西脇順三郎 ~静けさの中で~

私が今までに衝撃を受けた詩は、三篇ある。

そのうちのひとつは、西脇順三郎の「太陽」。高校のときの教科書に載っていて、その言葉が紡ぎだす光景の美しさに心を打たれた。
もうひとつ、同じ作者のもので「雨」というのもあったけれど、それはちっとも心にひっかからなかった。「太陽」だけが、その詩の描き出す光景だけが、鮮やかに心に焼きついて離れなかった。

「太陽」というタイトルとは裏腹に、そこに描かれた世界には寂寞感が漂う。蒼い世界、というイメージ。その世界には、人の気配がない。

カルモヂインの田舎。大理石の産地。
昔見た、1999年の夏休みという映画を思い出した。

あの映画の中に出てくる学校の景色も、寂しく、そして美しかった。どこまでも広がる緑の中に、ひっそりと寮がある。ほとんどの学生が帰省した夏休みに、取り残された3人と、謎の転校生が1人。

登場人物のうち最年少の則夫が、つぶやくのだ。「来年は、みんな卒業してしまってここに残るのは僕ひとり」だったかな?そんなようなセリフ。
そのときに感じた、あせりのような気持ち。取り残される痛み。なにかに急き立てられるような、落ち着かない、叫びだしたいような気持ち。

自分が、小学生だったときの光景を思い出した。たとえば、三学期最後の日の空気もそうだ。みんなが帰ってしまった後の誰もいない教室。暖かい日差しが窓から差し込んでいて、春の空気が穏やかで。
みんなが進級のために、自分の荷物を持ち帰ってしまったから。
机と椅子だけが残っているんだよね。がらんとして、静まり返った教室の窓辺に立つと、外から部活動の声がして。

この教室で、同じメンバーが再び顔を合わせ、一緒に勉強をすることはもう2度とないんだなあ、とぼんやり思ったりして。そのときの、胸にチクっとなにかが刺さる気持ち。
人生は、「これが最後」「2度とない」ことの連続で満ちている。

高校の卒業式のとき。ある先生がこんなことを言った。
卒業を最後に、二度と会わない人がほとんどなんだからね。それを自覚して、ちゃんと別れを惜しんでおきなさいよ。この日が、永遠のお別れになる人の方が多いんだから。

その言葉が妙に心に残った。
本当にその通りなんだなあって思う。ほとんどの人とは、もう二度と会うことがないのだ。人生で、すれ違うことはもうないのだ。
数年前、母校の卒業生名簿の一覧の、かなり厚~いものをもらって、それをパラパラとめくったとき。
私の母校は、かなり古い学校だ。創立後まもない頃の卒業生は、もう年齢からいって、亡くなっている人が多いはず。その人たちの住所の中に、「不明」の文字を見て、どんな人生を送ったのだろうと思いを馳せた。

なんともいえない気持ちになった。当時女学校に行けたというのは、かなりのお嬢様だったと思う。
そこには、たくさんの友との思い出があり。そして、卒業とともに皆バラバラの人生を送って、そのまま住所が不明になった人もいて。
だけどもしタイムマシンがあって、その時代に戻れたなら。みんな同じように、笑っているんだろうなあ。矢絣の袴にブーツ?
ごきげんよう。そう挨拶して、みな違う方角に歩き始め、家族を作って、子供が生まれ孫ができ、そしていつか、時代は流れて。

「太陽」の描く世界は、別世界だ。そこでは時間がとまっているような感じがする。喧騒に疲れた身には、憧れの世界。
もしかして、ずっとそこにいれば人恋しくなるのかもしれないけど。
なんとなく、行ってみたい気持ちになってしまうのだ。

誰の声もしない、静まり返った世界。ただ太陽が輝き、息をのむような自然に囲まれた世界。

昔、NHKみんなの歌で、「みずうみ」というのが放送されていた時期があった。あの歌のイメージも、この詩のイメージに近い。特別な夏。静かな夏。思い出すと胸がちくちく痛いような。
見上げると、空が青いんだよね。抜けるような空の色と、プールの後のけだるさ、みたいなもの。

私が感銘を受けた残り2つの詩については、また気が向いたときに書きます。今日はなんとなく、「太陽」について書いてみたくなったので。私は今でもこの詩をときどき口ずさむのだけれど、名作だなあとつくづく思う。

『Out on a Limb』 Shirley Maclaine 著

英語の勉強になるから・・・ということで、シャーリー・マクレーンの本を読んでみました。精神世界の分野では、有名な本らしいです。

ネタバレも含みますので、未見の方はご注意ください。

結局最後まで、感動することはありませんでした。アメリカのショービズの世界で成功を収めた女優さんの、自分探し。シャーリーは決して悪い人ではないと思うけど、どこまでも「お嬢さん」という感じ。お嬢様の自分探し。

そもそも彼女が精神世界に傾倒していくきっかけは、とある政治家との不倫にあるわけですが、その描写も不愉快なものでした。

私たちの愛こそ本物。この世の「不倫」という形に苦しめられる私たちって悲劇よね。みたいな感じで、おいおい・・・と呆れてしまいました。有名な女優さんが出版する本です。当然、多くの人の目に触れるでしょう。彼の家族、奥さんや子供がこの本を見たとき、どんな気持ちになるか考えないのですよね。あくまで自分中心の目線でしかない。私がこの不倫相手Garyの妻、もしくは子供であったなら、怒ると思います。

自分がやられて嫌なことは、相手にもしてはいけない。それは大原則だと思うのですが、シャーリーには相手の気持ちを推し量る部分が、すっぽり抜けているようです。それなりに恵まれた家庭で、愛情に包まれて育ったシャーリー。もしも自分の父親が有名人と不倫して、家庭はそのせいで滅茶苦茶になり、後に父親の不倫相手が「私たちの愛は本物。彼の家庭は偽者」なんてことを出版したとしたら、どんな気持ちがしたでしょう?

まあ、いろんな夫婦がいるし、もしかしたらGaryの奥さんは悪妻で、Garyは本当に苦しんでいたのかもしれない。だけど、子供たちは? 少なくとも、子供たちのことを考えれば、ああいう「私たちの愛こそが本物」的記述は避けるべきだったと思います。

そしてシャーリーは、さまざまな不思議体験をし、またオカルトな世界に足を踏み入れていくことで自分の人生を見つめ直すわけですが、後半、あっさりGaryと別れたのにはびっくりしました。結局そうなのね?という感じ。

あまりにもあっさりだったし、そこに教訓めいたものや、反省も見当たらないし。よくある不倫の結末、という印象を受けました。激しく燃え上がるような感情なんて、そう何年も続くものじゃありません。

シャーリーはチャネリングに関しても、「当たった」とびっくりして信じ込んでいるようですが、私は胡散臭さを感じました。占い師が、相手のことを調べておくのはよくある話だし、そういう警戒心がシャーリーにはなさすぎる。

中国という国についても、絶賛してましたね。共産主義って素晴らしい、理想の国、と思っていたようです。これは周囲の人間に「表面しかみていない」とたしなめられた部分もあったようですが、このエピソードだけでも、シャーリーがどんな人物かわかるような気がします。

挫折を知らずにきたお嬢さんの、悪意のない傲慢さが伝わってきました。私はこういうお嬢さんって苦手です。ちょっと嫉妬も入ってます(^^; その純粋さが羨ましくもあるというか。

だけど仕方ない面もあるのかな。失ってみて、初めてわかることもあると思うのですよ。シャーリーはたまたま順調にやってきた。だから、他から見て傲慢に見えるのかもしれない。自分が持っているものの価値に気付いていないから。失わなければ気付かない。痛みは自分が経験しなければ、思いもよらない。

自分自身を振り返ってみると、やっぱり痛い目をみて初めて謙虚になった部分はあるなあと思います。なにもかもが順調なときは、それで当たり前みたいな気がしていた。周囲に対する気遣いも、なかったかも。そもそも、痛みという概念に気付くことがなかった。

悩んだり苦しんだりすることで、初めて人を思いやる気持ちが生まれたり、痛みに共感することができるのかなあと思ったのでした。

『ちょっと話してみました』船井幸雄・浅見帆帆子著

浅見帆帆子さんの対談集ということで、読んでみました。お話のお相手は船井幸雄さん。大手コンサルティング会社のオーナーです。

船井さんは70才。世の中のしくみについてずっと勉強してきたとのことですが、浅見さんとほぼ同じ意見をお持ちでした。

それにしても、浅見さんはなぜそれだけの知識を持ちえたんだろう? 船井さんも驚いていましたが、特に苦労してきたわけでもないのに、二十代の若さで「ただなんとなく」人生のカギとなる法則を発見してしまうなんて。

素直、勉強好き、プラス発想。この3つが人生を成功させる源だそうです。なるほどーと、あらためて思います。以前に読んだ浅見さんの本でも、このうち2つは強調してましたね。素直というのと、プラス発想の部分です。

私がこの3つを知って、「そうかー。そうかもなー」と思ったのは、そのうちの1つが自分には徹底的に欠けていたから。ずばり、プラス発想です。これはもう、本当に真逆のことを今までずっとやってましたね。極端に心配症で、いつも最悪の事態ばかり予想してた。この、心配症という点では、誰にも負けない自信があります。今年に入って浅見さんの本を読んで、「プラス思考」を実践するようになってはきたのですが、それでもちょっとした瞬間に、ふっと絶望的な気分になることもあるし、どうせ・・・という暗い予想をしてしまうこともある。

恐らく、私からツキを遠ざけていたものは、このマイナスの思考だったと思います。自分でもずっと不思議だったのです。なぜ不運にばかりみまわれるのか、ということ。偶然とは思えないようなことが立て続けにおこって、納得いかなかったことがあります。人からも、「どうしてあなたばかり・・・」と同情されたこともあるくらいなので、それは傍からみても、かなり運が悪い状態だったんだと思います。考えても考えても、罰が当たるようなことをした記憶はないし、なるべく一日一善と思いよいことを心がけても、運には見放され続けた。

一方で、不正を重ねたり人を苛める人が順調に人生を生きていくのを目の当たりにして、「絶対おかしい。でもどうして?」と葛藤することが多かったです。

何事も、最悪の結果ばかりを鮮やかに思い描いてました。怖かったのです。どうせうまくいくはずがないという思いがあったし、そうなったときに傷つきたくはなかった。だから、いつも「こうなったらどうしよう。そのためには・・・」とか「最悪の場合、こうすることにしよう」とか、そういうことにばっかり気をとられてました。備えあれば憂いなし。地盤を100パーセント固めなくては動けなくなってました。石橋を叩いて渡るどころか、重機で壊して架け直す勢いです。

ネガティブ思考が癖になっているので、それを改善することはなかなか難しいのですが、少なくとも愚痴は言わなくなりました。こういうブログでは愚痴ってますが、日常生活で愚痴を言うことがほとんどなくなった。そしたら少しずつ、流れは変わってきたような気がしますね。気のせいかもしれないけど。今年、浅見さんの本を読んでからは、今までと運命の流れが違うような感じ。

自分の中で叶えたい願い事がいくつかあって、それが7月中に叶えばなあと思ってます。そのためにも、夢を具体的にイメージしなければ。夢を具体的に描くのは、寝ながらやってます。

一つ、なんの苦労もなく鮮やかに浮かぶ映像があるんですよ。それは、自分がマンションの一室のソファに座り、レースのカーテン越しに風が入ってくるのを見ている映像。窓からは、外の景色が一望できます。たぶん、夜になれば星空がきれいに見えるだろうなあというような見晴らしのよさ。とても気分がいいのです。

その映像は、不思議なくらい具体的で、これを描くのにはなんの苦労もいりません。私は近いうちに、そういう部屋に移るのかな。

今の部屋は、騒音がないという点では完璧で気に入っているし、引越しの予定もないのですが。なぜかこの映像が最近浮かんできて仕方ない。気になってます。

『あなたは絶対!運がいい』浅見帆帆子著

タイトルに惹かれて読んでみました。『あなたは絶対!運がいい』浅見帆帆子著。予想以上によかったです。参考になりました。

読んでいて、うんうん、その通り!とうなずくところがいくつもあり。特に、言葉の持つマイナスパワーについては、反省することしきりでした。

たしかに、悪い言葉は口に出すだけで、マイナスのパワーを発揮するような気がします。私はよく、昔の失敗を思い出して「私ってバカ。本当にバカ」とつぶやいていたのですが、これはよくない癖だなあと思い、直すことに決めました。

そして気がついたのですが、私は今まで、一日に何度もこの言葉を口にしていた。そりゃもう、自分でも驚くほどです。この言葉をつい口にしそうになるたび、「いかんいかん」と思い、唇を固く閉じます。

自分に自信を失い、自分が憧れている人に会えた時にきちんと顔を見られなかったことも、今となっては間違いだったとはっきりわかる。自分をそこまで低く、貶めることなんて、なかったのに。

ほめられたら否定しない、というのは、今まで真逆のことをやっていました。ほめられると、「いえいえとんでもない。私は○○だし○○だし、まだ○○ができないし」などと、自分の欠点を並べたてて否定してました。これは最もやってはいけないことだったんだなあ。

素直に感謝して、「またがんばりますね」って言えばよかった。

自分の意識レベルが上がると、交友関係が変わってくるというのは本当にその通りだと思います。昔はすごく仲の良かった友達でも、なんとなく居心地の悪さを感じることがあるのです。例を挙げるなら、学生時代の友達。仲良くなったときは横一線状態だったけれど、それから年月が経って、それぞれの道を歩み始めた。

気がつくと、気の合う仲間って、変わってきてるんですよ。社会的経済的立場の違い、というのもあると思う。

この本を読んで、自分がいかにマイナスパワーに満ちていたかを思い知らされた気がします。心配性で、自分に自信がなくて、いつも最悪の結果を想像して怯えていた。だけど、その思考自体が、結果を生んでいた面は、あったんじゃないかなあと思うようになりました。

マイナスの思念が引き寄せるマイナスの結果。

自分を駄目な人間だと思いこんでいて、ちょっとほめられても慌てて「絶対違います」と言い張っていた愚かさに、気付かされました。

もう少し、自分をほめてあげようと思います。

そしてもう少し、自分を信じてみようと思います。

Memoirs of a Geisha

映画『さゆり』の原作本である『Memoirs of a Geisha』はArthur Goldenによって書かれた。どんなもんかな?と読み始めたら、これがなかなか面白かった。

以下、感想を書いてますが、ネタバレ含んでますので未見の方はご注意ください。

最初、いい人だと思っていた田中氏が、千代ちゃんを置屋に売ったのにはびっくり。私、映画のCMで見た渡辺謙が、田中氏の役だと思っていたので。

ああこの田中氏のことを、千代ちゃんは好きになるのね・・・と思っていたし、最初はたしかにとても優しかったのに、いきなり姉ともども売り飛ばされて呆然。千代ちゃんもびっくりしたでしょうが、私にとっても驚愕の展開でした。

お姉さんは女郎屋へ千代ちゃんは置屋へ。それを考えたら、まだ千代ちゃんは幸せだったのかなあ。それにしても初桃。どこの世界にも、こういう理不尽な奴はいるものです。

私にも、似たような経験があるから(初対面で敵視される)読んでいてつらかったです。私の場合は、別に置屋に売られたわけではありませんでしたが。

なんにも悪いことをした覚えがないのに、最初から敵視されてイビラれる。私はまだ大人だったからよかったけど、まだ子供で、世界が狭い千代ちゃんにとってはただただ、恐怖と悲しみの連続だったでしょうねえ。

住み込んでいる場所でこういう意地悪をされて、しかも相手が権力者の場合、もうできることなんて、祈ることしかないんですよね。千代ちゃんがどんなに知恵を巡らせても、初桃に敵うわけがない。

初桃に同情はしません。初桃がどんなに悲惨な境遇で、だから根性が曲がってしまったとしても、いきなり置屋に連れられてきて怯えている少女に対して、あの態度はないだろうと思う。

むしろまともな人間なら、そこに自分の昔の姿を見て、優しくするんじゃないだろうか。

全体の半ばくらいまでは読んでいて苦しくなる描写が多く、何度も投げ出しそうになりました。あんまり悲惨だったから。初桃は猫がねずみをいたぶるように、いともたやすく千代ちゃんを罠にはめ、千代ちゃんはこれでもかとばかりに落ちていく。

会長との出会いでやっと希望がみえたかと思いきや、その後全然会長に再会できないし、再会した後も、会長は千代ちゃんにまったく関心がなさそう。

私は映画は見ていないのですが、映画のサイトは見ました。会長は渡辺謙ですが、イメージにぴったり。そりゃ、千代ちゃんにとっては救いの神。すべての希望がそこにあったとしても不思議でないような、魅力的な人物だと思います。

千代ちゃんの水揚げの相手は、蟹医師。描写が非常に気味悪く、ちょっと危ない人に描かれてました。映画だと誰がやったんだろう。私のイメージだと、役所広司なんだよなあ。延役ではなく、蟹医師の方が合ってたように思います。

役所さんの持つ、どことなく謎めいた、生々しい雰囲気が蟹医師を彷彿とさせるのです。

じゃあ延役は誰がよかったかというと、具体的な役者の名前は思い浮かばないのですが、ちょっと神経質でまじめな感じの人がいいな。さゆりが自分の気に入らない相手を旦那にした、ということだけであれだけ怒っちゃう潔癖で融通のきかない人ですから。

役所さんだと、そういうのをあっさり受容してしまうイメージがあるんですよね。

しかし延も愚かですね。さゆりとは長い付き合いだったのに、結局さゆりが会長に抱いた恋心にも気付かず、その上、さゆりには選択権のない旦那のことでさゆりを責めるし。

本の後半で、さゆりがおカボに裏切られた辺りからは、夢中になって読みました。おカボの気持ちはわかるけど、やってることは最低です。結局おカボはさゆりが羨ましくて、それがそのまま憎悪になった。

一番の盛り上がりは、会長がさゆりに告白するシーン。延はこないの?と気にするさゆりに、本当は最初からさゆりに気付いていたし、ずっと見守ってきたのだと思いを告げる。うわぁぁぁそうだったのかぁぁぁと、叫びたくなりました。最後の最後でどんでん返し。まさか、そうくるとは・・・・。

キスするまでの描写がきれいでうっとり。夢のような話だけど、物語なんだからそういうシーンがないとね。

その後の部分は、付け足しのような感じでした。結局さゆりは会長の愛人となり、子供を生むのですね。なんだ、純愛かと思いきや愛人か、と冷めた気分にもなり。時代を考えたら仕方のないことかもしれないですが。

映画のサイトで写真を見ましたが、芸者の写真があまり日本的でなくて、違和感がありました。もし日本人の俳優が演じて、日本の風景を忠実に反映した映画になっていたら、雰囲気は全然違うものになっていたと思います。

この映画、前評判ほどにはヒットしなかったようですが、その理由は私が感じたような違和感にあるんじゃないのかな?と思いました。