今『レベッカ』について思うこと

シアタークリエで3ヶ月上演された舞台、『レベッカ』が6月30日で千秋楽を迎えました。私は計3回見に行ったのですが、今振り返ってみての感想などを書いてみたいと思います。ネタバレ含みますのでご注意ください。

観劇が終わってから、幾度か『レベッカ』のことを考えました。私は最初よりもずっと、「レベッカ」という人物に同情するようになっていました。

悪い人なんですけどね。じゃあ自分がマキシムの立場で、レベッカと出会う人生、出会わない人生、どちらかを選ぶ選択権があるなら、絶対に、出会わない平穏な人生を選びますけども。

解釈は人それぞれで、それこそ観た数の人と同じだけの物語が存在するのでしょう。たしか、雑誌のインタビューかなにかで、マキシム役の山口祐一郎さんも、そんなことを語っていたような気がします。本当にその通りですね。

これは、私が勝手に感じたことですが。

私は『レベッカ』が、マキシムを嘲る気持ちで、高笑いをして死んでいったとは思わないのです。むしろ、祈るような気持ちだったようなのではないかと。

どうか、気付いてほしい。奇跡がおこってほしい。最後の瞬間に大逆転が起こればいい。

病気もなにもかも嘘で、そしてマキシムが両手を広げて、すべてを許して自分を迎え入れてくれること。

「病気」こそがレベッカの一番恐れていることだとしたら。彼女は絶望のどん底で。最後に誰と会いたいと思っただろうか。

レベッカはいろんな面で完璧な女性でしたから、マキシムのことは何でもお見通しだったと思うんですよね。その夜。ボートハウスでファヴェルと待ち合わせて、でもきっと、恐らくマキシムが来るであろうことは、わかっていたんじゃないかと。

マキシムの来訪を、運命に託したのかな。

自分がマキシムを呼び出す、あるいは自分が出かけていくんじゃなくて。まるでコインを投げて決着をつけるように、彼女は運命に賭けた。

マキシムが来ないのなら、それはそういう運命。でも、もしも彼が来たら?

マキシムが来たらどうするか、きっとレベッカ自身も、特に計画があったわけではないと思います。そしてその夜、実際にマキシムを目の前にして、彼女は何を考えたか。

生真面目で単純で、でも十分に魅力的なマキシム。妻の不貞を知って、その目が怒りに燃えている。その、静かに燃える青い炎を見て、レベッカは悟ったんじゃないでしょうか。

奇跡なんて、なにを馬鹿なことを思ったのだろう。マキシムはこんなにも私を憎んでいるというのに。今さらなにを、望むというのだろう。

愛されているのではなく、憎まれているのに。

跪いて許しを請う? すべてを話せば、マキシムのことだからきっと、今までを水に流してくれるでしょう。そして、憐れむような抱擁をくれるでしょう。

病人を、責め立てるような人ではないから。

でも、レベッカが欲しかったのは、同情でも憐れみでもないんですよね。そんなもの、むしろ要らない。

だから、ゆっくり立ち上がって、いつものように、憎まれ口をたたいた。

マキシムの理性の限界がどの辺りにあるか、レベッカは把握していたと思います。それを承知で、彼女は言葉を放った。マキシムが一番傷つくやり方で。

悲しいなあ、と思いました。レベッカは、マキシムを本当に愛し始めていたんじゃないかという気が、するんですよね。いつの頃からか。

こんな形しか、選べなかった。

こんな別れ方しかできなかった。

もしレベッカがマキシムを愛していたんだとしたら、なんて悲しい人なんだろうと。

レベッカに対する怒り。そして、事情のある事故だったとはいえ、人の死に関わったマキシムの自責の念は、「レベッカの余命がわずかだった」と知ったときに、すべて氷解した。

脳裏に焼きついたレベッカの今際の際の表情、細かな一つ一つが、鮮やかに蘇ったと思います。そして、その瞬間、マキシムにはわかってしまった。

ああ、レベッカは自分を愛してたんだと。

素直になれず、すべてを無理やりに抱えこんだまま、行ってしまったんだと。

だからあのとき、レベッカは凍りつくように笑ったんだって。

もう理屈抜きで、パズルがすべて、ぴったりはまったんだと思います。そのショックは、きっと誰にも理解できない。親友のフランクにも。

私がこんなふうに考えるようになったのは、やっぱり山口さんの演じるマキシムが、大塚ちひろさん演じる「わたし」に、心惹かれていないように見えたからです。

「わたし」が魅力的じゃないとか、そういうことではないんですよね。

大塚さんの演じる「わたし」は十分に可愛かった。華があった。

でもマキシムには、レベッカじゃなきゃ駄目だったんだと思うのです。どうしようもなく、惹かれ合う一面があった。お互いに素直になれず、レベッカの生前にそれを認めることはできなかったけれど。

本当は好き同士なのに、どうして傷つけあったんだろう、みたいな。ドミノ倒しのように、最初のコマが倒れるきっかけさえあれば、二人は誰よりも、分かり合えるベストパートナーになれたかもしれない。意地を張っていた新婚の頃を、笑いながらお茶を飲める日がきたかもしれない。お互いの心に、他人とは思えない何かを見ていた二人なのに。

どうして自分はレベッカの本当の心に、気付いてあげられなかったんだろう、的な。別の意味での自責の念が、マキシムの心にむくむくとわき上がってきたのかもしれません。そしてその自責の念をどうにかする術は、もはやない。相手のレベッカは、この世の人ではないから。

それは一生、マキシムが背負っていく十字架ですね。

山口マキシムが「わたし」を見る目。そこには、レベッカを超えるものは、なかったと思うのです。そして、エピローグ。

幸せじゃなかった。どんよりと濁った目。マキシムは孤独にみえました。「わたし」と一緒に暮らしても、「わたし」には理解できない心の闇を抱えてる。その闇にはレベッカが居て、悲しい目でマキシムを見てる。

「わたし」は、それを知ってか知らずか。透き通る声で、過ぎた日々を歌っていましたね。なんともいえない気持ちになります。

マキシムの心を、わかっていたのでしょうか。その心の闇に、レベッカの姿を見ていたでしょうか。

私の感想は、こんな感じです。

Hannah Montanaの、『IF We Were A Movie 』を聴きながら書きました。レベッカもこのくらい素直になれたら、マキシムとの結末は全然違っていたんでしょうね。

なぜだかこの曲がすごく気に入ってしまって、何度も何度も、こればかり集中して聴いていました。そんな気分の一日でした。

繰り返されるこの歌詞が、胸にしみます。

>Fade to black

>Show the names

>Play the happy song

>画面は暗くなり

>エンディングクレジットが映し出され

>ハッピーな曲が流れる

訳は私が勝手につけたので、正確ではないかもしれません。参考程度にしてください。

ハリウッド映画のラストは、基本コレですよね(^^)

めでたしめでたし。すべての障害を乗り越え、二人は互いの気持ちを確かめあい、いつまでも幸せに暮らしました・・・・。

そんな曲を聴きながら、マキシムとレベッカの関係に、思いをめぐらせたひと時でした。

『レベッカ』観劇記 その10

 6月21日ソワレ。シアタークリエで上演中の舞台、『レベッカ』を観てきました。以下、感想を書いていますが、ネタバレを含みますので、未見の方はご注意ください。

 初めての前方席。

 エピローグの、山口祐一郎さん演じるマキシムの目が、印象的でした。虚ろな目。顔には、わずかな微笑みすらありません。

 そうか・・・やっぱり・・・と思いました。

 マキシムの心は、たぶんマンダレイと一緒に燃え尽きてしまったのでしょう。

 最初から最後まで、私はマキシムの表情に、大塚ちひろさん演じる「わたし」への愛情を見なかったのでした。若くて可愛らしく、ただひたすらにマキシムを追い求める、子犬のような目。その目に賭けたマキシムだったのでしょうが、レベッカを愛したようには、「わたし」を愛することはなかったんですね。

 「わかってた わかってた 彼女の勝ちと」というマキシムの言葉は、その通りだったのだと思います。レベッカは勝った。ハッピーエンドではない話なのだと、解釈しました。

 もしもマキシムが本当に「わたし」を愛し大切に思っていたなら。ダンヴァース夫人は、脅威になんてならない。彼は全力で「わたし」を守り通したでしょう。「わたし」は自信を持ち、彼の傍に寄り添ったでしょう。でも違う。

 マキシムは、「わたし」を愛していないのに妻にした。

 愛されないのに妻になった「わたし」は、そのことに気付いてた。だから必死だった。すべてが明らかになり、二人きりの秘密を共有し、十数年の時を経てそれでもなお。「わたし」がマキシムの心を手に入れることはできませんでした・・・・そういうお話なのかなあと。

 大塚さん演じる「わたし」と、山口マキシムのデュエットの声は本当に素敵です。透明感があって、お互いに引き立てあっています。だけどその歌が「愛」という歌詞を強調するたびに、言葉とは裏腹の必死さが漂うのです。

 本当はない「愛」を、二人して取り繕っているような。

 マキシムも「わたし」も、実際にはそれを知っているくせに。

 きっとマキシムは、誰かに許しを請いたかった。すがる胸が欲しかった。抱きとめて、甘えさせてくれる女性の愛情を求めてた。それは別に、「わたし」じゃなくてもよかったはずで。ただ、知り合ったから、傍にいたから、その「わたし」に手を伸ばしたのだと思いました。

 一方、「わたし」は、どうでしょう?

 ヴァン・ホッパー夫人と二人きりの狭い世界から、飛び立つことを望んでいたところに、現れた白馬の王子様。

 ためらわず、その手をとった。その選択に、きっと後悔はなかったはずです。たとえ、マキシムから真実の愛情が得られなかったとしても。

 だから、ある意味幸せだったと思います。もちろん、マキシムの心すべてを手に入れられない苛立ちはあったでしょうが。それでも初老のマキシムと過ごす穏やかな日々は、以前の不安定な天涯孤独の身からすれば、どんなにか幸せなものだったでしょう。

 弦楽器のビブラートがよかったです。まるで、「わたし」の心そのものだと思いました。その震えが、私の胸にも伝わってきました。まるで息遣い、心臓の音のようです。わずかな期待と、愛しさと、そして得体の知れない不安。

 オープニングの歌、いいですね。マンダレイの人々の影が、「わたし」の心をよぎる。お屋敷を覆いつくすような、ツタの意匠。月明かりのような緑の光。「わたし」の心にくっきりと刻まれた、マンダレイの記憶。

 「わたし」にとっては、まるで夢のような現実。広大なお屋敷で、レベッカの影と戦った日々の懐かしく、苦い思い出。でもそれは同時に、奇妙な陶酔感にも通じているような。だからあのオープニングの歌は、甘く聴こえます。

 山口マキシムが「朝食」という言葉を口にするたび、漢字の「朝食」ではなく、カタカナの「チョーショク」を思い浮かべてしまいました。独特の言い方をしますね。

 その言い方が、不意に昔の記憶とリンクしました。

 私が高校生のときの話です。ある日、家に塾の案内のハガキが届きました。よくあるダイレクトメール。ただ一つ違ったのは、それが個人塾で、宛名が印刷ではなく手書きだったということ。私はその字の美しさに心を打たれました。

 説得力のある字、というのでしょうか。その人の手で書かれた私の名前は、まるで自分の名前ではないかのように完璧な配置で、目を奪われました。

 

 これを書いた人は、誰なんだろう。会ってみたい。

 きっと塾長が書いたんだろう。それだけの理由で、塾に入りました。その字を書いた人に会うのだけが目的だったので、半年後には辞めようと、入塾の時点で決めていました。

 美しい字を書く塾長は、当時の英語の教科書に載っていたある単語を、ひどく特徴的に話す人でした。なぜかその単語だけ、奇妙な発音なのです。

 山口マキシムの、「チョーショク」の発音を聞いて、その塾長のことを思い出しました。

 森の中にあるその個人塾は、窓の外に見えるのが木だけで、ときには野生のリスも見ることができました。私はその塾を、当初の予定通り、半年で辞めました。辞める理由を聞かれたとき、うまく答えられなくて、気まずかったのを覚えています。勉強を習いに来たのではなく、あの字を書いた人を見てみたかったのだとは、最後まで言えませんでした。

 『レベッカ』を観るのは、これが最後です。山口さんの演じるマキシムと、大塚さんの演じる「わたし」の心のすれ違いが、印象的な舞台でした。 

『レベッカ』観劇記 その9

 昨日の続きです。舞台『レベッカ』を観てその感想を書いていますが、ネタバレしていますので、未見の方はご注意ください。

 実は私は、以前はマキシムがダンヴァース夫人を解雇しなかったことを、不思議に思っていたんですよね。マキシム自身、ダンヴァース夫人にいい感情を持っていなかったのは、「わたし」に初めて彼女を紹介するシーンで明らかですし。

 マキシム自身が嫌っていて、しかも彼は「わたし」がいじめられるであろうことをわかっていたはずなのに、なぜそダンヴァース夫人は、家政婦頭であり続けることができたのか。

 これは、今ならなんとなくわかる気がします。人の上に立つポストって、向き不向きがあって。いかに部下をうまくとりまとめるかって、できる人とできない人がいるわけで。

 人がいい、愛想がいい人間に家政婦頭が務まるかというと、そういうわけではない。

 名門のお屋敷で、瑣末な備品の管理や定期的に開かれるパーティでの招待客の選定、もろもろをいかにうまく取り仕切るかということ、これはかなりの技量が必要になります。たとえその管理能力のある人物がたまたまいたとしても、新しい環境で、前任者からの引継ぎは必須ですし。

 突然に、ダンヴァース夫人を解雇することはできなかったのですね。マキシムには苦々しい思いや、言いたいことはあったでしょうが、当面は彼女に頼ることしかなかったのかなあと。

 それに。これは私の想像ですが、レベッカがマンダレイにやってくる前にいたはずの家政婦頭は、たぶんダンヴァース夫人と、ひと悶着あってその交代劇のゴタゴタに、マキシムはうんざりしているんではないかと。レベッカのことですから、お嫁入りしたその日から、自分のメイドのダンヴァース夫人が家政婦頭になるよう、あらゆる策略をめぐらせたはずです。

 そして、長年マンダレイを取り仕切ってきたはずの、家政婦頭は「わたし」のように軽く手玉にとれる小娘ではなかったはずで。

 長年努めたであろう、家政婦頭を慕うメイドも多かったかもしれません。以前の家政婦頭が辞めるとき、新参のダンヴァース夫人が跡を継ぐのに反発して、共に辞めていったメイドも少なからずいたはずです。マンダレイに巻き起こった、嵐のような家政婦頭の交代劇。

 マキシムの脳裏に、その経験は生々しく残り。できることなら、なるべく平穏な日々を、せめて心の傷がもう少し癒えるまで、屋敷の管理や他のことに心を惑わされたくないと願うのは、自然な流れだったのかもしれません。

 ダンヴァース夫人はマキシムや「わたし」に対して、多少慇懃無礼なきらいはありますが、それでも、家政婦頭としては、有能ではあるのでしょう。メイドたちを、とりまとめること。メイドたちに一目置かれる存在であること。これらのことに関しては、文句のつけようがありません。

 そして、間違ってもメイドたちと仲良しごっこはせず、使用人の造反劇の先頭に立つようなことはありえませんしね。

 雇い主にしたら、それが一番、困ることですから。家政婦頭が、主人に代わって使用人に睨みを効かせてくれたら、それだけで家政婦頭の役割を8割は果たしていることになる。

 ここまで書いたら、ますますダンヴァース夫人が悪人に見えなくなってきました。 (^^;

 ダンヴァース夫人にしてみたら、踏んだり蹴ったりなんですよね。崇拝していたレベッカの死があり。新しいミセス・ド・ウィンターを追い出そうにも、反撃されて、逆に自分が職を失う危機に陥り。その上、レベッカが自分を本当には認めていなかったのだという衝撃の真実を知らされ。

 もっと意地悪っぽいダンヴァース夫人なら、憎たらしいとも思うのですが、シルビアさんの演じるダンヴァースは、姿も歌声も、いい人に見えてしまいました。厳しいけれど、邪悪な感じがなくて。

 レベッカに翻弄されたという意味では、マキシムとは同じ被害者の立場にもなるわけです。

 この『レベッカ』という舞台。

 1度目の観劇時には、マキシムVS「わたし」VSダンヴァース夫人だと思っていました。トライアングルで表現される物語なのだと、思っていました。しかし2度目の観劇で、レベッカの影がマンダレイ全体を覆っているのを強く感じたのです。レベッカはトライアングルの背景というよりも、三角形の頂点の一つでした。

 レベッカは、ダンヴァース夫人のことなんてもはや、見ていないのだと思いました。彼女にとっての執着は、マキシムです。そしてマンダレイなのです。ダンヴァース夫人は、そこに絡んでくる存在ではない。だから彼女の視界に、ダンヴァース夫人は入っていない。

 レベッカの聖域である、マキシムの居るマンダレイに入りこもうとする者は、誰であれ排除しようと、彼女は死後もなお身構え、戦闘態勢のまま息を潜めてる。

 レベッカが見ているのは「わたし」。そして、「わたし」はレベッカの視線を真っ直ぐに受けとめ、対等に挑もうとしている。そんな2人の傍らにはマキシムがいて。

 三角形を描くのは、マキシムとレベッカ、そして「わたし」だったんだなあと。

 そしてさらに、それを深く掘り下げたなら。

 それはマキシムとレベッカ、2人の物語なのかもしれません。

 舞台を見て、そんなことを思いました。

『レベッカ』観劇記 その8

 舞台『レベッカ』を観た感想を書いています。前回の続きです。ネタバレしていますので、舞台を未見の方はご注意ください。

 シルビアさん演じるダンヴァース夫人に関しては、2度目の観劇のときには、恐いとも不気味だとも思いませんでした。むしろ、可哀想、という気持ちになってしまいました。

 あれだけの歌を毎日のように、1日に2公演歌い続けるということも、関係しているのかもしれません。毎回全力というよりは、やはり力加減は調整せざるをえないでしょうし。それは別に、手抜きとかそういうことではなく。やはり、無理なものは無理ということです。もう少し公演回数が減れば、それだけ迫力も増すことになるんだろうなと思いました。もしくは、Wキャストにすれば、喉への負担は減るかもしれない。

 

 ダンヴァース夫人。「わたし」を憎んでいるというよりも、普通の、自分にも他人にも厳しい人に見えてしまったところがあって。

 冷たい、眉ひとつ動かさないような表情は、家政婦頭なら、さもありなんという感じです。人を束ねるということは、ナメられないということが大前提でもあるし。年若いメイドさんと仲良くキャッキャと働くなんてことはありえないわけで。

 マンダレイという大きなお屋敷を取り仕切るためにも、ダンヴァース夫人が厳しい表情で、毅然とした態度でいるということは、当然といえば当然ですよね。

 人によってはまあ、人懐こい家政婦頭というのもありなのかもしれませんが、一般的なイメージでいえば、少し厳しい感じの人が多いのかなあと。ああいったお屋敷を取り仕切るにあたっては。

 だから、特別ダンヴァース夫人が、「わたし」に対してひどい人だった、ものすごく厳しい人だった、というのは違うかなと。

 仮装舞踏会での一件はたしかに、あの件に関しては意地悪でした。

 しかしこれも、「わたし」がもう少し気遣いのできる人であったなら、簡単に防げた幼稚な策略だったわけで。

 ダンヴァース夫人が、「わたし」に悪感情を抱いていたのは、「わたし」自身が感じていたのに、なぜ夫人の言葉を素直に信じたのでしょう? アドバイスはアドバイスとして受けて、その上で、他の人に相談することもできたのに。たとえばベアトリス。彼女なら少なくともダンヴァース夫人よりは信頼できますし、マキシムに当日までドレスを内緒にする、ということだって可能なわけで。ベアトリスに相談するにあたっては、なんの問題もありません。それをしなかったのは、あまりにも「わたし」が迂闊すぎたように思うのです。

 ダンヴァース夫人はもしかしたら、「わたし」の、ミセス・ド・ウィンターとしての力量を試そうとした部分があったのかもしれない。まさか、こんな簡単な罠が見抜けないはずはないだろうと。これに引っかかっているようでは、マンダレイの女主人の役は務まらない。

 そして、この一件でマキシムを怒らせてしまった「わたし」がダンヴァース夫人をなじり、2人が対決する場面。ここの場面では、もう少しダンヴァース夫人の迫力が欲しかったです。

 ダンヴァース夫人に、殺気を感じませんでした。憎しみはあったし、気に入らない、という感情は伝わってきましたが、それ以上に発展するドロドロしたものはなくて。だから、階段を上り、「わたし」を追いつめていくところが、単なる喧嘩のような、ちょっとしたいさかいシーンのように見えてしまった。狂気に駆り立てられたダンヴァース夫人が信号弾の音で我に返るときの、空気の違いも際立たなくて、それが少し残念でした。

 ここは表面上、「わたし」を慈母のような優しい笑みで追いつめると、かえって狂気が強調されて恐さが増すだろうなと思いました。いつも無表情なダンヴァース夫人が、優しく「わたし」を追いつめていくのです。なぜ逃げるの? なにも恐がらなくていいのよ? みたいな。

 普段自分を苛めていた人が、満面の笑顔で自分に近寄ってきたら。これはゾっとしますね。「わたし」が初めて見るダンヴァース夫人の笑顔。普通じゃないっていうか、その笑顔の向こうに果てしない闇を見る。怒った顔よりも、数段恐いと思います。

 それでこの場面は、ダンヴァース夫人が職を賭した勝負のときだと思うんですね。自分の主人に対して、失礼な、卑劣な罠を仕掛けたわけですから。しかもそれを平然と認めて、謝りもせずに逆に「わたし」を責める。

 解雇も視野に入れた上での、行動です。このときを逃したら、次のチャンスはないかもしれない。「わたし」を消すには、今このときしか・・・。

 その決意とか覚悟が、もう少し歌に乗るといいなあと思いました。

 長くなりましたので、続きは日付が変わってからUPします。

『レベッカ』観劇記 その7

 舞台『レベッカ』を観て、思ったことを書いています。ネタバレを含んでおりますので、舞台を未見の方はご注意ください。

 寿ひずるさん演じるヴァン・ホッパー夫人が、マキシムをお茶に誘う場面。

 

 お茶に誘われたマキシムが、嬉しそうに見えてしまうのは私の目の錯覚だと・・思いたい(^^;

 ここはちょっと、どうなのかなーと思いました。マキシム、すっごく元気で、嬉しそうなんですもん。「迷惑ちゃうんかい!」と、ツッコミを入れたくなってしまいました。もっと、嫌そうな感じがでるといいなあと思いました。冷たい、感情のない声で。慇懃無礼な態度で。ヴァン・ホッパー夫人以外には明白な、拒絶の色が漂うといいなあと。

 そうすれば、マキシムの孤独感が浮き彫りになるし、ヴァン・ホッパー夫人の空気の読めなさぶりがもっと、明らかになるし。二人を前にした「わたし」の戸惑いも、観客にはわかりやすくなるだろうなと思うのです。

 ヴァン・ホッパー夫人に対しては冷たい目を向けていたマキシムが、「おや、この子はスキャンダル好きのご婦人とは、毛色が違うようだぞ」と、「わたし」に興味を持つ流れが、自然にできますよね。

 夫人という共通の敵(そこまでは言い過ぎかもしれませんが)を前にして、マキシムと「わたし」の間に、妙な仲間意識が生まれる過程も、わかりやすく描けるだろうし。

 それと、荷解きはもうしたのか?みたいなことを尋ねる夫人に対して、マキシムはもっともっと、嫌味で返してもいいんじゃないかと思いました。最初こそ、紳士的な態度を最低限保っていたものの、もううんざりだ、やはりここに座ったりするんじゃなかったくらいの、強烈な嫌味を。「あなたがやってくれるんですか」みたいなセリフでは、嫌味度が足りないような気がします。

 舞台を見ていると、この時点ではあんまり、マキシムが嫌がっていないように思えてしまうんですよね。軽く、皮肉で返してみました的な、むしろ言葉の応酬を楽しんでいるような。怒っているようにも見えないし。

 モンテカルロでのマキシムに、苦悩の影が見えない、足りないというのは本当に惜しいです。これはやっぱり演出なんでしょうね。

 全体的に、サクサクと場面の展開にスピード感があって。いろんな場面を限られた時間に詰め込んでいることと、それから結婚までの流れが劇的なものであったということを表現したい意味でも、じっくりとマキシムの暗い表情を見せる余裕がないのかもしれないと思いました。

 セリフを言う速度も、速いように感じるのです。モンテカルロでは、歌でマキシムの心境を表現することがない分、もっと含みを持たせた、無言の表現がたくさんあるといいなあと思ってしまいました。その含みが、マキシムという人物を不可解で謎めいた存在に作り上げるはずです。

 時間の制約があるから、仕方ないんでしょうね。

 山口さんが自分の判断で、セリフをためたり、間をとったりするわけにはいかないわけで。この辺は、演出の山田さんの指示があるんだろうなと想像しました。

 マキシムと「わたし」の地中海での生活は、それなりに楽しく、しかしレベッカとマンダレイの過去を拭いきれない、にも関わらずそのことをお互いに口に出して語りあうことのない、妙な遠慮と距離感のある中でのものになったと思います。

 それは、舞台の後半に強くあらわれる、マキシムと「わたし」の温度差なんですよね。

 これは、私の個人的な感想なので、もちろんいろんなとらえ方があって当然だと思いますが。私は舞台の山口マキシムが、レベッカほどには「わたし」に魅了されていないと思ったし、だからこそ必死な「わたし」が、けなげにも見えたのです。

 いいとか悪いとかではなく。努力すれば愛されるというものでもなく。

 ただ、マキシムの心を動かしたのは、「レベッカ」だったんだなあって。

 もちろん苦しみも憎しみも与えたけれど。それでもなお、マキシムはレベッカに囚われ、どうしようもなく愛している一面があったんだろうなあと。

 それに。いやらしい言い方になってしまうけれど、「わたし」がマキシムの弱みを握ったというのもまた事実なわけで。「わたし」はマキシムの秘密を知ったがゆえに、マキシムは永遠に「わたし」を裏切れないわけです。

 裏切れば破滅です。

 別に「わたし」が声高にそれを叫ばなくても、マキシムにはわかっているはずです。2度目はないということ。

 「秘密」を握って、強くなった「わたし」。

 揺るぎのない、妻という地位。マキシムは生涯、「わたし」のもの。なぜなら「わたし」だけが、マキシムの大きな秘密を知っているから。「わたし」だけが、彼の共犯者だから。

 秘密を共有することで、「わたし」は妻以上の存在になってしまった。

 いえ、共犯者というような、対等な立場ではなく、むしろ「わたし」の方が上かもしれない。汚れた手を持つのはマキシムで。「わたし」は直接レベッカの死に関わったわけではないから。ただ、口をつぐんでいるだけですから。

 マキシムはいつか、そのことを重荷に感じる日がくると思う。でも逃げられない。だから死んだ目をして、地中海で余生を過ごす。そしてマンダレイの夢をみる。

 咲き乱れた花々、広い屋敷での日々。そして、レベッカのことを。

 愛したマンダレイも、レベッカも、遠い過去で。でも地中海での、老人のような暮らしよりはずっと、鮮やかな記憶で。

 エピローグの山口マキシムが沈鬱な表情にも見えるのは、レベッカの死について、新事実を知ってしまったからだと思いました。

 マキシムは、レベッカに同情したのでしょう。

 重い病気に侵された運命。そして、自ら死を選んだその心に。

 レベッカもまた、苦しんでいたということを知ったから。もちろん、彼女の死に関しての責任の度合いが軽くなったということに関しては、ほっとした部分もあったでしょうが。

 同時に、わかってしまったんだと思います。

 ただの傲慢な女性ではなかったこと。夫を欺き、高笑いしていて殺されたわけではなく。そうすることでしか救われなかった、救いを求めた、弱さを持った女性であったと。

 本当に自分本位で強い人なら、余命がわかった時点で、好きなことをして過ごしたと思うんですよね。もう、ミセス・ド・ウィンターとして体面を保つこともないし。

 買い物三昧、旅行三昧、あるいは人目をはばからず、愛人と遊びまわるか。

 いくらでも選択肢はあったでしょうに、それをしないで、レベッカは自分の命をマキシムの手に乗せたから。

 その心境を思えば、感じるところはあったと思います。マキシムだって、レベッカに対しては憎いというだけの気持ちではなかったはずです。いろんな気持ちが渦巻いて、複雑で、怒りや憎しみが表面には出ていただろうけどその奥底で、核の部分では深く、愛していたのではないでしょうか。

 山口さんの演じるマキシムを見ていたら、そんな風に思いました。

 長くなりましたので、続きは後日。