『狼の牙を折れ』門田 隆将 著 感想

『狼の牙を折れ』門田 隆将 著 を読みました。以下感想を書いていますが、ネタバレ含みますので、未読の方はご注意ください。

テロというと、アメリカやヨーロッパ、そして中東のイメージが強い。日本はテロとは無縁な感じもするけれど、考えてみればあのオウム真理教の事件などは、国家転覆を本気で狙った、本格的なテロだったなあと思う。内乱罪も外患誘致罪も適用されないのが不思議だった。オウム事件で適用がされないなら意味がないし、適用が無理なら無理で、新しい法律を作らなくてはいけない大事件だった。

そして、オウムの事件よりさかのぼること20年あまり。東京駅前のオフィス街が爆破されるという信じられない大惨事があったという。今の駅前の繁栄を見ると、まるで夢のようというか、本当に?という気持ちになる。

事件当時私はまだ幼児だったので、どんな報道があったのか、などは全く覚えていない。ただ、事件としてそういうものがあった、という事実だけは、なんとなく知っていた。テレビか雑誌か、後年、なにかで知識を得たのだと思う。

今回、私はこの本を読んで事件の凄惨さに驚き、犯人グループに対しては怒り、そして公安警察の地道ながんばりには、尊敬の念を覚えた。

特に、公安の仕事というのは大切だけれども決して表に出ないというところが、ちょっと気の毒な気もした。どんな手柄をあげたところで、名前が知れて世間から賞賛を浴びることはないから。

警察内部にも派閥はあって、その中での権力争いはあるだろうけど、犯人を絶対に捕まえる、という強い思いだとか、犯罪を憎む気持ちは共通のものだ。日々、こうした警察のおかげで日本の治安はしっかり守られているんだなあと、あらためて感謝の気持ちがこみ上げてきた。

犯人グループには、全く共感できなかった。もちろん、どんな政治思想を持とうとも、それ自体は自由だけど、自分たちの思い通りにしたいから一般人を巻きこんでテロをする、というのは許されないことだ。すごく不思議なんだけど、理想の社会を思い描くところまではいいとして、グループを組んだとしても、そのとき「ビルを爆破しよう」という話になったら、反対する人はいなかったのかな。だって、そこのビルで働く人は労働者だよね? そこに資本家階級はいないと思う。いくら犯人グループが気に入らない企業だったとしても、そこで働く人たちがターゲットになるのは、意味がわからない。

また、仮に、そこで働く人をエリートとだとして憎んだとしても、ビルには大勢の人が働いているわけで。そこの会社以外の人も存在する。たとえば日雇いで、すごく安い時給で単純作業をしている人もいるかもしれなくて。生活のために必死で働いていたり、子供を食べさせるために休み返上で働いてる人もいるかもしれない。その人たちも巻き込んでしまうのか。

また、その会社とかビルとか全く関係なく、ただ道を通りがかった人も犠牲になってしまった。その人の人生、奪う権利は誰にもどこにもない。どんな立派な思想であったとしても、無関係の人を巻きこんでいいわけがない。

一人、二人ではなく。組織として、こうしたテロを容認し推進する団体が、現実に存在するということが恐ろしかった。

最も印象深かったのは、警察がやっとのことで犯人を逮捕しようとする、その日の朝。逮捕を報じる朝刊が販売されてしまったこと。読みながら、あまりの展開についていけず、「ええ~~!!」と声に出してしまったほどです。

考えられません。ジャーナリズムってなんなんでしょう。その新聞を犯人が読んで、逃げてしまったらこれまでの努力は水の泡です。もちろん、それを知った土田警視総監は記事をとめるように、輪転機をとめるように頼むのですが、産経新聞の福井(警視庁クラブ詰めの記者で、まとめ役のキャップ)は断ります。

もちろん、土田警視総監は、とめなければならない理由を丁寧に説明したのですよ。「もし(犯人に)気づかれたら、捜査官だけでなく、一般市民にも被害が及ぶ可能性がある」と。

これだけ言われて、その意味がわからないわけはありませんよね。新聞記者なのだから、言葉に対しての感覚は人一倍鋭敏なはず。なのに。とめないのです。産経新聞…

この産経新聞の記者を軽蔑します。こんなことがあっていいのか、と思いながら読み進めました。読んでる私ですら、苛立ち、怒鳴りつけたいような気持ちになったのですから、その場にいた土田警視総監の気持ちはいかばかりか、と。裏切られた気持ちになったでしょうね。全部秘密にしてきたわけではなく、出せる情報は出すし、お互いさまで協力できるところは協力してきた関係だったでしょうに、一番肝心なところで、これは裏切りです。

>「明朝、現場での特ダネ取材を産経だけに約束しましょう。だから、報道は夕刊からにして欲しい。お願いします」

>土田は、福井に頭を下げた。

この描写を読んで、胸がいっぱいになりました。きっと土田警視総監も、怒りはあったと思います。だけどその怒りはぐっと押し込んで、頭を下げたんです。そして、低姿勢で頼んだのです。とにかく、逮捕前に逮捕を朝刊が報じるなんてこと、あってはならないんですから。どうしてこの産経新聞の記者にはそれがわからないのか、私にはまったく理解できませんでした。

>「一般市民の命」と「スクープ報道」との鬩(せめ)ぎ合い

と、文中では表現されていましたが。

これ、どう考えても「一般市民の命」の方が重いです。どんなスクープであれ、一般市民の命を危険に晒していいわけがありません。逮捕に失敗したら、グループはどんな反撃にでるかもわからない。そのリスクを考えるとぞっとします。なぜこの記者は平気だったんだろうか。逮捕が失敗に終わったら、後日、最初の事件よりもっと大規模な、もっと残酷なテロが起きるかもしれない。そのとき平気でいられるのでしょうか。自分には関係ないと?

福井の上司である、産経新聞の青木編集局長と藤村社会部長は、「容疑者の名前と住所は掲載しない、容疑者の住む地域には当該朝刊を配らない」というような配慮を提案しますが、そのとき、同席していたスクープ記者たちはなかなか納得しなかったそうです。

もちろん、実名を知るためにものすごく大変だった、その努力が報われない、紙面に載せられない、という記者の悔しさはわかります。でも。こんな大事な逮捕前の局面で、なお「実名を載せろ」と言いきれるその神経。

私は福井の言動にもかなりびっくりだったのですが、新聞社の中では彼はまだ、良識派のほうだったのですね。もっともっと過激な、現場の記者たちがいた。容疑者の実名を朝刊に載せて何が悪い、という考え方があった。

結局、産経新聞は、容疑者が住むエリアの配達を遅らせて、本人が逮捕以前に記事を目にしないようにする遅配作戦を行ったそうです。

でもさー、そのエリアに配らなくても、他では配るんでしょ? 容疑者の仲間が他の地域に住んでて、新聞見て容疑者に電話して知らせたら終わりなのでは? マスコミが警察の捜査の邪魔をする(それも逮捕という、一番の大事な局面で)というのは、やっぱりひどい話だと思いますし、ちょっと考えられない事態です。

一方、土田警視総監は、NHKに電話をして、自ら明日の逮捕情報を伝えました。そしてNHKの報道解禁を午前八時半とし、それまでは一切報じないという協定を取り付けました。

(ちなみに民放に関しては、たとえ新聞に記事が出ても、裏どりに手間取るだろうから、早朝からの放送はないに違いないと考えたそうです。しかし取材力のあるNHKはそうはいかないと)

警視総監から電話を受けたNHKが、良識ある判断をしてくれてよかったです。ここで、「知った以上、ジャーナリストとして報道しないわけにはいかない」とか言い出したらとんでもないことになります(^^;

産経新聞は、逮捕を朝刊で報じるだけでなく、逮捕の瞬間のスクープ写真まで撮ろうとするのですが、私は最後まで、「なんなんだ(怒)」という気持ちで読み進めました。容疑者が記者の不審な動きに気付いたらどうなるのか。なんでこう、最後まで警察の邪魔をするのでしょうか。逮捕してからなら、いくらでも取材すればいいし、その情報は社会の役に立つだろうけど。逮捕そのものを危険にさらすような行動は、許されないと思います。

本は最後の最後まで、驚くべき展開でした。逮捕した7人のうち3人の、想像もできなかった形での出国…

そのうち浴田由紀子は国外で逮捕され日本に送還されましたが、佐々木規夫と大道寺あや子の2人は、現在も逃走中だということです。

すべてが、ドラマでもなく映画でもない、実際の話。ノンフィクションであるという事実が、読後、重くのしかかってきました。

最後の最後まで、引き込まれて一気に読み終えました。事件に関わった人たちの人生が、それぞれぎゅっと詰め込まれた、中身の濃い本だと思いました。

『はいからさんが通る』 大和和紀 著 感想

『はいからさんが通る』のアニメ映画が公開、ということで、『はいからさんが通る』ブームが再び起きているみたいです。

上野公園近くの弥生美術館で、展覧会があるということで行ってきました。原画の展示、懐かしいセリフの数々に、自分が小学生だった頃の、感動が蘇ってきました。

初めて読んだのは、小学校6年生だったかなあ。夢中になって、何度も読み返して、しばらくは少尉のことで頭がいっぱいになっていたっけ。

二次元の世界の人を、初めて好きになりました。それが少尉でした。伊集院忍。もう名前が異次元だもんね~。伊集院光さんとか、伊集院静さんとか、もう、名前聞いただけで、ドキドキしたものです。少尉の面影を重ねようとして、実際の姿を知ったときには勝手に衝撃を受けたり(^^; 勝手に期待して、勝手にがっかりするのも失礼かとは思いますが。でも伊集院という姓をつけた背景には、お二人ともそれなりの思いがあったのかと、想像します。

以下、漫画の感想を書きますがネタバレを含んでおりますので、未読の方はご注意ください。

「はいからさんが通る」には4人のイケメンが登場します。帝国陸軍少尉、伊集院忍。主人公紅緒の幼馴染、藤枝蘭丸。出版社編集長、青江冬星。少尉の部下、鬼島森吾。

一般的に誰が一番人気があるのかというと、少尉が一番で、次点が編集長。二人から大きく票が離れて、鬼島と蘭丸かなあ、という感じだと思いますが。

私の個人的な好みでいうと、少尉一択です。少尉しか見えません。 だから、紅緖が編集長と結婚しようとした気持ち、わからないんですよね。今、あらためて読み返してみても、やっぱり編集長は編集長で、職場の上司という存在にしか見えなくて、紅緖が惹かれる気持ち、わかりません。

一応、紅緖も編集長に、異性として惹かれる部分が少しはあったわけですよね。それがあっての結婚で。

紅緖も、基本的には色恋で結婚しようとしたわけではないですけども。伊集院家を助けるために編集長が自分の生き方を変えた、その男気に報いるために、というのが結婚の裏事情ですけども。

なんだかなあ、今読み返すと、紅緖も編集長も、それでいいんですか?と問い詰めたくなります。紅緖に関して言えば、結婚式当日にも、少尉の幻を見てるくらいですし、全然気持ちをふっきってなどいないわけで。他の人への消えない思いを抱えたままの花嫁。お礼の気持ちで夫婦になる。男女の愛情でなく。

そして編集長も。平気なんだろうか。愛されていないことを知りつつ、お礼の気持ちで結婚する花嫁を、迎え入れるということ。編集長の性格からすると、紅緖から何を言われようとも、結婚とか拒みそうだけども。「お前さんに憐れんでもらわなくとも結構」そう言って、紅緖にはそれ以上何も言わないまま、伊集院家を助けて身を引きそうなんだけどなあ。

さて、この漫画には、小学生の時と、40代の大人になって読み返したときと、感想が違ってきた部分がいくつか存在します。以前のブログでも少し書いた記憶があるのですが、まず、ラリサの夫として暮らした過去を理由に、記憶が戻っても紅緖の元へ戻らなかった少尉の行動について。

これは、大人になったらわかる。子供の時は無邪気に、「なんだよー、ラリサと暮らしてようが別にいいじゃん」なんて思ったけれど。

ラリサと暮らした日々の重さ。そしてラリサの病。そりゃ、紅緖の幸せを考えれば考えるほど、このまま波風を立てずサーシャのフリをし続けようと思いますわな。少尉が少尉であると声を上げるには、少し時間が経ちすぎてしまった。少尉がいない状態で、時が流れてしまったから。少尉不在という世界が、ゆるやかに固まりつつある中で、それをすべてひっくり返せば傷つく人がいる。

それと、私も。もし紅緖の立場だったら、やっぱりちょっと、抵抗あるかもしれないと思ってしまいました。ラリサの夫として暮らした月日を。全然平気、とは言えないかもしれない。なにかあれば、そしてことあるごとに、そのことが胸の奥で深く、静かに痛みそう。

お互いに相手を思いやれば、別離は賢明な選択で。もちろんスパっと割り切れないからこそ、苦しみながらも。

もし関東大震災がなければ、二人がもう一度結ばれることはなかったんだなあと、そう思います。

そして、そもそもこの漫画で一番ひどい人というのが、実は少尉のおばあさまではないかと気付いてしまった今日この頃。

だって、自分が想い人と結婚できなかったから、自分たちの孫同士を結婚させようって、単純にひどい話で。じゃあ孫の気持ちは? 結ばれなかった悲しみと同じものを、孫に背負わせるわけですよね。そのせいで、孫は自分が好きな人と結婚できないわけだから。

しかもおばあさまの夫、おじいさまは生きているのに。自分の妻が、自分ではない元恋人との約束を、生涯忘れず果たそうとしているのを知って。どんな気持ちになるでしょう。私だったら、裏切られたと思うだろうな。一緒に暮らした長い月日を、全部否定されたような気持ちになるでしょう。

『はいからさんが通る』には数々の名場面がありますが。中でも印象深いのは、政治犯の疑いをかけられて拘留された紅緖を助けるために、少尉が大河内中将に会いにいくシーン。

>うっかりはずすのを忘れていた

>帝国軍人ともあろうものがこんなものを

そう言って、軍服姿の少尉が、耳のピアスを外すのです。ロシアの亡命貴族サーシャから、伊集院忍に戻る瞬間。ジグソーパズルの最後のピースが、ぴたっとはまるように。そのとき、紅緖のために少尉に戻ったその姿を、本当にかっこいいと思いました。

紆余曲折、ドラマチックな二人の恋。改めて読んだけれど、展開も結末も知っているのに、読みながら涙してしまいました。それぐらいパワーのある作品です。コメディで茶化してるところも多いのに、真剣なシーンではさっきまでのおちゃらけが嘘のように、ぐぐっと強い力で引き込まれます。

ストーリーもいいけど、絵柄の力も大きいと思いました。なぜなら、アニメ化された映画の予告を見て、まったく心惹かれなかったからです。少尉も紅緖も、漫画原作通りでないと、まるで別作品のようで。同じストーリーをたどっても、違う作品のようになるだろうと想像しました。

思えば、1987年の実写版の映画も、原作漫画からは大きくかけ離れていました。南野陽子さんの紅緖、阿部寛さんの少尉、やっぱり原作とは違う。

弥生美術館での「はいからさんが通る」展、大盛況でした。次から次へと入館者がひっきりなしです。ほぼ女性で、みんな懐かしそうに展示に見入っていて。きっと、あの原画を見たら、一瞬で、みんな少女の頃に戻るんだと思います。

私もそんな一人でした。

『ラヴィアンローズ』村山由佳 著 感想

『ラヴィアンローズ』村山由佳 著 を読みました。以下、感想を書いていますが、ネタバレ含んでおりますので未読の方はご注意ください。

村山由佳さんの本を読んだのは初めてです。天使の卵シリーズというのが気になってはいたものの、今だ読んだことがなく。初村山さんがこの、『ラヴィアンローズ』になりました。

単行本の拍子のピンクのバラが美しい。そして、花束を結ぶ細いリボンのような書体の、La Vie en Rose も素敵。表紙を見ただけで、わくわくします。

全体的に読みやすかったし、続きが気になってどんどんページをめくりました。そして、率直な感想は。登場人物がみんな、あまりいい人ではなかった(^^;

主人公の藍田咲季子の性格には、読んでいて苛立ちを感じました。モラハラ夫に翻弄される描写が長くあって、もしかしたら作者的には咲季子=可哀想な被害者 みたいな位置づけがあったのかなと思うのですが、咲季子は決して、弱者ではないんですよね。経済的にも恵まれていて、もし離婚しても生活に困ることはない。考慮すべき子供もいない。独りで暮らすだけの知性も、胆力も十分に持っている女性なのに。

仮にモラハラに気付かず、苦しんでいるならまだ理解できる部分もあるんですけど、咲季子ははっきり気付いてますからね。自分が夫に不満を抱えていると。なのに、そうでないふりをしている。

嫌なら別れるべきだと思いました。耐えることで咲季子=被害者、みたいな構図が成り立ってしまうのが、ある意味卑怯ではないかなあと。夫婦って、鏡みたいなものだと思います。咲季子が不幸なとき、夫の道彦もやはり不幸なのです。夫だって、コンプレックスを払拭できず、迷路にはまりこむばかり。一緒にいても、お互いを傷つけあっている。

むしろ、別れた方が幸せな二人。咲季子も、道彦も。なのに、なんとなくずるずると生活を続けている。けれど、その生活がいつまでも(お互いに老衰で亡くなるまで)続くとは思えなくて。いつか、破綻がくるのは目に見えている。どちらが我慢できなくなるか、たぶんそれは、咲季子だろうなあと。

結局、その予想通りになるわけですが。咲季子はデザイナーの堂本裕美と出会い、不倫関係になる。

読みながら、そりゃそうだろうなあと思いました。不満があって、心の底では白馬の王子さまを探しているときに現れた相手。ルックスが好みで、自分と美的センスが合う相手。芸術肌の咲季子にとって、こういう感覚的なものは外せない条件でしょうから。

でも、その相手との出会いにも、なんとなく咲季子は自分の立場を利用しているように感じてしまいました。可哀想なモラハラの被害者、としての自分を。

本当に弱い人なら、モラハラから抜け出せないのも気の毒だと思いますが。咲季子は力を持ちながら、敢えてその立ち位置にとどまっているように思えてならないのです。可哀想な被害者、としての心地よさ。そこでは自分が被害者だから。救われるべきお姫様だから。

デザイナー堂本と、咲季子は、薄っぺらさも似ているなあと思いました。心よりも体で結ばれている相手のような。結局、大事なのは自分なのです。相手への思いやりは二の次。

堂本は最初こそかっこよく描かれていましたが、すぐにボロボロと仮面がはがれます。危険性も考えず、自分がもらうプレゼントのために、ルールを守らず電話したりとか。私だったら、その時点で堂本にげんなりするけどなあ。だって、相手を大事に思えば、慎重になって当然の関係性なのだし。もしかしたら咲季子が逆上した夫から暴力受けたりって、簡単に想像できてしまうではないか。なのに、その危険性より、自分がもらうプレゼントの方を優先するって、その時点で咲季子はちっとも大事にされてない。ATMって、このことなのかと思う。

危険を承知で、それでも送られてきたメッセージの内容が、「プレゼント1つじゃなくて、複数でもいいかな?」とか、私ならその瞬間に冷めるなあ。ああ、この人の愛情って、こんなものだったのかと。

まあ、そもそも不倫関係の始まりからして、咲季子の緩さがありましたが。どうしようもない感情の昂りでそうなったのなら仕方ないかなとも思いますが、車で自宅に戻ると言われた時点で、じゃあ降ろしてくれときっぱり言えばよかった。降ろしてくれないなら、信号でとまったときに降りればよかったし。そもそも車から降ろしてくれない相手なら、その後は2度と二人きりにならなければそれだけで、以後は危険性を回避できる。

ずるずると、そういう沼地の関係に陥ったのには、咲季子にも罪がある。堂本にも罪がある。

結局、夫の道彦もモラハラ最低夫ではありますが、咲季子も似たようなものだし、堂本も同じレベル。堂本を紹介した川島も、似たり寄ったり。咲季子を良く知っている川島には、咲季子と堂本を仕事で結び付けたら、結果どうなるかわかってたはずだしなあ。

ドロドロな不倫関係の末に起こった悲劇。その醜悪さと、咲季子の作った庭の美しさの対比がドラマチックです。薔薇が美しく咲けば咲くほど、その影で複雑に絡まる人間模様。人工的な薔薇には、素朴な美しさはない。プライドで塗り固めた、表向きの清潔さ。

咲季子も人工的だなと思いました。庭に道彦を埋めて、平気でいられることがまず、理解できない。まるでロボットみたいに感情がない。本当に庭を愛していたら、そこに人間を埋められるはずがない。見るたびに思い出してしまうでしょう。手塩にかけた大切な庭に、最大の罪の片棒を担がせるだろうかっていう。

夫婦関係も友人関係も仕事関係も。出会う相手、縁のある相手はみんな、同じレベルなんだなあということを思いました。とんでもない相手とは、そもそも出逢わない。そのことを考えさせられた本でした。

『累犯障害者』山本譲司 著 感想

『累犯障害者』山本譲司 著 を読みました。以下、感想です。

これは良著です。世の中の真実に光を当てた本だと思いました。私も今、知的に問題のある親戚の面倒を見ていますから、書いている内容にはとても共感しました。著者の思いには、すべて同感です。差別にならないよう、とても気を遣って書いているのも感じました。そうなんです。すぐに、差別だ差別だと叫ぶ団体も世の中にはいます。そしてそういう団体こそが、結局はこうした気の毒な障害を持つ人たちを、追い込んでいるのだと思います。

ホームレスの多くが、知的に問題があったり、精神障害があったりする人達なのは、見ていてすぐにわかります。本当に重度の人は福祉の手が差し伸べられますが、病気や障害でも軽度なら、福祉の手から滑り落ちてしまう。自由という名のもとに、不衛生で非人間的な生活を強いられていて。私はホームレスに関しては、以前からそう思っていましたが、この本で刑務所の実情も知り、これはなんとか、改善していかないといけない問題だと思いました。

ホームレスも刑務所も、結局一緒なんですよね。行き場がなければ、そのどちらかをうろうろさまようしかない。誰も導いてはくれず、そして原始的な本能は残る。お腹は空くし、人にバカにされれば腹が立つし、誰かに持ち上げられれば嬉しくて、善悪の判断もつかずに、騙されていることにも気付かない。

そして、親子二代、三代にわたって問題を抱える家族の話も、身にしみました。結婚相手も、生まれた子供も、自立した生活をしていく能力に欠けていたり。いくら結婚や出産が自由とはいっても、不幸が連鎖していくのは残酷な話です。私が面倒をみている親戚A(80代)も、知的に少し問題があります。けれど結婚し子供を複数もうけました。そして今、かつての結婚相手や子供達がどうしているかといえば、決して幸福な生活はしていません。Aが結婚し、子供をもうけたことを、私はよかったとは思えないのです。生きていれば命があればいいという話ではない。幸せに生きてこその人生だと思います。

一人で生きていけない人。判断力のない人を、ほいっと世の中に放り出せば、不幸でしかない。
管理者がいる生活を、福祉で実現することができたらいいのになあ、と思います。決められた生活が幸せという人もいるのです。自由は、自由を理解し選択する能力がある人にとって価値のあるもので、そうでない人にとっては逆に管理や束縛の方が幸せなこともあるのです。

人生は自己責任とはいっても、認知や判断力に問題のある人に対して、至れり尽くせりではなくても、基本的な部分だけでも手助けするシステムがあればいいなあと思います。後見人のシステムや、生活のための施設を作るということ。そして、弱者を守るための法の整備も、大切なことです。

知的に問題がある人が、性産業に従事するということには、胸が痛みます。自由だから、ではすまされない問題です。この本の中にその一端が書かれていますが、これが現実なんだと思います。

こんなこと言ったら失礼なのかもしれませんが、タレントの坂口杏里さんを見ても、せつないものがあります。ホストクラブで借金があったといいますが、返済能力のない人に貸す、貸し手側の責任も大きいです。あまりにも法外な借金には、法律で規制をかけたり、専門家の相談窓口を設けたりといった救いがないと、自己責任の一語で片付けるにはあまりにも気の毒で。

過去、社会問題化したサラ金も、金利のグレーゾーンにきちんと罰則を設けることで、被害が激減しましたよね。なぜ最初からそれをしなかったのか、法整備に時間がかかったのは、それまでに甘い汁を吸った人がいるのかなと思います。法で縛れば、闇にもぐる業者が増えるだけ、という意見もあるでしょうが、少なくとも簡単で気軽な借金は防げます。

刑務所の中というのはなかなか知ることのできない世界ですが、そこに存在する障害者の問題に、鋭く切り込んだ深いノンフィクションでした。著者の山本さんに敬意を表します。大変なテーマを、よく書いてくださったと思います。

『殉愛』百田尚樹 著 感想

 『殉愛』百田尚樹 著 を読みました。以下感想を書いていますが、ネタバレ含んでおりますので、未読の方はご注意ください。

 読後、一番に思ったのは、百田さんどうしちゃったんだろ…ということです、悪い意味で(;;;´Д`)ゝ 

 ノンフィクションのはずなのに、一方的な立場からしか書かれていません。記述は全部、さくらさんかさくらさんを擁護する人たちへの取材に基づくもので、この本は全編、さくらさんを褒めたたえる内容になっています。

 娘さんやKさん、Uさん、そして前妻さえも、ひどく性格の悪い人のように描かれているのですけれども。本当にそうなのだろうか?と、なにかもやもやした気持ちが残ってしまいました。

 特に娘さんに関しては、本当にお気の毒だと感じました。
 小さな頃に両親が離婚。お母様が亡くなり、たかじんさんのお母様の元で育てられたとのこと。こうした背景があったなら、なおさら、たかじんさんが亡くなるときに会うべきだったと思うのです。

 もちろん、父と娘の間でいろんな思いや、行き違いがあったのかもしれませんが、たかじんさんがたとえ「会いたくない」と言ったとしても、娘さんには、「会う権利」があるし、それはたかじんさんの思いよりも優先されるべきです。だって、親なのですから。

 まして、娘さん自身は他の報道でインタビューに答え、たかじんさんの入院先も、末期がんのことも知らなかったと主張されているようです。それが本当なら、この『殉愛』で悪者にされてしまっているのは、あまりにもひどい話だと思いました。『殉愛』だけ読んだ人には、娘さんはとても非情でお金に汚い人だと誤解されてしまいます。

 私は宝島社の検証本『殉愛の真実』の方を先に読んでいるので、いろいろ『殉愛』の矛盾が気になってしまう、というのもあるのですが、仮にこの『殉愛』を先に読んでいても、おかしいと感じたと思います。

 あと、この本は最初から最後まで、とにかく未亡人であるさくらさんを、賛美した内容になっていて、そのことにも違和感を感じました。
 二人の愛、を謳う本なら、たかじんさんも美化されているのかと思いきや、たかじんさんはだめな男として描かれているんですよね。女性関係のだらしなさなど。そして、おそらくさくらさんだけに打ち明けた心の内面、本当にこれは公開すべき内容だったのかなあ、と疑問です。
 二人だけの間のこととして、胸に秘めていてもよかったのかなと。この本を世間に発表することを、たかじんさんは本当に喜んでくれたのでしょうか。

 人それぞれ、考え方は違うと思いますが。
 もし私がたかじんさんだったら。自分がつけていたメモなどは、公開してほしくないです。そして、勝手かもしれませんが、自分の中の醜い部分は、そっと隠したままでいてほしいのです。いいことならともかく、恥ずかしい内容などは、世間に向けて公表してほしくないです。

 妻なら、もう少し夫を美化した内容を、本に載せるよう求めるのが通常ではないかと。
 たかじんさんが浮気癖のあるどうしようもない男である、という内容が本に載ることで、結果的に妻であるさくらさんは、ダメ夫を支える素晴らしい妻である、という印象が強いのですが。

 あれ、この本て、愛を描いた本じゃなかったっけ?
 一方的に、さくらさんサイコー、という、さくらさんの本になっていると感じました。

 そして最後に、これは一番まずいだろうと思ったのが、聖路加国際病院で亡くなった後、たかじんさんをお風呂にいれてあげる、という場面です。
 医師が「お亡くなりになりました」と言って、死亡診断書を書くために病室を出た後、寺田さんというナースマネージャーが「お風呂に入れてあげる?」とさくらさんに聞いて、寺田さんの許可のもとで、たかじんさんの体を入浴室に運んだとのことですが。

 体を洗ったり、洗髪したり、湯船に入れたりしたそうです。

 それは、たかじんさんが亡くなった後ですから、いわゆる湯灌のことですよね。でも、病院内に湯灌の施設なんてあるのでしょうか。これ、もしかして普通の入院患者さんが使う入浴室なのでは? だとしたら、いくら有名人とはいえ、衛生上からもとんでもないことだと思うのですが。もしそうだとしたら、美談でもなんでもないです。単なる非常識な行為になってしまいます。

 その点がとても気になりました。

 この『殉愛』、読んで感動は全くありませんでした。むしろ、??と思う点が多すぎて、百田さんどうしちゃったんだろうっていう疑問がわいてきます。
 これを、本当に感動の話だと信じきっているのなら、ちょっと…。

 闘病には各自、いろんな背景があるし。命に係わる病気なら、各々、家族は壮絶な看護になると思うんですよね。それは、誰かがすごいとか、すごくないとかではなく。誰だってそうだと思うんです。
 家族のために必死になるでしょう。
 読み終わって、たかじんさんの最後の2年が特別だとは、思いませんでした。

 どんな人生もその人の生き方であるので、この『殉愛』出版を含めて、たかじんさんの生き様だったんだろうと思いますが、娘さんに対してはお気の毒に思います。父に愛されていないように、本の中では描かれていたけど、それはやっぱりひどい話です。

 そういうことは書くべきではないと、そう思いました。