『レベッカ』観劇記 その1

 4月12日ソワレ。舞台『レベッカ』観劇記です。座席はセンター後方でした。辛口なところもありますが、あくまでも個人的感想ですのでご了承ください。かなり正直な気持ちで書いてます。ファンの方は、もしかしたら気分を害することもあるかと思いますので、そういう可能性のある方は見ないほうがいいかもしれません。それと、完全にネタバレしてますので、未見の方はご注意ください。

 

 『レベッカ』を観終えて、シアタークリエを出た私はヘトヘトでした。かすかな頭痛もあり。こんなに心をがしがし揺さぶられるとは、思ってもみなかったのです。

 感動、というのとはちょっと違うかな。感動というと、「めでたし、めでたしで終わる壮大なスペクタクルロマン」というイメージが、私にはあるのです。そういう言葉のイメージからいくと、『レベッカ』は違いますね。

 そうですね、本当に個人的な感想ですけども。なにか、胸の中に皮膚を突き破って直接手を入れられて、心臓をぎゅっと握られて、その手を激しく揺さぶられたって感じですか(^^;

 めでたしめでたし、の物語ではあると思います。救いがあったから。でも、なんというかとても激しい物語で、かつ、心に響く部分がたくさんありました。

 頭痛いのに、観劇記書くのもなあ・・・いう気持ちもありますが、今、興奮状態で自分の感じたままを書き綴らなければ、きっと明日になったら忘れてしまう部分もあると思うので、がんばって書きます。

 まず、最初にクリエの劇場内に入ると、波の音が流れていました。これ、いい感じです。もうすでに、日本ではなくて異国にいるという感じで。潮の匂いを想像しました。波の音って、落ち着くんですよね。聞いてるだけで癒されるので、ゆったりした気分のまま座席に座ってました。

 プロローグ。「夢に見るマンダレイ」綺麗でした~。演出の山田和也さんの感性が、光ってるって感じですね。これ、本家のウィーンでもこんな感じなのでしょうか。幻想的な雰囲気が素敵です。「わたし」役の大塚ちひろさんの声が、透き通ってました。

 マンダレイの使用人?影の人たちがすーっと浮かび上がるような感じで、それがまたいい雰囲気なのです。

 ヴァン・ホッパー夫人役の寿ひずるさん。存在感たっぷりで茶目っ気を見せてくれました。歌うまいですね。観客全員、すぐに、ヴァン・ホッパー夫人の世界へ引き込まれたというか。あれじゃ、「わたし」じゃなくても、夫人のペースに対抗できる人はそうそういないでしょう。わが道を行く、という強引さは、見ていてすごく面白かったです。マキシムとのかけあいが、これまた絶妙。

 強引なんだけど、嫌味がなくて。なんだか可愛らしいという(^^)

 『レベッカ』ってミステリーで、ドキドキする恐い作品かと思いきや、ヴァン・ホッパー夫人のおかげで、前半はすごくテンポよく、面白く見られますね。これ、大事だと思いました。メリハリがつきますもん。全編通じてハラハラドキドキじゃあ、体に悪い。

 笑えるシーンがあると、それだけ観客の緊張も解けるし、舞台と客席の一体感が増すような気がしました。

 ヴァン・ホッパー夫人に釘付けになっていたおかげで、マキシム役、山口祐一郎さんの登場を見逃してしまいました。いつのまにか、舞台にマキシムが立ってたという・・・。大の山口ファンの私としては、考えられないことです(^^;それくらい、ヴァン・ホッパー夫人、強烈なキャラを見事に演じてました。

 モンテカルロでのマキシムは、『そして誰もいなくなった』のロンバードに似てます。明るくて、軽い感じでした。あまり影を感じなくて、それは少し残念だったですね。小説の原作を読んだときには、なにかを内に秘めた得体の知れない人物、というイメージを描いたんですが。これは演出の山田さんの指示なんでしょうか、それとも山口さんの演技プラン?

 

 しかし、よく考えてみると、脚本というか、セリフそのものが軽かったですね。ということは、クンツェさんなのかな。マキシムと「わたし」が親しくなる過程を、もう少し詳しく見たかったなあと思いました。舞台のマキシムは、なんだかガツガツしているように見えてしまった。「わたし」に関して積極的すぎて。

 ここ、けっこう重要だと思うんですよね。「わたし」は、愛情を確信して結婚したわけじゃないから。(小説読んだ私の、勝手な解釈ですけど)

 たぶんこの時点では、「わたし」にとってのマキシムは、突然現れた王子様で、自分に優しくしてくれて、今までの世界から救い上げてくれた人で。でも、わかりかねる人であったと思うんですよね。なに考えてるんだろう、みたいな。奥さん亡くして、寂しいのかな。なに考えてるのかな。でもわからない。ときどき、自分の肩越しに、別の世界を見てる人。

 「わたし」が、もしかしてマキシムは、一時の気の迷いで結婚したんじゃなかろうかと、後にどんどん不安になるくらい、妙に人を避けるというか、距離感のある人物であってほしかったです。

 舞台だと、マキシムがアメリカの青年に見えてしまったのです。避暑地でウブな女の子を見つけた、成金のおぼっちゃま。声をかけることにも、誘うことにも、結婚にもためらいがない、みたいな。女性をエスコートするスマートさが、壮年英国貴族の落ち着いたスマートさではなく、女性慣れしたドンファン的なものに思えてしまって。

 

 ヴァン・ホッパー夫人のコミカルなシーンとは対照的に、マキシムの抱える闇を観客に想像させるような、そういう展開だったら、もっとよかったのになあと思いました。ヴァン・ホッパー夫人との絡みでは、とことん笑って。でも「わたし」と向き合ったとき。そして崖に立ったとき。

 落差の激しい、まるきり違う冬の表情を見せてくれたら、客席の緊張は高まったかもしれません。

 モンテカルロでの「わたし」役、大塚ちひろさんは、華があって美しい。でもそれが、逆にもったいないなあと思いました。

 最初はもっと、やぼったい感じの方がよかったかも。おどおどしていて、セリフもつっかえつっかえしゃべるみたいな。声も小さく、ぼそぼそした感じで。とはいえ、セリフとして聞こえなければならないから、そういうのは線引きが難しいでしょうけど。

 ずばり、地味な女の子には見えなかったということで。だって美しいんですもん。はっきりいって、舞台の華でした。大塚さんがいると、ぱーっと辺りが明るくなる。声にも、自信があふれているように感じました。実際、歌うまいですし。きっとヴァン・ホッパー夫人の使いっぱしりで終わる人生ではないだろうなと、そう思わせるものがありました。

 ただ、ここで本当に冴えない、ぱっとしない、自信喪失なやせっぽちな少女を印象付けておくと、後の大変身がもっと活きてくるかなあという気がしました。マキシムによって変わっていく過程が、もっと劇的になったかなあと。

 マキシムと出会わなければ、この子の一生は単調な繰り返しそのものだっただろう。そこにはドラマのようなサプライズは起こりようもなかっただろうな、と、観客の誰もが納得するような、イケてない女の子が見たかったです。

 マンダレイで使用人たちが主人の到着準備をするシーンは、『モーツァルト!』や、『エリザベート』にも、そっくりなシーンがありました。デジャビュ。

 

 ダンヴァース夫人役のシルビア・グラブさんは、声質がダンヴァースにぴったりでした。声を聞いただけで、陰湿なものがじわじわと伝わってくる。ただ、狂気はあまり感じなかったかも。迫力はありましたが。

 それと、レベッカのことを歌うときに、一瞬だけ、夢見るような、陶酔するようなニュアンスが欲しかったです。それがあると、一層ダンヴァース夫人の病的な部分が際立つから。

 長くなりましたので、続きは後日。順次アップしていきます。

私が「わたし」だったらという話

 以下の文章には、『レベッカ』のネタバレにつながるものもありますので、未見の方はご注意ください。

 もうすぐ舞台『レベッカ』の初日である。なんだかドキドキする。どんな作品になるんだろう。Top Stageを読んだら、山口さんは「とにかく近いから」と強調していた。そうか、舞台と客席はそんなにも近いんだ。私のイメージとしては、『そして誰もいなくなった』のときの、ル テアトル銀座だったんだけど。そのときよりもっと近いんだなあ。

 新しい劇場。シアタークリエを見るのも楽しみなのである。

 初日のチケットはとれなかったので、私が見に行くのはもう少し先のことなのだけれど。

 ところで、今日はもし私が小説の「わたし」だったら、なんてことをぼんやり考えていた。

 絶対、ミステリーにならないなと思った。まず、一緒にドライブ行かないし(^^; 誘われても、断ってるであろう。自分とは住む世界が違うって、最初の出会いのときから実感しているだろうな。それに、ヴァン・ホッパー夫人が恐いから。

 ただ話しているところを見られただけでも、ヴァン・ホッパー夫人はきっと不快になるだろうから。最初からそんな危険は冒さない。たぶん不自然で失礼なほど、私はマキシムには近付かないと思う。でも、遠くからそっと見てるかも。柱の影から。(家政婦は見た、みたいに・・・)

 きっと「わたし」にとっての毎日はとても変わりばえのしないもので。ヴァン・ホッパー夫人が出すぎた真似を許さないだろうから、「わたし」の交友関係は限られたものどころか、ほとんどないはず。だからこそ、マキシムは新鮮で、気になる存在になるはずで。

 それにヴァン・ホッパー夫人の、マキシムに対する畏敬の念みたいなものを感じるから。ゴシップの種にしても、どこか敬意を持って話してるように思えるのよね。あのヴァン・ホッパー夫人がそんな風に話すなんて、どんな人なんだろうって。きっとそういう意味でも、私が「わたし」だったら興味を持つだろう。

 しかし、もし私が「わたし」だったら、物語は始まる前に終わってしまう。ドライブ行かないしね。それに、アメリカに急に旅立つことになっても、心残りはあるだろうけどマキシムの部屋に行く勇気はない。

 たとえがんばって部屋へ行ったとしても、今日出発すると告げた後、マキシムの顔を見る自信がない。「それで?」と言われてしまったら立ち直れないだろうから、たぶん、答えを待つまでもなく、「それじゃお元気でっっっ!!!」と一方的に叫んで全力疾走で部屋に戻るね。顔すら見ないで。そのとき、たとえマキシムがなにか言いかけたとしても、きっと聞かない。聞こえない振りして、そのまま走り去るはず。

 そして、一生あれこれと思い続けるだろうと思う。マキシムと亡くなった夫人の、ロマンチックな空想。いつかマキシムが再婚したと風の便りに聞いたら、「やっと愛する人を失った傷が癒えたんだろうか」なんて頓珍漢なことを思っているだろう。

 舞台『レベッカ』は 竜 真知子 さんが翻訳と訳詞 をされているから、期待大なのだ。なんといっても、あの『ダンス・オブ・ヴァンパイア』の訳詞をされた方ですから。「抑えがたい欲望」については、さんざん過去のブログに書いたので、もうなにも言いますまい。こういう言葉のセンスって、一貫してると思うので、今回もきっと素敵な歌詞になっているはず。

 演出は山田和也さんです。あの『ダンス・オブ・ヴァンパイア』を見てから、尊敬してます。ワクワクして待ってます。山田さんのセンスが好き。演出にも人の好みって分かれると思うんですが、『ダンス・オブ・ヴァンパイア』の演出センスは秀逸でした。私の心に直球で響きましたよ。

 山田さんのいいなあと思うところはもう1つあって、一度細かく作り上げた後は、役者の盛り上がりに任せるという姿勢がまた、好きなんです。信頼なくしてはできない。

 この信頼っていうのも、微妙な線で。任せすぎても、全体としてバラバラになる危険があるだろうし、かといって、ガチガチに固めたら面白くない。

 その日の空気、掛け合いによって生まれる新鮮な「なにか」を、殺してしまう演出でないところが好きなのです。大枠を作り上げた後では、役者にすべてを任せるっていう姿勢がみえて、そこが太っ腹だなあと。自分に自信があり、そしてキャストに信頼を置いていなければ、できないことですよね。

 私は、山口さんは繊細な人だと思っているので。それでいて、ひどく理性的。舞台の上でむやみに暴走することなんてないし、いつも冷静で、たとえ激情にかられても、それを俯瞰しているもう一人の自分を持っている人だと思っているので。

 その山口マキシムがなにかを感じたなら、あますことなく観客にそれを伝えて欲しいと思うのです。余計なものや、マキシムでないものを、出すような山口さんではないから。

 演出の山田さんは、そういう山口さんをよく、理解している方のような気がします。

 たくさんの才能が織り成す『レベッカ』は、どんな作品になるのでしょう。もうすぐです。 

『レベッカ』を語る(昨日の続き)

昨日のブログに書いた『レベッカ』感想の続きです。ネタバレ含んでいますので、未見の方はご注意ください。

マキシムが、「わたし」に罪悪感を告白するシーンが、印象的でした。

>きみと結婚したのは、あまりに自分勝手だったかもしれない

このセリフ以外にも、こんなことを言っています。

>ことを急いて、よく考える暇も与えなかった

マキシムの目に、「わたし」はあまりにも若く、無防備に見えたのかもしれません。そしてマキシム自身、「わたし」を愛して、恋におちて結婚を決めたわけではなかったから。愛を信じきっている「わたし」を前に、戸惑いを覚えたのかもしれません。

もう少し「わたし」の視野が広ければ。もう少し時間をかければ、自分以上に「わたし」にふさわしく、「わたし」を幸せにできる同年代の青年が現れたかもしれない。そうすれば「わたし」はなにも、こんなに年の離れた、汚れた手を持つ自分を選ばない自由があったのに。マキシムの罪悪感は、大きくなるばかりです。

マキシムは結局、「わたし」と一緒にいることで、自分の心の痛みがやわらぐから、結婚を提案したんですよね。後に、レベッカの死の秘密を共有するようになってからは、本当の意味での愛が生まれたと思っていますが。少なくとも最初のうちは、マキシムの結婚には打算の色が濃くて。

同じほど「わたし」が狡猾であれば、お互い様と思えたのでしょうが、マキシムの前にいる「わたし」はあまりに無邪気で。

でもね、このセリフはいけませんよ。

>きみがぼくたちが幸せだと言うなら、そういうことにしておこう。

あーこれ駄目です。絶対駄目。女性にこの言葉は、厳禁です。相手を思いやる言葉のようでいて、ぐっさり心をえぐる言葉なのです。

あなたは幸せじゃないの?つまり、そういうことなのね・・・と思ってしまうから。

ちょっとレベルは違うけど、「晩ご飯なにが食べたい?」という問いに、「なんでもいい」と答えられたときだったり。「どっちが似合う?」という言葉に、「どっちも同じ」と返されたときと同じ、失望です。

聞きたいのは、大好きなその人が喜んでいるという、その言葉なんですから。

喜ばせたいのです。「なんでもいい」と言われれば、どちらにせよ、私ではあなたを喜ばせることはできないのね・・・と思ってしまうのです。

言葉でなくても、目のちょっとした表情でマキシムの満足感を感じ取れたなら、「わたし」はこんなにも絶望しなかったでしょうけども。マキシムはいつも、レベッカの幻影に囚われて、その幻影越しにしか、「わたし」を見ることはなかったから。「わたし」が不安になるのも無理はないと思いました。まして、決定的なこの言葉。

マキシムはマキシムで、気を遣ってるし、マキシムなりの思いやりから出た言葉なんですけどね。しかしこの時点では、そんなマキシムの事情なんて知る由もないのですから、当然「わたし」は落ちこみます。

読者はこの時点で、マキシムが抱える秘密を知りません。だから、「わたし」の気持ちがよくわかります。そして一度全部読んでしまった後で、再びこの箇所を読み返して、初めてマキシムの示す優しさに気付くのです。

マキシムが自己中心的な男性だったら、自己嫌悪なんて感じずに、うまく「わたし」をあしらったでしょう。それができないマキシムの、そういうところが私は好きです。

お互いに真に相手を思いあっていたなら。誤解はいつかはとけるのだなあと思いました。たとえ時間はかかっても、いつかはわかりあえる。本当に心から、相手を愛しく、大事に思ったなら。すれ違った心も、いつか溶けあうことがあるのだと。

『レベッカ』は、相手の心が見えない不安を、うまく描いた作品だなと思いました。

『レベッカ』茅野美ど里訳のいいところ 

小説『レベッカ』の感想です。ネタバレを含んでおりますので、未見の方はご注意ください。

昨日のブログでは大久保康雄訳と、茅野美ど里訳を比較し、私は結局大久保訳の方が好みだという結論を書きました。でも、茅野訳にもいいところがあります。

それはなんといっても、読みやすさ。堅苦しくないので、さらさらっと読めますね。

それと、訳とは関係ないのですが、本の装丁は茅野版(単行本)の方がいい感じです。暗い部屋に、わずかに光が差している写真。ほんの少しだけ、外界に向けて開かれているだろう窓から入る、新鮮な空気の匂い。ぼんやりとうかびあがるソファ。カーテンタッセルの鈍い金色。

きっと窓辺に立てば、海が見えるのでしょう。静かな室内。レベッカの気配を色濃く残した、時間のとまる部屋。

装丁は、断然、茅野版(単行本)に軍配が上がります。大久保版は、私が読んだのは文庫だったのですが、抽象的なマンダレイの屋敷内?の絵のようで、ピンときません。絵とよぶのもどうかな?というような、銀色の線の書きなぐりというか。

よく目を凝らせば、その線はシャンデリア、階段、仮装舞踏会の招待客を描いているようにも見えますが、あんまり抽象的すぎて、想像がふくらみません。

その点、茅野版の写真には、マンダレイのお屋敷の一部をリアルに感じることができます。あの部屋の中に立ったなら、どんな気持ちがするでしょう。懐かしいような、せつないような、不思議な気持ちになりそうです。

茅野美ど里さんの訳は現代的で、かなり読みやすかったです。あらためて『レベッカ』を読み通しました。正直、原文や大久保訳を読んだときには、読みづらく感じた部分は多少雑に読み飛ばしてしまったので。茅野さんの文章だと、そんなことはなく、すべてスラスラと読めました。

訳者略歴を読んで、なんとなく納得です。茅野さんは、アメリカで生活していた時期があったのですね。ヨーロッパでなくアメリカでの生活ということで、それが文章にも表れているような気がしました。太陽が似合う、明るいイメージです。

マキシムの口調も、アメリカの青年っぽい感じだと思いました。

マキシムが「わたし」を選んだ一つの理由には、「御しやすさ」があったのかもしれないですね。御しやすさは、安心感につながります。こう書くと、マキシムがいやらしい人間のようにも響いてしまうかもしれませんが。

あまりにも聡くて、相手の心をわかりすぎてしまう女性だったら。疲れてしまうだろうし、マキシムの心にある秘密をたやすく暴かれてしまいそうで。

だからマキシムはモンテカルロの食堂で、「わたし」の純朴さと、物事を見抜く目の、経験値のなさに惹かれたのかもしれません。

やがて「わたし」がたくさんのことを経験し、一つずつ年をとっていけば、いつかは女性特有の勘も、処世術も磨かれていくのでしょうけども。あのときマキシムの前にいた「わたし」はウブで、生まれたてのヒヨコのように見えたのかもしれません。この女性なら、自分の心深くしまいこんだあの痛む傷口に、気付くことはない、探りをいれることはない、と、マキシムの防御本能が囁いたのかも。

そして、ふしだらさとは対極の位置にいたということ。ふしだらの意味さえ知らないように、その清純さが輝いて見えたのでしょう。このことについては、後にマキシム自身が、「わたし」に語り聞かせていましたね。

>ぼくとしてもきみには知らないでいてほしいことがあるんだ。

>教えたくないから鍵をかけておきたいんだよ。

結婚を決めた理由が、そこにもあったのだと、マキシムは言っていました。この気持ちは、わかるような気がします。レベッカとの暮らしに疲れ果ててしまったからこそ、「わたし」の無知な部分に、安らぎを求めたのですよね。

だから、余計な知識などつけてほしくない。あのレベッカと同じ表情を浮かべて、同じ振る舞いをする日が来ないでほしいと。

マキシムには、「わたし」のすべてが見えていた。少なくとも、結婚の時点では。そして、そのまま変わらないでほしいと願う。自分の知らない「わたし」が垣間見える瞬間を、ひどく恐れてる。もしかしたら「わたし」が無垢であるのは、若さというそれだけの理由ではないかという気持ちがあって。

蛹が蝶になるように、どんなに注意深くしていても、その変身は静かに、確実に起こっているのではないかと。おびえるマキシムの心は、よけいに頑丈な鎧をまとうから、そのことがかえって、「わたし」の不安を煽る。そして、2人の心はすれ違っていく。

長くなりましたので、続きは後日。

『レベッカ』訳者によって、マキシムは別人になる

 昨日のブログに書いた「マキシム扮装の動画」があまりに素敵だったため、それに触発されて、小説『レベッカ』の日本語訳を、読み比べてみました。日本では、大久保康雄さんの訳と、茅野美ど里さんの訳と、2種類の翻訳本が出版されています。以下、ネタバレを含んでおりますので、未見の方はご注意ください。

 大久保康雄さんの訳を読みましたが、原文で読んだときの淡々としたイメージがそのままで、違和感が全くありませんでした。英語だからとか、日本語だからという枠を超えて、原作の香がそのまま訳されているように感じました。

 『レベッカ』という作品。私は、湿度の低さを感じるんですよね。じめーっとしてない。乾燥している。冒頭、延々とマンダレイの記述が続くのですが、それは決して、陰鬱とした日陰の植物のイメージではなくて。

 そして主人公の「わたし」も、涙からは遠い位置にいる。メソメソしてない。

 彼女が泣くときは、涙はただ流れ落ちるのみで。その涙を武器にする姑息さも、いつまでも誰かの腕にぶらさがろうとする執拗さも、なくて。

 そんな「わたし」の、べたつかない心地よさを、うまく表した文章だと思いました。簡素といえば簡素。でも、必要な要素は全部つめられていて、なにげなく、しかし全部が。きれいに、丁寧に整えられている。

 対する茅野美ど里さんの訳は、大久保さんの役よりもやや湿り気があるイメージ。大久保さんよりも現代的で、原作にやや、ドラマチックで派手な要素を加えた感がありました。

 どちらの訳が好みかは、人によって分かれると思います。

 私は断然、大久保さん派です。

 この、原作と同じ、淡々とした雰囲気がいいのです。停滞することなく、指の間から砂がこぼれおちるように、ただ粛々と、登場人物たちが踊っている感じ。

 二人の訳者の対照的な部分といえば、たとえばこの箇所などは典型的です。

【大久保訳】

>そして身をかがめて、わたしのひたいに接吻した。

>「けっして黒繻子の衣装なんて着ないと約束なさい」

【茅野訳】

>身をかがめて頭のてっぺんにキスした。

>「黒いサテンのドレスなんて絶対着ないって約束してくれ」

 この部分を読めば、二人の訳者のカラーがわかると思います。私は大久保さんの、距離感のあるマキシムの描写が好きです。距離感です。マキシムは決して、「わたし」に不用意に近寄ろうとはしない。マキシムの前に引かれた見えない一線は、他者の立ち入りを許さない。誰かがそれを超えようとすれば、二度と彼は、愛想以上の笑みを、その人に見せようとはしないでしょう。

 貴族ということも、年長であるということも。「わたし」の目からみたマキシムをよけいに、遠い存在にさせていたはずです。だから、言葉遣いも大事だと思うんです。

 マキシムは親しい口調で「わたし」に話しかけることはなかったと、そう思います。あくまで一人のレディに対するように。敬意をこめて、よそよそしく。

 マキシムの前に引かれた見えない一本の線は、他者の立ち入りを拒むためだけのものではありません。マキシム自身が、他者の聖域に侵入しないための目印でもあるのだと思います。だから、マキシムはあくまで一定の距離を崩すことなく、「わたし」と触れ合うのです。

 「わたし」がレベッカの影に怯えるのは、マキシムのこの、よそよそしさもあったと思うんですね。マキシムと「わたし」が最初から近い位置にいたなら、前妻だろうがなんだろうが、2人の間に入り込む余地などなくて。「わたし」はもっと自信を持って振舞っただろうし、過去に不安を抱くこともなかったでしょう。

 だからこそ、大久保訳の「・・・なさい」という、優しくも毅然とした物言いが、マキシムには合っているという気がします。茅野訳だと、言い方が乱暴な分、親しみを感じさせるのですよね。「わたし」はその、ぶっきらぼうな物言いに、心理的な近さを感じてしまうと思います。

 それだからこそ、こだわりたいのです。「わたし」は決して、マキシムを近く感じてはいけないのです。近く感じた次の瞬間に、ふいっと遠くへ行ってしまう存在でなければ。それがために、「わたし」は不安で、心配で、恐怖を覚えるのですから。

 マキシムが「わたし」に結婚を申しこむ大事なシーン。訳者によって、こんなにも雰囲気は違ってきます。

【大久保訳】

>ところで、あなたはまだぼくの質問に答えていませんね。ぼくと結婚してくれますか?

【茅野訳】

>まだ答えを聞いてないよ。ぼくと結婚する?

 事ここに至っては、同じマキシムでも、キャラが億万光年ほど離れたものになってしまいました。大久保訳のマキシムが素敵すぎます。

 たぶん、何年も付き合ったカップルであったなら、「僕と結婚してください」というのが、私的には理想のプロポーズなんですね。何年とはいわないまでも、ともかく、心の交流があり、十分にお互いをわかりあえた間柄であれば。有無を言わさず、片膝付いてお願いする、みたいな姿勢こそベストだと思うんですが。でもマキシムの場合。2人はまだ、友人と恋人のギリギリの境界線に立っている段階なので、それならこれが、最上の言い方になると思うんです。

「ぼくと結婚してくれますか?」

 この、率直でありつつも相手への敬意を忘れない言葉遣い。NOという選択肢、逃げ道を残してあげる配慮がいいですね。これなら、イエスもノーも、言いやすい。どちらを言うにしても、心理的負担が少ない。

 このへんは本当に、個人的な好みだとは思いますが。私がもし、「わたし」の立場で茅野訳のような言い方をされたら、興醒めして断りますね。「結婚してあげてもいいよ」みたいなニュアンスを感じてしまう。一見、相手に選択権を与えているようで、でもかすかに、侮蔑の気配が漂う。

 「結婚という人生の一大転機を、あなたはどうとらえてるの? あなた自身は、結婚したいと思っているの?」と、逆に詰問したくなってしまうでしょう。

 訳によって、原作の雰囲気もずいぶん違ってしまうことが、よくわかりました。細かいことですが、物語の舞台をマンダレイと訳すか、マンダレーとするか、というのにもセンスが分かれていますね。私は「マンダレイ」という字面が好きです。大久保訳はやはり、「マンダレイ」としています。

 大久保訳の、厳かな雰囲気が好きです。目の前に、冷たい、遠い目をしたマキシムが浮かんでくるようです。