『REBECCA』Daphne du Maurier著を読みました。この作品、映画だけでなく海外では舞台化もされていて、近々日本でもミュージカルとしての上演があるのでは?と噂されているのです。主な登場人物は4人。「私」「マキシム」「ダンバース婦人」。そして、タイトルでもある「レベッカ」。
以下、ネタバレをかなり含んでおりますので、未見の方はご注意ください。サスペンス作品なので、筋がわかってしまうとつまらないかも・・・。真っ白な気持ちで舞台を見たい!と思ったら、舞台が始まるまであらすじを知らないほうが楽しめるかなあと思います。
最初にお断りしておきますが、私が読んだのは原作本だけなので、訳本とは多少話が違っているかもしれません。そのうち日本語訳も読もうとは思っていますが。例えばあの『風と共に去りぬ』の続編として書かれた『スカーレット』などは、原作と日本語訳で、ほぼ別作品になってしまっています(^^; それは英語と日本語のニュアンスの違いというだけでなく、翻訳者の思い入れがどこまで文章に反映されるかということが、関係してくると思います。あくまで原文に忠実に訳すか、それとも日本人気質や文化背景なども考慮した上で、日本人に受け入れられやすい形の文章にするのか。
ちょっと話が脱線してしまいますが、『スカーレット』に関しては私は、森瑤子さんの訳が好きです。英語で書かれた原作よりも、あの超訳と呼ばれた文章の方に、魅了されました。原作ではレット・バトラーが冷淡に描かれていたのに対し、森さんの訳はより情熱的で、優しくて。森さん自身が元々『風とともに去りぬ』の大ファンだっと聞いて、納得しました。
あの訳は、あの続編は、ファンにとってはとても魅力的な内容だったのです。もし原作の『スカーレット』をそのまま忠実に訳していたら、あまり評判を呼ばなかったのではないかと思いました。翻訳者がそこまでする(原作を変えてしまうほどに手を加える)ことには批判の声もあったようですが、私は森瑤子さんの描く世界、『スカーレット』に夢中になりました。
『REBECCA』も、翻訳の過程で原作と日本語訳の間には、多少違いが出てきているのかもしれません。今回の私の感想は、あくまで原作を読んでのものだと思ってください。
もし日本で舞台が上演されるとして、もし山口祐一郎さんが出演するとしたら、マキシム役ですよね。ということで、私は小説を読みながら、マキシムの出てくるシーンは全て、山口さんを思い描いていました。
合ってます。心憎いほどです。
「私」と出会ってからずっと、クールなマキシム。言葉で愛を語ったり、態度で示したりということもない。新婚なのに、2人の間には目に見えない溝のようなものがある。マキシムがたまにみせる、どこか遠くの、過去をさまよう視線。
「私」が前妻のレベッカに嫉妬し、脅威を感じるのも無理ないなあと思いました。
描写を読む限りでは、マキシムが「私」を再婚相手をして選んだのは、ほんの気まぐれというか、あまり深い意味はなかったんだろうなあ、という感じ。
「私」が自分のことを、飼い犬のジャスパーみたいなものだと考えたのも、うなずけます。対等な人間として、女性として愛されたんではないと。
そばにいて、愛情を注いでくれて。いつも傍に座っていてくれる相手が必要だったのだと。
ジャスパーの頭を撫でているときのような平穏な空気が欲しくて、心の慰めのためにマキシムは「私」を選んだのだと、「私」は思いこむのです。
うわー。これ山口さんで見てみたい。マキシムのような役はぴったりではないですか。謎めいて、なにを考えているのかわからない人物。ときどき遠くをみて、なにか別次元に心をさ迷わせている表情。
優しさいっぱいの役より、こういう、ちょっと冷たいキャラクターって合ってると思うんですよね。山口さんの周りだけ、他より2度温度が低い、みたいな。
笑顔をみせずに、真顔で座っていたらそれだけで、マキシム像ができそう。
私が一番好きなシーンは、マキシムがレベッカの死の真実を、「私」に初めて告白する場面です。「私」が可愛い、可愛すぎる。
告げられた真実の重みなんて、全然理解していないように思えます。彼女の頭を占めているのは、ただ一つの真実。「マキシムはレベッカを愛していなかった」というそれだけで。
レベッカの影には勝てない。出て行こうとまで考えた彼女が、最高に幸福な気持ちになった瞬間だと思うのです。愚かで単純で、でもそれが若さで、その素直さがたまらなく可愛いなと思いました。あまりにも愚かすぎて、マキシムでさえ、「私」の胸中を量りかねてます。
そりゃそうです。マキシム位の分別というか理性があれば、こんな重い真実を知った今、2人の関係は終わりだと思うのが当然です。単純に、心のおもむくままに。ひたすらにマキシムを慕う「私」は、マキシムにとって不思議な存在に、そしてとても愛おしい存在に見えたでしょう。
「私」がもう少し年を重ねた女性だったら、これだけ一途にマキシムを思うことはなかったかなーという気がしました。世間の評判、自分の立ち位置、マキシムの気持ち、これからのこと、いろんな要素を天秤にかけて、将来を決めただろうと思います。
レベッカの死の真実を告白されて、ただただ、頭の中に浮かぶのが「私は前妻に負けてない」という思いであったというところが、若さだなあと。
そしてそのことが、マキシムを救い、氷の心を溶かしたのかなあと思いました。
マキシムの告白を聞くまで、私はいろんなことを想像していました。もしかしてマキシムはすっごい悪人で、殺されたレベッカの亡霊は、「私」を助けようとしてるのかしら。とか。
もしやダンバース婦人とマキシムは秘密の恋人同士だった?とか。
ダンバース婦人とレベッカが、入れ替わった可能性なども考えてしまいました。
意地悪に見える人が、実は善人だったというのはよくある小説のパターンなので、本当はダンバース婦人がすごくいい人という可能性が高いかな・・・とも、思っていました。
他に好きなシーンは、法廷でマキシムの審問をこっそり傍聴していた「私」が気分が悪くなったとき、マキシムがフランクに頼んで、「私」を家へ無事送り届けさせる流れです。
マキシムが初めて、夫として彼女を守ろうとした場面じゃないかなあと思いました。大金持ちの設定ですから、お金で彼女にしてあげられることは、それまでもたくさんあったと思います。でも、このときのマキシムは本当に男らしかったです。
お金でもなく、物でもない。フランクに「私」を託した。本当は、審問が自分にとって不利な状況に傾いた中で、誰よりもフランクの助言や存在を必要としていたのはマキシムなのに。
マキシムは、フランクを信用していたからこそ、「私」を預けた。
自分は一人でやれる。この空気の中でも、やりとげてみせる。ただ、この過酷な場に彼女をこれ以上置いておきたくない。安心して託せるのはフランクだけ。
マキシムかっこいいです! 輝いて見えました。それまでの流れの中で、フランクがレベッカの亡霊に悩まされ、精神を病んでいったのはよくわかったし、レベッカの船が発見されてからの怒涛の急展開は、受けとめようにも身に余るものだったのは想像に難くありません。
そういう中で、一人になることを選び、「私」を守ろうとする姿には惚れてしまいました。
もし私がこの小説の主人公「私」だったら。たぶん、一番嬉しかったのはこの瞬間だったと思います。一人で法廷に立つマキシムを思うと心配でたまらないけど、胸は痛むけど、でも同時に誇らしいし、愛されてるなあと実感しただろうし。じわじわとマキシムの愛情が胸にしみて、きっと車中で泣いたでしょう。
この小説の中で一番面白いと思った場面、そのクライマックスがここですね。その後の流れは、余計なもののように思いました。特に、一行がロンドンの医者を訪ねていくシーンは、もう結果がみえみえで、思った通りの展開すぎてがっかりしました。もうひとひねり、どんでん返しが欲しかったです。
どんでん返しと言えば、ファベルの脅迫に対し、フランクがそれをはねつけるのでなく取引に応じる姿勢であったことに、驚きました。
マキシムが断固拒絶するのはわかります。やっぱりこうでなくちゃ。いまさらうろたえるマキシムなんて見たくありません。「私」と心を通じ合わせた今、マキシムに恐れるものはなにもないのですから。マキシムは「私」を守るためなら、いくらでも強くなれたはずです。
でもフランクは、世間知らず過ぎる対応だと思いました。仮にも、マキシムの腹心である人物なのに、対応がお粗末すぎて。逆に、なにか深い意図があるのかと思ってしまいました。例えば、実はファヴェルの仲間だったとか。
年若い「私」がおろおろと心揺れて、脅迫に屈するのは当然ですが。ここでフランクが取引を考えるのはおかしいでしょう。
この手の脅迫は、絶対1回では終わりません。賭けてもいい。
これっきり、という悪人の言葉を信じるほど、フランクは世慣れていない人物ではないと思うのですが・・・。
この場面が、とても違和感ありました。何かの伏線かと思いきや、最後までどんでん返しはなかったし。
小説の最後、こういう終わり方は、あんまり好きではないです。無理やりドラマチックに仕上げたような。それに、ダンバース婦人が出て行く描写が、最後のシーンと合わないような気がしました。最後のシーンを重要だと考えるのなら、ダンバース婦人が荷物をまとめて出て行ったという情報は、意味をもたないと思います。
これをハッピーエンドと捉えていいものかどうか。行く手の空を見つめるマキシムと「私」は、その後どんな言葉を交わし、どんな人生を送ったのでしょう。
でも、レベッカの築き上げたお城の亡霊から逃れるためには、それは必要なことだったのかもしれません。そう考えると、やっぱりハッピーエンドと言えるのかなあ。