あなたのために、の残酷さを

 テレビで、辺見マリさんが占い師に洗脳された話をやっていた。

 心の隙間に忍びこんで、人の弱いところを巧みに探って。そういうやり方をする拝み屋だの、占い師だのが卑怯なことはよくわかるし。こういう番組を放送することで、警告になることもわかるんだけども。

 ちょっとだけ、娘のえみりちゃんが可哀想になってしまった。

 再現VTRの中で、マリさんは何度も、「えみりちゃんがどうなってもいいの?」的な脅しを受けて、お告げにのめりこんでいったからだ。

 まあ、演出なんだろうとは思うけど。
 家族の無事を盾にとって、占い師はマリさんを脅した。その家族の中で、えみりさんが一番知名度があるから、インパクトがあるから何度も、演出上で「えみりちゃん」の名前が連呼されたんだろうけど。

 

 あなたのために、という残酷さを思いました。

 えみりさんは、頼んでないのに。むしろ、マリさんをとめただろうになあ。

 それなのに、えみりさんを思うあまりに、マリさんは騙された、的な流れで、再現ドラマが作られていくことに、「それはちょっと・・・」と思う自分がいました。

 あなたのために・・・・。それは、重い荷物を背負わせる言葉。

 本当にその人を思うなら。あなたのためにしたこと、そのすべてを隠したまま、一生、隠しとおしたままで、いいんじゃないかと。知れば、重荷を背負わせることになるから。

 そんなことを思いました。

やる気スイッチ

  Blogramの第20回ネゴトークイベント「~おもしろネゴトNo.1~ネゴキング!」で2位をいただきました~。嬉しいですヽ(´▽`)/

 お題は、「あなたの『やる気スイッチ』を教えて!」でした。

 今日は、このやる気スイッチについて語りたいと思います。

 私は、「無理だよね」と言われると、意地でもそれを覆したくなってしまうんです。この言葉は、魔法の言葉かもしれない。もちろん、その場で反論はしないですけど。この言葉を言われた瞬間、不可能を可能にしたくて、体が動き始めてしまう。

 「無理だよね」と言われた瞬間、スイッチは確実に入ります。

どこまでの自由

 今月は、ブログを毎日書くというのに挑戦中です。月末までは毎日更新する予定です。

 いざこういうノルマを設けると、なにを書いていいのか迷いますが・・・。でも、「書く」と決めたことで、本当は頭に浮かんだだけで終わっていたことを、言葉に残すことができるわけで、1ヶ月間、自分が何を書くんだろうってことが、自分でもちょっと楽しみだったりします。

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 今日は、雨の中を桜見物しました。満開の桜が雨に打たれて、人影も少ない川沿いの道を、ゆっくり歩きました。

 それで、桜を見ながら思ったのです。

 自由とか、そういうんじゃ、ないんだなあって。桜は、咲こうと思って咲いてるわけじゃなく。時期が来れば、「咲くな」と言われてもどうしても咲いてしまうだろうし。とめても脅しても無駄だし。もう、それはとにかく、咲かずにはいられないわけで。咲いてしまうわけで。

 そして、時が経てば。
 いつか、花弁を散らすんだなあと。「散るな」ってとめても、散ってしまう。桜の意志とは関係のないところで。

 自由って、どこまで許されているんだろう。などと、考えてしまいました。

 桜には、選択の余地もないと思うけど。じゃあそれを見ている人間だって。

 思うこと。その行動に、どこまでの自由があるのだろうと。意志や気持ちは、いったいどこからやってくるのだろうか。

 その源流のようなものを。人は、自由に采配することなど、できないのではないか、と。
 だとしたら。人が自由と感じているものは、はかないまぼろし。虚構ということになる。

 桜を見ながら、そんなことを思いました。

今年の紅白

 歌手の小林幸子さんが、長年苦楽を共にしてきた個人事務所の社長と専務を解任したそうだ。一方的な解任ということで、社長と専務はかなり憤っているとのことだけれど、この先泥沼なのかなあ。

 今年の紅白は、恒例のド派手衣装が見られないかも・・・と思うと、少しさびしい。いや、もちろんあの番組は歌がメインとはわかってはいるが(^^;

 騒動を報じるニュースを見ていたら、たしかに社長と専務の怒りはわかる。人生を小林幸子に賭けてきたんだものね。それがいまさら、となれば、今までの自分の努力はなんだったのか、と、虚しい気分になるだろうなあ。

 今回の件、小林幸子さんが去年、結婚したのがきっかけになっているみたいだ。その結婚相手が、いろいろ仕事の面で口出ししたんだろうけど、でもこれって、根の部分では、やっぱり小林幸子本人の気持ちが、大きかったと思う。

 100%全面的に信頼してたら、誰になにを言われたって、彼女と事務所関係者の絆は揺らがなかったと思うから。むしろ、事務所関係者の悪口を言われたときに、「こんなこと言うなんて、この人って・・・」みたいな、結婚相手の方にこそ、不信感を抱いたかも、と思うのだ。

 そうではなかったということは、幸子さんにも、長年の不満があったのかなあと。

 社長も専務も、敏腕なのはわかるけど。だからこそ、歌手として大成功したんだろうけど。幸子さんには幸子さんなりの、「こうしたい」スタイルがあったのかもね。
 むしろ、大成功して、歌手としては頂点にのぼりつめたからこそ、「今度は自分の思うようにやってみたい」という気持ちがあったのかもしれないと思った。
 たぶんその方向性は、社会的な成功に結び付くものではないだろうけど・・・・。

 だからこそ、社長や専務は、幸子さんの意見を入れるんじゃなく、大人として、成功する道をいつも開拓してきたんだろう。もちろん、それは芸能人としての成功を目指す、芸能事務所としての選択としては正しい。

 ただ、たぶん、正しくなくても、幸子さんには幸子さんのやりたいことがあったのかもしれない。だからといって、尽くしてくれる、そして正論の社長や専務に逆らうだけの大きな理由もなくて、ここまできて。
 たまたま、今回きっかけがあって、(いろいろ事務所に関してネガティブなこと吹き込まれたのかな)、こういう騒動になったのかなあと思った。

 結婚相手はきっかけであって、そもそも、幸子さんVS社長と専務、だよね。

 長年助けてくれた人を、非情に切り捨てるのはどうかと思うけど・・・・でも、それって幸子さんが急におかしくなったわけじゃなくて。そういう行動も含めて、その人なんだと思うのです。

 その要素は、ずっとその人の中に、あったのかと。

 青天の霹靂、ではないだろうなあ。

 キラキラ光る、非日常の紅白、ゴージャス衣装。なんだかんだで、いつも楽しみに見ていたので、それがなくなるのは寂しいです。

じわじわくる甘茶と羅漢果

 花祭の日に甘茶を飲んだのだが、懐かしい味で驚いた。これはあの、羅漢果ではないのか・・・と。

 調べてみたところ、甘茶は、アマチャという植物の葉っぱから作っているらしい。ということは、羅漢果とは全く別物。
 しかし、その甘さは、羅漢果にとても似ていると思った。

 昔、私は羅漢果にハマったことがある。
 初めて飲んだ時、不思議な味わいに魅了された。なにしろ、甘さがじわじわやってくるのだ。強烈に甘い、というわけではない。ほのかな甘さが、後から後からひたひたと押し寄せる。
 飲み終わった後、しばらくたっても、甘さが広がるあの奇妙な感覚。
 劇的に甘ったるいわけではない。むしろほのかな甘さだった当初の感覚が、いつのまにか口いっぱいに広がって、これ以上はないほどに満たされる。

 その頃、スーパーでは普通に、羅漢果を販売していた。
 そういえばこの頃は、見ないなあ。なぜだろう。

 私はしょっちゅう、乾燥した羅漢果を買いこんできては、やかんで煮て、ごくごくと飲んでいた。

 飲まなくなったきっかけは単純なことで。

 ある日、買ってきた羅漢果の中に、不良品が混ざっていたのだ。その羅漢果は、似ても全く甘くなかった。それどころか、なんともいえない、思わず吐き出してしまうような苦さを持っていた。

 やかんで煮出したものが、2度連続でまずかったとき。私はすっかり懲りてしまい、羅漢果を買わなくなった。

 すっかり羅漢果を忘れていたものの、私は甘茶を飲んだとたんに、羅漢果を思いだした。懐かしい。久しぶりに飲もうかとスーパーで探してみたけれど、もはやどこにも売っていなかった。

 あの当時のブームは、去ってしまったのだろう。