し聞いただけで。そのときの私はあっけなく、泣いてしまった(^^;

泣かせようとする圧力には、どれだけでも抵抗しようと思っていたのに。その自信もあったのに。

優しさの前には、どんな鉄壁を築こうとも、無駄なんですね。本当に真摯にその人を思えば、その気持ちが通じないはずはない。届かないはずはない。

温かさには敵わないです。

私の勝手な想像ですが。この曲の主人公は、絶望的な片思いをしてるんではないかと。だから、寂しいんだと思います。

少しでも可能性があれば、自然と、良い方へ良い方へ解釈しますからね。その可能性を、強引にでも探っていくのが恋愛の常。普通なら、楽しいですもん。想うだけで。その人のことを考えるだけで。

だから、想うだけで寂しさがこみあげるような恋愛は、もしそれが片思いでないなら、たとえ両思いでも決して結ばれることがないとわかっているケースではないでしょうか。

終わりの見えている関係なら、寂しいという感情しかわかないかもしれません。自分の気持ちすべてが、いつか消えるしかない、無駄にしかならないとわかっているからです。
それでもどうしようもなく、愛しさがこみあげて、その人のことを考えてしまう・・・そういう状況なのかなあ、この曲。

やめとけやめとけ、と傍観者の私は思います。 近付けばそれだけ、別れがつらくなるものです。それがわかってて、どうしてキスを欲しがるんだか、そして自分もするんだかって話ですよ。

ひとのように振舞えないっていうのは、私じゃなければ幸せになれるのに、ごめんねってことですかね。拡大解釈すぎるか? それでも絶望的に、キスしたいのか。不幸になるの、わかってて。

穏やかな曲ですが、その果てにあるものは、「独りでの旅立ち」のように思いました。

この世界はいったいなんなんでしょうね。すべては夢のようでもあり。気がついたらここにいた。証明もできなければ、説明もできない。でも毎日が過ぎてる。過去もあり、今もあり、未来もある。

ああ、本当に世界って、なんだろう。とか。夜中に考え出すと果てがないので、もう寝ます(^^;

『オペラ座の怪人』ラストシーンの解釈

アンドリュー・ロイド・ウェバー『オペラ座の怪人』のラストシーン。原詩と訳詞の違いについて、今日初めて気付いたことがあるので、語りたいと思います。ネタバレも含んでおりますので、舞台や映画など未見の方はご注意ください。

『オペラ座の怪人』は、ファントムのこんな言葉で、幕が下ります。

>You alone can make my song take flight
>it’s over now, the music of the night

(直訳:君だけが、私の歌をはばたかせることができる。今終わった、音楽の夜)

※この直訳は私が勝手に書いたものです。参考まで。

私は以前のブログでも書いたように、この原詩より、下記の劇団四季訳詞の方が好きです。

>我が愛は終わりぬ
>夜の調べとともに

この日本語訳だと、You alone can make my song take flight(直訳: 君だけが私の歌をはばたかせることができる)の部分は全く訳されていないのですが、私はそれを全然気にしていませんでした。この部分に、全く必要性を感じていなかったのです。
だからこれまで、日本語訳でそれが抜けても全然オッケーという気分だったのですが、今週、オペラ座ファンのSさんからメールをいただき、あらためて考えました。

Sさんは、この一文は「決して省略してはいけない重要な言葉」だとおっしゃいました。

それで、もう一度この英語を何度も反芻するうちに、はっと閃いたことがありまして。

これ、たぶんラストシーンのファントムの心情をどう捉えるかによって、言葉が変わってくるんじゃないのかなあと。

あの最後の場面で。

わずかに残った希望の糸。
ファントムはそれでも、クリスティーヌに敢えて告白しますよね。

Christine, I love you と。

指輪を返して去っていくクリスティーヌ。
私がもしファントムの立場であったなら・・・・。

私の中で、クリスティーヌは消えます、ハイ。その瞬間。

たぶん、自分の中の世界が壊れる、と思うんですよ。彼女とのいろいろも、すべて色を失うというか、過去になるというか。
あ、もちろんクリスティーヌを責めてるとか失望するとかじゃなくてね。あー、全部終わった。というかそも自分がクリスティーヌに抱いた感情そのものが、間違いだったんじゃないかなあっていう。

なんて愚かなことをしてしまったんだろう。
身の程も知らずに。
最初から最後まで全部、間違いだった。
クリスティーヌに愛されようなどと。共に暮らそうなどと、夢見たことは間違っていた。

壁から剥がれ落ちたタイル。
1枚、2枚程度なら、拾い上げて修復するでしょう。

でもそれが、ボロボロと際限なく落ちてきて、もはや残ってるタイルなんて無きに等しい状況になれば。

もう修復とかいうレベルじゃなくなって。
その壁はもう、諦めるしかなくて。
そしたらむしろ、それを壊したくなりませんか?

大切なお気に入りの壁。ボロボロと崩れるタイルを、必死で拾い上げ、なんとか元に戻そうと努力を続けたその後で、「もう絶対に無理」なほどに、その壁が崩壊したなら。

むしろ、そこに僅かに残ったタイルを自分の手で剥がす、という暴挙に出てしまいそうなんです。自虐といってもいいような、乱暴な感情。

タイルが落ちるたび、痛くて痛くてたまらなかったのに。もう一線を越えたら、開き直ってむしろ、自分の手で壊したくなるという皮肉。

中途半端なくらいなら、むしろこの手で全部なくして、そのなんにもなくなった空間で深呼吸したい、みたいな思い。

私はオペラ座のラストを、そんなふうに捉えてました。

安全地帯の初期の曲に、『デリカシー』というのがあります。その一節が、この場面にはふさわしいかもです。

>こわれすぎて いい気持ちにも
>なれそうだから

この曲、初めて聴いたときから妙に印象に残っていて。

絶望の向こうにある、妙な明るさ、みたいなもの。
ある一点を越えたら、もうどうでもよくなって。
それは、事態が好転したとかそういうことでは全くないんですけど、自分の中で、今まで悩んでたことがもうどうでもよくなって、むしろ今までの痛みがある種の快感に代わる瞬間というか。

この『デリカシー』という曲の歌詞、全体を見るとまた、印象が違うんですけどね。私はこの、上記の一節だけが妙に頭に残ってまして。

苦悩の果ての、転換点というのでしょうか。
つきつめてつきつめて、ガラっと変わる瞬間を表すのに、言い得て妙な一節だなあと思ってました。壊れ過ぎて、逆にいい気持ちになるって、皮肉すぎる(^^;

2004年にアメリカで製作された映画版の『オペラ座の怪人』。この映画版のラストが、まさにこれだと思うんですよね。鏡を、どんどん自分で割っていくじゃないですか。
あれ、ファントムの世界が崩壊する、心が粉々になるのをそのまま絵で表していて、すごいなあと思いました。私が想像するファントムの内面って、まさにあんな感じだったから。

想像するに、あのときファントムの中で、クリスティーヌの存在はかなり、薄くて。
もう全部、過去のものなんです。
あそこにあるのは、残っているのはただ、ファントムの内面世界。その世界を自ら、バリバリと凶暴に破壊していく。跳ねたガラスの破片が、恐らくいろんなところに飛び散って、血も流れるんでしょうけど。その痛さなんてもう感じないくらいに、根本的なところからもう、崩れて、なくなっていく、絶望感が、至福に変わる。

それでちょっと、もう狂っちゃってるんですよね。痛みを幸福と認識してしまうくらいに。あのとき流れる壮大な音楽は、もう天空のメロディで。むしろ幸せ~、これ以上ないくらいの幸福感。

アハハ~アハハ~と、頭の上に蝶々が舞ってる。
何もかもどうでもよくなってる。
ただ壊すのが、楽しくて楽しくて。全部なくなってしまえばどんなに素敵だろうと、破壊衝動に突き動かされて。

クリスティーヌという、平凡な少女(決して歌は天才的ではなかったと思う)に抱いた、ごくごく当たり前の、普通の恋愛感情が。あのラストでは、個人的な生生しさからむしろ、神々しいような、圧倒的な広い深い、歓喜の波に変わるような気がして。

正しいのか正しくないのか、とか、これは現実なのだろうかとか、夢なのだろうかとか。
もはやそういう次元をすっ飛ばして、その先にある境地。

許容範囲を越えたことによる、人間の本能的な防御反応なのかもしれません。このままでは耐えられない、と判断したからこそ、その楽園のような境地に達するという・・・・。

鏡をガンガン、気持ちがいいほど叩き割っていくファントムの姿。
やっと楽になれたのかもしれないって。

と。こういう解釈の仕方をすると、あの

>You alone can make my song
take flight

という部分は、あんまり重要じゃなくなってくるんですよね。
もう、ファントムにとってクリスティーヌのことは過去になってしまっているから。うーん過去というのも、微妙に違う・・・忘れたわけじゃないけど、もはやそこにポイントが置かれていない、気がするのです。

クリスティーヌというのが、唯一無二の存在ではなくなっていて。クリスティーヌは、ひとつの象徴だったというか。ファントムにとって、救いを求めた、救いを得られると思った、淡い期待を抱いた、そんな相手として。
そこにはクリスティーヌの個性はもうなくて、偶像みたいなものがぼんやりと残っているような。

駄目だったなあ。結局なにも残らなかった。夢をみただけ。ハハハ、全部壊してしまえ~。ああ、この世界はなんて、脆いんだろう。みたいな。

この時。ファントム目線で見ると、そこにあるのはファントムの内面世界だけで。クリスティーヌはもはや、「こんな自分でも愛してくれると思った偶像の幻影」でしかなくなっているような。
もう、クリスティーヌとファントムを結ぶ絆、切れちゃってると思うんです。これはファントムが切ったんではなくて、あの指輪を返された瞬間に、自然消滅しているような。

私はそんな解釈をしたので、上記の英語が劇団四季訳で省略されていても、全然気にならなかったのです。

でも、そもそもラストの大事なシーンにこの

>You alone can make my song take flight

という言葉が入っていたということは。これは元々、この時点での、ファントムからクリスティーヌへの変わらぬ熱情を表しているのではないかと、今になって初めて気付いたのです。

そうか~と。それでやっと理解できたのです。過去形の could ではなく、現在形 can を使っている理由。

今も変わらず、強い思いを抱いているからなのですね。ファントムはクリスティーヌに対して。
そりゃもう、クリスティーヌには決定的にお断りされているわけですから、これ以上なにを望むとかはないんですけども。
ただ一方的に。見返りを求めず。
胸から勝手にあふれだす思いを、ファントムはクリスティーヌに捧げてるんだなあ。

わかってるけど。自分を選んではくれないことは重々承知の上で。それでも思いだけは、クリスティーヌの元に飛んで行ってしまっているわけです。決定的な破局を、思い知った後でさえも。だから現在形で訴えているんだ。今も変わらず、(おそらくこの先もずっと)、君だけが私の音楽の天使。君でなければ、私の音楽は翼をもたないと。

あのラストの時点で。

1.ファントムはもう、崩壊している。もうこの世界の何物をも、彼にとっては意味を持たない。

2.ファントムの気持ちは、クリスティーヌの選択に関わらず常に彼女の元にあり、そしてこれからもあり続ける。彼が彼である限り、ファントムはクリスティーヌを愛し続ける。

この2つの考え方があって、それによって

>You alone can make my song take flight

という言葉の重要性が変わってくるんですね・・・きっと。
私は1の解釈だったんで、2のような考え方は新鮮でした。

これ、英語詩は2の解釈で書かれてると思います。1の解釈だったら、きっと could になってたはず。
それでもって、劇団四季の訳者の方は、1の解釈をされたのではないでしょうか。

だからこそ、敢えて

>You alone can make my song take flight

上記の訳を抜かして、日本語訳を作り上げたのではないかと、そんなふうに想像してしまいました。

日本語と英語の字数の違いとか、そういうものもあるかもしれませんが、ここ、最大の見せ場ですもんね。2の解釈であれば、原詩の一文をまるまる抜かす、ということはなかったと思います。なんとかして、その一部の訳だけでも、日本語に変換していたはずです。

私は最初から1のように考えてファントムに感情移入してたんですが、一般的にはどちらの捉え方が主流なんだろう?
1派か2派か。
国によっても、それは違ってくるんでしょうか。

『オペラ座の怪人』、深いですね。想像がいろいろふくらんでいきます。