『セーラー服と機関銃』薬師丸ひろ子

薬師丸ひろ子さんの『セーラー服と機関銃』を聴いている。長澤まさみさんバージョンではなく、薬師丸ひろ子版で。

春だからなのかもしれない。

曲に描かれた女性の、若さが眩しい。自分にもこんな時代があったなーなんて。希望に胸をふくらませて新生活を始めた若い日のことを、懐かしく思い出す。

そのとき私は比喩でなく、ものすごーく重い荷物をかついで歩いていた。あれ、実際何キロくらいあったんだろう? 迎えに来てくれた人が、「持ちますよ」となにげなく手を出したので、遠慮して「いいです」と断った。それでも「いいから」と、その人が半ば無理やり持ってくれたのだけれど、その瞬間の驚愕の表情がおかしくて、今でもはっきり覚えている。

本当に重かったのだ。私は平気な顔をして持っていたけど、普通は持ち歩くレベルじゃないよなーという位に。宅急便を頼むには日にちがなかったので、直接持ち歩いていたのだが、今でもあのときの重さは覚えている。

それを受け取ったときの、その人の顔!

マジで。この重さを? ずっと持ってきたの? 嘘でしょ? おかしいでしょ?

気の毒そうな顔というより、不思議なものをみるような目だった(^^;

私にはその驚きが心地よかった。へへー。力持ちでしょ?と思ったし。

4月の空気は、光に満ちている。緑は柔らかくて、植物が成長を始めようとするエネルギーが、そこらじゅうにあふれてる。少し散りかけた桜の下で、そのときの私は、心に誓いを立てたのだった。ああ、なんて若かったんだろう。

あれから10年以上経つ。今も私はやっぱり、重い荷物を持つときにはわざと、平気な顔をしてみせる。先日、嬉しい新事実が発覚。私の好きな人も、同じ癖があったらしい。

こういうのは、性格的なものだと思う。

共通点があったことが、すごく嬉しかった。

komm, susser Tod

Komm, susser Todを聞くと、不思議な気持ちになります。大木に囲まれた深い森の中。木漏れ日。葉ずれの音。古い洋館。

他に誰もいない自然の中で、たった一人立ち尽くしている気分になるのです。

繰り返す単純なリズムの中に、悲しみも喜びも、みんな詰まっているみたいです。こういう曲も珍しい。エヴァンゲリオンの曲ですが、このアニメが大ヒットしたのは、誰もが心に抱えている普遍的な不安を描いていたからでしょうか。

日本語の原詞を書いたのは庵野秀明さんですが、後に安野モヨコさんと結婚されたときには驚きました。庵野さんが抱えていたであろう陰は、結婚によってすべて昇華されたんだろうなあと思います。よかったねえ、シンジくんと思ってしまいました。一歩踏み出して、殻を破って、自分の場所を見つけたんだなあ。

この歌の原詞の向こうに見えるのは、情熱と繊細さの絶妙なバランス。だけど、優しいなあと思います。傷つけるくらいなら、自分が壊れた方がいいなんて。

好きな人を傷つけた刃は、必ず自分に返って来るのですよね。それも、2倍も3倍もの痛みを伴って。傷つけるくらいなら、傷つくくらいなら、出会わなければよかったと思ってしまいますが、それもまた運命。

すべての出会いには意味があるといいますが、お互いにつらいのなら最初から出会わなければよかったと、そういう出会いもあるのだろうと思います。

この曲の絶望的な歌詞と、穏やかな曲調の差がなんともいえません。

Hungry Spider

槙原敬之さんの『Hungry Spider』を繰り返し聞いている。発売されたのは数年前だけど、あらためて聞いて惚れ直した。PVがまたいいのだ。あごひげをはやした陰鬱な感じの彼が、妖精みたいにきれいな女の子に、紙芝居を見せている。

真っ白な、陶器みたいな肌を持つ彼女は、まさに蝶々のイメージ。たぶん、どこへでも飛んでいける。美しいものしか見ないし、今日も明日も明後日も、変わらず楽しい朝がやってくると信じている。

無精ひげの彼は、そんな彼女に恋をして自分の思いを託した紙芝居を見せているんだろうけど、その紙芝居を見る彼女の目が・・・・。理解できない、恐いものを見るような怯えた目で。ああ、この恋は成就しないというのがわかるだけに、なんともせつない。でも彼は、彼女に紙芝居を見せ続ける。それしか、彼が思いを伝える術はないという感じ。

Hungry Spiderは、飢えよりももっと激しい痛みに苦しんでいるんだろうなあ。近付けば近付くほど、手に入らないことを思い知らされる。自暴自棄になるよりももっと、彼女が大好き。

蜘蛛と蝶々じゃ、どうあがいても一緒には暮らせないもんね。逃がそうと駆け寄ったのに、「助けて」と繰り返すばかりの彼女を見て、彼は自分の立場を実感したでしょう。

あのPVは名作だと思う。キャスティングが秀逸。槙原さんの暗い目。まったく異質な彼女の姿。その対照が印象的でした。

All the things she said

t.A.T.u の歌った All the things she said はいい曲だなあと思う。彼女たちのキャラクターは好きじゃない。ドタキャン騒動は呆れて見ていた。ただこの曲は、好きなのである。

ジュエミリアという2人組みが、この曲をカバーして日本語バージョンで歌っていた。当時プロモーションビデオの一部を見て、おいおい・・・・と無言になったものであるが、今あらためて聞いてみると、これはこれでなかなかいいじゃないですか、と思うのである。

10代の女の子のひたむきさ、のようなものがあふれている。真っ直ぐな穢れない愛情への憧れ。

自分の高校時代を思い出して、しみじみ。私は女子高出身なので、なんとなくこういう雰囲気に共感してしまう。

今でも、目を閉じると鮮明にあの頃の空気が蘇ってくる。古い校舎。いちょうの並木。セーラー服。笑い声。遠くから聞こえる陸上部の掛け声。

宝塚ちっくなノリも、もちろんあるのだ。他愛ない擬似恋愛も。あそこは温室だったなあと思う。卒業してしまえば、当たり前のように外界へ出て行くわけで、そうなる前のほんのひととき、同じ年代の女の子たちが、笑って泣いて、一緒の時間を過ごした場所。

映画「1999年の夏休み」や「櫻の園」にも、同じ空気を感じる。2度と戻らない時間は、ひときわきれいに見えるものである。

Wicked Little Town

「ヘドウィグ アンド アングリーインチ」 という映画がある。去年だったか、もっと前だったか記憶は曖昧なのだけれど、レンタルビデオ屋で借りて見た。その映画の中で歌われていた「Wicked little town」という曲が好きだ。

以下、この映画に関するネタバレを含む文章になりますので、未見の方はご注意を。

私はロックとか、激しい音楽が苦手(嫌い)なのだが(じゃあ何故ヘドウィグの映画を見たかというと、ある人から薦められたので)、この Wicked little town だけは、すごく心に残った。もう一つ、The origin of love という曲もよかったが、今になって思い返すと、Wicked little townの方がずっと、いいなあと思うのである。

主人公のヘドウィグは、けっこう嫌な奴。身近にいたら、絶対近づかない。わがままだし、自分のことばかり優先するし、逃げた恋人を追いかけて、無駄な執着が醜いと思った。

同情するほど、弱い人じゃないのだ。ちゃんと自分をしっかり持ってる。

だけど、最後にアンサーソング?として歌われるこの歌を、しんみり聴いているヘドウィグの姿には、強さというよりも純粋さが見えて、とても、きれいだと思った。それまでのけばけばしい姿よりずっと、きれいだと思った。

年下の恋人だったトミー・ノーシスが、まっすぐヘドウィグに歌で伝える。もう恋愛は終わったんだと。優しい声で、優しいメロディで、哀しい事実を歌い上げる。

この曲は、メロディだけでなく、歌詞もいいのだ。

終わったという事実を認められずに、ヘドウィグはもがいて、あがいて、欠片を拾い集めては元に戻そうとする。だけど欠片はもう、元には戻らない。どうしようもできないほど、ボロボロとすべてが崩れ始める。拾っても拾っても、後から後から落ちてくる。そんな状況が、鮮やかに浮かんでくる。

ヘドウィグは、トミーを運命の恋人だと信じてるから、執着していたんだよね。だけど、それは勝手なヘドウィグの思いであって、トミーは違う。そして、歌は二人の別れを決定的にするもので、ヘドウィグの心の一部が、完全に壊れる。

ヘドウィグには立ち直る力がある。だけど、その壊れた心の一部は、決して元に戻らない。それはもう、どうしようもないんだなあと思った。誰かに治せるわけでもないし、ヘドウィグ自身にだって無理なんだもの。

私自身は、mystical design も cosmic lover も信じているわけですが。皆、そういう相手を探しているんじゃないの? と思っていたら、ランチをとっていた同僚に笑い飛ばされてしまった。現実はもっと、ドライなものよ、と既婚の彼女は言う。

でも、そういう相手じゃなかったら、一緒に暮らすのはつらくないのかなあ。ドライに割り切って、暮らすのは私には無理だな。

ヘドウィグも、乙女チックな夢を描いていたんだろうか。なんだか、しょんぼりしているヘドウィグが自分自身に重なって見えた。家でこの曲を久しぶりに繰り返し聞いた、土曜日なのでした。

まあ、トミーもずるいんだよね。別れるにしろ、人の曲を奪って逃げちゃいかんでしょう。そこらへんの罪悪感はなかったのかなあ。そんな奴なんだもの、ヘドウィグも執着することないのにね。私がヘドウィグだったら、その瞬間に冷めてしまいそう。だって、ミュージシャンとして最悪の行為でしょう? 軽蔑してしまう。

執着するほどの価値はなかったというのが、実際のところ。傍から見ればよくわかるのに、一番わかっていないのが本人だったり。よくある話です。