シアタークリエで3ヶ月上演された舞台、『レベッカ』が6月30日で千秋楽を迎えました。私は計3回見に行ったのですが、今振り返ってみての感想などを書いてみたいと思います。ネタバレ含みますのでご注意ください。
観劇が終わってから、幾度か『レベッカ』のことを考えました。私は最初よりもずっと、「レベッカ」という人物に同情するようになっていました。
悪い人なんですけどね。じゃあ自分がマキシムの立場で、レベッカと出会う人生、出会わない人生、どちらかを選ぶ選択権があるなら、絶対に、出会わない平穏な人生を選びますけども。
解釈は人それぞれで、それこそ観た数の人と同じだけの物語が存在するのでしょう。たしか、雑誌のインタビューかなにかで、マキシム役の山口祐一郎さんも、そんなことを語っていたような気がします。本当にその通りですね。
これは、私が勝手に感じたことですが。
私は『レベッカ』が、マキシムを嘲る気持ちで、高笑いをして死んでいったとは思わないのです。むしろ、祈るような気持ちだったようなのではないかと。
どうか、気付いてほしい。奇跡がおこってほしい。最後の瞬間に大逆転が起こればいい。
病気もなにもかも嘘で、そしてマキシムが両手を広げて、すべてを許して自分を迎え入れてくれること。
「病気」こそがレベッカの一番恐れていることだとしたら。彼女は絶望のどん底で。最後に誰と会いたいと思っただろうか。
レベッカはいろんな面で完璧な女性でしたから、マキシムのことは何でもお見通しだったと思うんですよね。その夜。ボートハウスでファヴェルと待ち合わせて、でもきっと、恐らくマキシムが来るであろうことは、わかっていたんじゃないかと。
マキシムの来訪を、運命に託したのかな。
自分がマキシムを呼び出す、あるいは自分が出かけていくんじゃなくて。まるでコインを投げて決着をつけるように、彼女は運命に賭けた。
マキシムが来ないのなら、それはそういう運命。でも、もしも彼が来たら?
マキシムが来たらどうするか、きっとレベッカ自身も、特に計画があったわけではないと思います。そしてその夜、実際にマキシムを目の前にして、彼女は何を考えたか。
生真面目で単純で、でも十分に魅力的なマキシム。妻の不貞を知って、その目が怒りに燃えている。その、静かに燃える青い炎を見て、レベッカは悟ったんじゃないでしょうか。
奇跡なんて、なにを馬鹿なことを思ったのだろう。マキシムはこんなにも私を憎んでいるというのに。今さらなにを、望むというのだろう。
愛されているのではなく、憎まれているのに。
跪いて許しを請う? すべてを話せば、マキシムのことだからきっと、今までを水に流してくれるでしょう。そして、憐れむような抱擁をくれるでしょう。
病人を、責め立てるような人ではないから。
でも、レベッカが欲しかったのは、同情でも憐れみでもないんですよね。そんなもの、むしろ要らない。
だから、ゆっくり立ち上がって、いつものように、憎まれ口をたたいた。
マキシムの理性の限界がどの辺りにあるか、レベッカは把握していたと思います。それを承知で、彼女は言葉を放った。マキシムが一番傷つくやり方で。
悲しいなあ、と思いました。レベッカは、マキシムを本当に愛し始めていたんじゃないかという気が、するんですよね。いつの頃からか。
こんな形しか、選べなかった。
こんな別れ方しかできなかった。
もしレベッカがマキシムを愛していたんだとしたら、なんて悲しい人なんだろうと。
レベッカに対する怒り。そして、事情のある事故だったとはいえ、人の死に関わったマキシムの自責の念は、「レベッカの余命がわずかだった」と知ったときに、すべて氷解した。
脳裏に焼きついたレベッカの今際の際の表情、細かな一つ一つが、鮮やかに蘇ったと思います。そして、その瞬間、マキシムにはわかってしまった。
ああ、レベッカは自分を愛してたんだと。
素直になれず、すべてを無理やりに抱えこんだまま、行ってしまったんだと。
だからあのとき、レベッカは凍りつくように笑ったんだって。
もう理屈抜きで、パズルがすべて、ぴったりはまったんだと思います。そのショックは、きっと誰にも理解できない。親友のフランクにも。
私がこんなふうに考えるようになったのは、やっぱり山口さんの演じるマキシムが、大塚ちひろさん演じる「わたし」に、心惹かれていないように見えたからです。
「わたし」が魅力的じゃないとか、そういうことではないんですよね。
大塚さんの演じる「わたし」は十分に可愛かった。華があった。
でもマキシムには、レベッカじゃなきゃ駄目だったんだと思うのです。どうしようもなく、惹かれ合う一面があった。お互いに素直になれず、レベッカの生前にそれを認めることはできなかったけれど。
本当は好き同士なのに、どうして傷つけあったんだろう、みたいな。ドミノ倒しのように、最初のコマが倒れるきっかけさえあれば、二人は誰よりも、分かり合えるベストパートナーになれたかもしれない。意地を張っていた新婚の頃を、笑いながらお茶を飲める日がきたかもしれない。お互いの心に、他人とは思えない何かを見ていた二人なのに。
どうして自分はレベッカの本当の心に、気付いてあげられなかったんだろう、的な。別の意味での自責の念が、マキシムの心にむくむくとわき上がってきたのかもしれません。そしてその自責の念をどうにかする術は、もはやない。相手のレベッカは、この世の人ではないから。
それは一生、マキシムが背負っていく十字架ですね。
山口マキシムが「わたし」を見る目。そこには、レベッカを超えるものは、なかったと思うのです。そして、エピローグ。
幸せじゃなかった。どんよりと濁った目。マキシムは孤独にみえました。「わたし」と一緒に暮らしても、「わたし」には理解できない心の闇を抱えてる。その闇にはレベッカが居て、悲しい目でマキシムを見てる。
「わたし」は、それを知ってか知らずか。透き通る声で、過ぎた日々を歌っていましたね。なんともいえない気持ちになります。
マキシムの心を、わかっていたのでしょうか。その心の闇に、レベッカの姿を見ていたでしょうか。
私の感想は、こんな感じです。
Hannah Montanaの、『IF We Were A Movie 』を聴きながら書きました。レベッカもこのくらい素直になれたら、マキシムとの結末は全然違っていたんでしょうね。
なぜだかこの曲がすごく気に入ってしまって、何度も何度も、こればかり集中して聴いていました。そんな気分の一日でした。
繰り返されるこの歌詞が、胸にしみます。
>Fade to black
>Show the names
>Play the happy song
>画面は暗くなり
>エンディングクレジットが映し出され
>ハッピーな曲が流れる
訳は私が勝手につけたので、正確ではないかもしれません。参考程度にしてください。
ハリウッド映画のラストは、基本コレですよね(^^)
めでたしめでたし。すべての障害を乗り越え、二人は互いの気持ちを確かめあい、いつまでも幸せに暮らしました・・・・。
そんな曲を聴きながら、マキシムとレベッカの関係に、思いをめぐらせたひと時でした。