『REBECCA』Daphne du Maurier著

『REBECCA』Daphne du Maurier著を読みました。この作品、映画だけでなく海外では舞台化もされていて、近々日本でもミュージカルとしての上演があるのでは?と噂されているのです。主な登場人物は4人。「私」「マキシム」「ダンバース婦人」。そして、タイトルでもある「レベッカ」。

以下、ネタバレをかなり含んでおりますので、未見の方はご注意ください。サスペンス作品なので、筋がわかってしまうとつまらないかも・・・。真っ白な気持ちで舞台を見たい!と思ったら、舞台が始まるまであらすじを知らないほうが楽しめるかなあと思います。

最初にお断りしておきますが、私が読んだのは原作本だけなので、訳本とは多少話が違っているかもしれません。そのうち日本語訳も読もうとは思っていますが。例えばあの『風と共に去りぬ』の続編として書かれた『スカーレット』などは、原作と日本語訳で、ほぼ別作品になってしまっています(^^; それは英語と日本語のニュアンスの違いというだけでなく、翻訳者の思い入れがどこまで文章に反映されるかということが、関係してくると思います。あくまで原文に忠実に訳すか、それとも日本人気質や文化背景なども考慮した上で、日本人に受け入れられやすい形の文章にするのか。

ちょっと話が脱線してしまいますが、『スカーレット』に関しては私は、森瑤子さんの訳が好きです。英語で書かれた原作よりも、あの超訳と呼ばれた文章の方に、魅了されました。原作ではレット・バトラーが冷淡に描かれていたのに対し、森さんの訳はより情熱的で、優しくて。森さん自身が元々『風とともに去りぬ』の大ファンだっと聞いて、納得しました。

あの訳は、あの続編は、ファンにとってはとても魅力的な内容だったのです。もし原作の『スカーレット』をそのまま忠実に訳していたら、あまり評判を呼ばなかったのではないかと思いました。翻訳者がそこまでする(原作を変えてしまうほどに手を加える)ことには批判の声もあったようですが、私は森瑤子さんの描く世界、『スカーレット』に夢中になりました。

『REBECCA』も、翻訳の過程で原作と日本語訳の間には、多少違いが出てきているのかもしれません。今回の私の感想は、あくまで原作を読んでのものだと思ってください。

もし日本で舞台が上演されるとして、もし山口祐一郎さんが出演するとしたら、マキシム役ですよね。ということで、私は小説を読みながら、マキシムの出てくるシーンは全て、山口さんを思い描いていました。

合ってます。心憎いほどです。

「私」と出会ってからずっと、クールなマキシム。言葉で愛を語ったり、態度で示したりということもない。新婚なのに、2人の間には目に見えない溝のようなものがある。マキシムがたまにみせる、どこか遠くの、過去をさまよう視線。

「私」が前妻のレベッカに嫉妬し、脅威を感じるのも無理ないなあと思いました。

描写を読む限りでは、マキシムが「私」を再婚相手をして選んだのは、ほんの気まぐれというか、あまり深い意味はなかったんだろうなあ、という感じ。

「私」が自分のことを、飼い犬のジャスパーみたいなものだと考えたのも、うなずけます。対等な人間として、女性として愛されたんではないと。

そばにいて、愛情を注いでくれて。いつも傍に座っていてくれる相手が必要だったのだと。

ジャスパーの頭を撫でているときのような平穏な空気が欲しくて、心の慰めのためにマキシムは「私」を選んだのだと、「私」は思いこむのです。

うわー。これ山口さんで見てみたい。マキシムのような役はぴったりではないですか。謎めいて、なにを考えているのかわからない人物。ときどき遠くをみて、なにか別次元に心をさ迷わせている表情。

優しさいっぱいの役より、こういう、ちょっと冷たいキャラクターって合ってると思うんですよね。山口さんの周りだけ、他より2度温度が低い、みたいな。

笑顔をみせずに、真顔で座っていたらそれだけで、マキシム像ができそう。

私が一番好きなシーンは、マキシムがレベッカの死の真実を、「私」に初めて告白する場面です。「私」が可愛い、可愛すぎる。

告げられた真実の重みなんて、全然理解していないように思えます。彼女の頭を占めているのは、ただ一つの真実。「マキシムはレベッカを愛していなかった」というそれだけで。

レベッカの影には勝てない。出て行こうとまで考えた彼女が、最高に幸福な気持ちになった瞬間だと思うのです。愚かで単純で、でもそれが若さで、その素直さがたまらなく可愛いなと思いました。あまりにも愚かすぎて、マキシムでさえ、「私」の胸中を量りかねてます。

そりゃそうです。マキシム位の分別というか理性があれば、こんな重い真実を知った今、2人の関係は終わりだと思うのが当然です。単純に、心のおもむくままに。ひたすらにマキシムを慕う「私」は、マキシムにとって不思議な存在に、そしてとても愛おしい存在に見えたでしょう。

「私」がもう少し年を重ねた女性だったら、これだけ一途にマキシムを思うことはなかったかなーという気がしました。世間の評判、自分の立ち位置、マキシムの気持ち、これからのこと、いろんな要素を天秤にかけて、将来を決めただろうと思います。

レベッカの死の真実を告白されて、ただただ、頭の中に浮かぶのが「私は前妻に負けてない」という思いであったというところが、若さだなあと。

そしてそのことが、マキシムを救い、氷の心を溶かしたのかなあと思いました。

マキシムの告白を聞くまで、私はいろんなことを想像していました。もしかしてマキシムはすっごい悪人で、殺されたレベッカの亡霊は、「私」を助けようとしてるのかしら。とか。

もしやダンバース婦人とマキシムは秘密の恋人同士だった?とか。

ダンバース婦人とレベッカが、入れ替わった可能性なども考えてしまいました。

意地悪に見える人が、実は善人だったというのはよくある小説のパターンなので、本当はダンバース婦人がすごくいい人という可能性が高いかな・・・とも、思っていました。

他に好きなシーンは、法廷でマキシムの審問をこっそり傍聴していた「私」が気分が悪くなったとき、マキシムがフランクに頼んで、「私」を家へ無事送り届けさせる流れです。

マキシムが初めて、夫として彼女を守ろうとした場面じゃないかなあと思いました。大金持ちの設定ですから、お金で彼女にしてあげられることは、それまでもたくさんあったと思います。でも、このときのマキシムは本当に男らしかったです。

お金でもなく、物でもない。フランクに「私」を託した。本当は、審問が自分にとって不利な状況に傾いた中で、誰よりもフランクの助言や存在を必要としていたのはマキシムなのに。

マキシムは、フランクを信用していたからこそ、「私」を預けた。

自分は一人でやれる。この空気の中でも、やりとげてみせる。ただ、この過酷な場に彼女をこれ以上置いておきたくない。安心して託せるのはフランクだけ。

マキシムかっこいいです! 輝いて見えました。それまでの流れの中で、フランクがレベッカの亡霊に悩まされ、精神を病んでいったのはよくわかったし、レベッカの船が発見されてからの怒涛の急展開は、受けとめようにも身に余るものだったのは想像に難くありません。

そういう中で、一人になることを選び、「私」を守ろうとする姿には惚れてしまいました。

もし私がこの小説の主人公「私」だったら。たぶん、一番嬉しかったのはこの瞬間だったと思います。一人で法廷に立つマキシムを思うと心配でたまらないけど、胸は痛むけど、でも同時に誇らしいし、愛されてるなあと実感しただろうし。じわじわとマキシムの愛情が胸にしみて、きっと車中で泣いたでしょう。

この小説の中で一番面白いと思った場面、そのクライマックスがここですね。その後の流れは、余計なもののように思いました。特に、一行がロンドンの医者を訪ねていくシーンは、もう結果がみえみえで、思った通りの展開すぎてがっかりしました。もうひとひねり、どんでん返しが欲しかったです。

どんでん返しと言えば、ファベルの脅迫に対し、フランクがそれをはねつけるのでなく取引に応じる姿勢であったことに、驚きました。

マキシムが断固拒絶するのはわかります。やっぱりこうでなくちゃ。いまさらうろたえるマキシムなんて見たくありません。「私」と心を通じ合わせた今、マキシムに恐れるものはなにもないのですから。マキシムは「私」を守るためなら、いくらでも強くなれたはずです。

でもフランクは、世間知らず過ぎる対応だと思いました。仮にも、マキシムの腹心である人物なのに、対応がお粗末すぎて。逆に、なにか深い意図があるのかと思ってしまいました。例えば、実はファヴェルの仲間だったとか。

年若い「私」がおろおろと心揺れて、脅迫に屈するのは当然ですが。ここでフランクが取引を考えるのはおかしいでしょう。

この手の脅迫は、絶対1回では終わりません。賭けてもいい。

これっきり、という悪人の言葉を信じるほど、フランクは世慣れていない人物ではないと思うのですが・・・。

この場面が、とても違和感ありました。何かの伏線かと思いきや、最後までどんでん返しはなかったし。

小説の最後、こういう終わり方は、あんまり好きではないです。無理やりドラマチックに仕上げたような。それに、ダンバース婦人が出て行く描写が、最後のシーンと合わないような気がしました。最後のシーンを重要だと考えるのなら、ダンバース婦人が荷物をまとめて出て行ったという情報は、意味をもたないと思います。

これをハッピーエンドと捉えていいものかどうか。行く手の空を見つめるマキシムと「私」は、その後どんな言葉を交わし、どんな人生を送ったのでしょう。

でも、レベッカの築き上げたお城の亡霊から逃れるためには、それは必要なことだったのかもしれません。そう考えると、やっぱりハッピーエンドと言えるのかなあ。

『真犯人』風間薫著

 風間薫著『真犯人』を読了。以下、その感想ですが、思いきりネタバレしていますので、未読の方はご注意下さい。

 中原みすず著『初恋』と登場人物が重なる本だ、と聞いていたので、読んでみました。非常に面白かったです! これは、『初恋』の後に読むと、かなり謎が解けます。

 中原みすずさんと、風間薫さんはお互いに顔見知りのようです。2人の違う視点から描かれた三億円事件の真実。『初恋』で感じた霧が、すーっと晴れました。

 これは私の考えですが、真実は風間さんの本の方が近いと思います。私には、『初恋』の登場人物みすずが(これは中原みすずさん本人?)実行犯だとは、やっぱりどうしても思えないのです。2冊の本の中で、2人の著者は同じ人物をそれぞれ別の名前で描いていますが、ここでは便宜上、『初恋』の登場人物名を使いたいと思います。

 まず岸について。『初恋』で解けなかった謎は、『真犯人』で解けました。岸が事件を起こした理由です。それは、いかにも当時の若者的な、権力への挑戦という単純なものだけではありませんでした。岸は当時政府高官だった、自分の父親に挑戦したのです。そして敗れました。

 みすずを通じて送り返した三億円は、表に出ることがなかったからです。現金は、闇から闇へ消えました。戦いを挑んではみたものの、岸が望んだ勝利はそこにはありませんでした。

 『真犯人』を読んで思ったのは、岸は現金を送る隠れ蓑、隠し場所として、みすずを利用したのだということです。みすずは実行犯ではなく、現金をアパートから送る役割を担当したのです。たしかに、それなら適任だったといえます。大学に入学したばかりの女子学生のアパートに三億円があるなんて、ぶっ飛んだ発想だからです。犯人を追う側からしたら、予想もしないことだったでしょう。

 

 ではなぜ、『初恋』の中でみすずが実行犯として描かれていたのか? きっとみすずは岸を本当に好きだったんだと思います。だから本当なら、実行犯にもなりたかったはずです。小説化にあたって、その方がドラマティックでもあるし、脚色したのも自然の流れかなあと思いました。もしも実行犯だったら、もしもそれを岸から頼まれたなら・・・想像をふくらませて、物語ができあがったのではないでしょうか。

 『真犯人』を読み終えた後、甘酸っぱい気持ちになりました。みすずの描いた理想の世界、空想の世界。それが『初恋』でした。しかし現実には、みすずは岸の複数のガールフレンドの一人にすぎず。『初恋』の中で、インドを放浪したまま帰らなかった岸は、『真犯人』では日本に帰国し、日本国内で心臓発作で亡くなったと記述されています。

 どちらが信憑性が高いかという話ですが、私はなんとなく、『真犯人』の方が真実のような気がします。

 岸が本当に、心からみすずだけを愛していたとしたら。インドへ出かけることはなかったでしょう。岸もみすずも独身で、二人を阻むものはなにもなかった。岸は日本に残り、愛するみすずと一緒に暮らしたでしょう。仮にどうしてもインドへ行きたかったとしても、みすずと離れる寂しさに耐えかねて、数ヶ月程度で、すぐに帰国したのではないでしょうか。

 現実には、岸はみすずの元に戻らなかった。岸はみすずに好意を抱いていたのでしょうが、それはあくまで好意で、愛ではなかったのだと思います。

 みすずは、「岸はインドへ行ったきり帰らなかった」という物語を作り上げたのかなあと思いました。日本にいるのに連絡をくれないのだとしたら、こんなにはっきりした失恋はありません。だから、みすずの心の中では岸は、幻の恋人としてインドへ消えたことになっているのだと思います。

 岸という人は、運も味方したとはいえ、あれだけの完全犯罪を可能にしてしまった頭のきれる人物です。もしも本当に愛する女性がいたら、実行犯どころか、計画のほんの端っこにさえ、その人を関わらせることはなかったと思います。その人を巻き込むことはしなかったし、自分の犯した罪を徹底的に押し隠し、その人の前では何ごともなかったかのように、無関係を装ったのではないでしょうか。

 

 岸と亮がなぜお互いに惹かれあったのか。それも、『真犯人』を読んで納得です。2人は同じような影を持っていた。だからこそ共感し合い、秘密を共有したのでしょう。他の人には理解できない微妙な心の揺れも、言葉に出さずともわかりあえたのだと思います。

 読み物としての面白さ、文章のうまさは『初恋』ですが、三億円事件の真実に近いのは『真犯人』だと思いました。『初恋』の後に、『真犯人』を読むのをお勧めします。これ、順番が逆になると読むのが大変です。『真犯人』はとても読みにくいのです。

 私は『初恋』を読んだ後、『真犯人』に、さっと目を通し、気になる箇所を拾い読みする、というやり方をとりました。全部をじっくり読むには、あまりにも読みづらかったのです。

 実際に起きた事件を語る2冊の本。関係者の多くが亡くなった今だからこそ、語れることもあるのかなあと思いました。

『初恋』中原みすず著

『初恋』中原みすず著を読了。あの有名な、三億円事件をめぐるお話。以下、ネタバレを含んでおりますので、この本を未見の方はご注意ください。

もともと、映画化されたときに「ん?」と興味をひかれていた。地下鉄に貼ってあったポスター。宮崎あおいちゃんが出ていたっけ。三億円事件と初恋。この奇妙な取り合わせ、一体どんな話なんだろう、と気になっていた。

それから、元ちとせさんの歌う主題歌「青のレクイエム」。これが名曲なのだ。

静かなピアノに合わせて歌う声が、耳に残っている。

ということで、期待を持って原作を読んでみた。

全体の文章センスは好き。ただ、表紙の装丁はどうだろう? 内容に全く合っていないと思った。いろんな色のクレヨン?で塗ったブロックはまるで絵本のようで。この本が伝えたかった、岸とみすずの心の交流とはそぐわない。

みすずのイメージは、宮崎あおいちゃんとは違っていた。好きな女優さんではあるけれども、みすずとは違う。あおいちゃんでは童顔過ぎる。

私が想像したのは、どこか日本人離れした違和感のある女性。完全に大人に成長する前の、不安定さのある女の子。見る角度、その日によって、大人びて見えたり、子供のように見えたり、表情がどんどん変わっていく女性だ。

そして必須条件は目の奥の暗さ。それがある女優さんが演じたら、素敵な作品になっただろうなと思った。

私はみすずと岸の交流を、美しいファンタジーだと思って読んでいた。ただ、結局はお嬢さんとお坊ちゃまなのだなあ、という冷めた目で見る部分もあった。

あの時代。日本は今よりずっと貧しかった。大学の、それも私学に通えるのは、それだけでもずいぶん恵まれたことだったと思う。進学したくても経済的に無理で、家庭のために高卒で働きに出た子も、多かったんじゃないだろうか。あるいは、高校に通いながら放課後は家計を助けるためにアルバイトしていた子。

そんな子たちからみすずと岸を見れば、ため息しか出ないだろうなあ。

ジャズ喫茶で仲間と話せる余裕。

それが欲しくて、叶わなかった子も、たくさんいただろう。

みすずは孤独で、可哀想な子だろうか?うーん。本を読んだ限りでは、私はあまり、せっぱつまったものを感じなかった。もっと厳しい状況の子がたくさんいることも知っているし。家庭に恵まれない寂しさは気の毒ではあるけれども、逆を言えば世の中は、そんなに恵まれた人ばかりとは限らない。

たとえば、晩御飯のこと。結局、お金は渡されていたわけで。そりゃ一人で食べるのは味気ないかもしれないが、空腹を耐える情けなさ、辛さはなかったわけで。

新宿御苑で襲われたみすずの心の傷。それがもし本物なら、ジャズ喫茶にはとてもじゃないが、入れなかっただろうと思う。見知らぬ、複数の、不良と呼ばれる人たちがいる場所だから。

寂しいから、そこに出入りすることができたなら。その傷の深さも、人生を変えてしまうほどには大きくなかったということだ。

岸は、みすずの目には魅力的に映っただろうなあと思う。どこか斜に構えて人生を見ている目。仲間内で一人だけ浮いているその空気に、神秘的なものを感じたのだろう。

だが、冷静に考えると、とんでもない奴なのだ。

本当にみすずを大事に思っていたら。大切な人を、まして自分よりも世間をわかっていない年下の子を、事件に関わらせたりするだろうか。東大に通うだけの知性を持っていた人に、それを判断する能力がなかったとは思わない。

三億円を奪うことが、権力への仕返し?打撃を受けるのは、本当に悪い人たちなのか?

インドを放浪し、やがて行方不明になってしまう生き方。あくまで自分中心だったと思う。そのことが、誰かのために、世の中のためになったんだろうか?

みすずの子供時代。伝書鳩を飼えるのは余裕があったということだと思う。本当に意地悪な叔父夫婦なら、なにがなんでも、許さなかっただろうから。

失われた青春、というけれど、あの時代。青春もなにも、生きるために、家族のために、ただただ働き続けた人たちが大勢いた。進学の夢を諦め、他のことを考える余裕もなく。

そのことを思うと、なんとなく、これは「恵まれた人たちの物語だな」という気がする。

この物語がフィクションなのかどうか、結局ぼかして書いてあるけれど。時効を迎えた三億円事件に、著者がなにかしら関わりのあった人だというのは、本当のような感じがした。

『ミネハハ』フランク・ヴェデキント著

『ミネハハ』フランク・ヴェデキント著を読了。モデルの市川実和子さんが翻訳したとのことで、どんな感じに仕上がっているのか楽しみに読んだのだが、あまりピンとこなかった。

文章には、書き手のセンスがあると思う。そのセンスが自分に合うか合わないか、それによって、感動があったりなかったりする。

この訳された本の文章は、私の心に響かなかった。笑う水、という意味だそうだが、タイトルのインパクトは強烈。

映画『エコール』の原作本だ。この原作に触発されてあの映像を作り上げたのはすごいなあ、と思った。

正直、あまり男性に見て欲しくはない映画だ。

映画の中の色使い、光の加減など、とても印象的だった。あの本を読んで映画を撮ってくださいと言われても、ああいう作品に仕上げることができる人がどれだけいるだろう。

『エコール』は、まるで夢の中の映像のようだと思う。謎だらけだし。答えはみつかるようでいて、最後まであやふやなまま。隔離された森の中。空気は澄んでいて、湿った土の匂いが漂ってきそうで、自分もその中にいるような気持ちになる。

最上級生が、たった一人で出かけていくときの、白い背中が妙に印象に残っている。どこへ行くんだろう。そこになにがあるんだろう。いつか学年が上がって、自分もその秘密を知ることになるんだろうか。そんなドキドキ感。(映画の中ではすっかりイリスに感情移入していたので)。

本を読んだ影響なのか、妙な夢をみた。

私は深い森の中にいて、目の前に死体が2つ。現実なら、恐ろしくて逃げ出さずにはいられない状況なのだが、私は落ち着いてその2つの死体を見下ろしていた。といっても、布がかけられていて、顔はわからない。ただ、その布が森の湿気を吸い、次第にその下の人間の形をあらわにしていく。

2人のうち1人は、軍服を着ている。私はその人の死に際を思い出す。どんどん冷たくなっていくその人に、ずっと寄り添って見守っていたこと。泣こうがわめこうがどうしようもない、圧倒的な死の現実を、思い知らされたこと。

戻らなくては、と思い森を抜けようとするが、来るときには容易く渡れた川が増水していて、しかも雨が降り始める。浅瀬を探すが、どこにもない。川のすぐ向こうには、建物の明かりが見える。あんなに近くにあるのに、戻れないというあせり。私がここにいることを、あの建物の中の人たちは誰も知らない。だから、助けにくることもできない。

こうなったらこの雨の中。暗い森の中で、一晩を過ごすしかない。覚悟を決めたところで、夢から覚めた。

色も匂いも音も、私の夢はリアルだ。いったいなにを暗示した夢なのか。不条理さが夢の最大の特徴なのだとしたら、『エコール』という映画もまた、夢のような映画だったと思う。最後まで、謎は解けなかったから。

西脇順三郎 ~静けさの中で~

私が今までに衝撃を受けた詩は、三篇ある。

そのうちのひとつは、西脇順三郎の「太陽」。高校のときの教科書に載っていて、その言葉が紡ぎだす光景の美しさに心を打たれた。
もうひとつ、同じ作者のもので「雨」というのもあったけれど、それはちっとも心にひっかからなかった。「太陽」だけが、その詩の描き出す光景だけが、鮮やかに心に焼きついて離れなかった。

「太陽」というタイトルとは裏腹に、そこに描かれた世界には寂寞感が漂う。蒼い世界、というイメージ。その世界には、人の気配がない。

カルモヂインの田舎。大理石の産地。
昔見た、1999年の夏休みという映画を思い出した。

あの映画の中に出てくる学校の景色も、寂しく、そして美しかった。どこまでも広がる緑の中に、ひっそりと寮がある。ほとんどの学生が帰省した夏休みに、取り残された3人と、謎の転校生が1人。

登場人物のうち最年少の則夫が、つぶやくのだ。「来年は、みんな卒業してしまってここに残るのは僕ひとり」だったかな?そんなようなセリフ。
そのときに感じた、あせりのような気持ち。取り残される痛み。なにかに急き立てられるような、落ち着かない、叫びだしたいような気持ち。

自分が、小学生だったときの光景を思い出した。たとえば、三学期最後の日の空気もそうだ。みんなが帰ってしまった後の誰もいない教室。暖かい日差しが窓から差し込んでいて、春の空気が穏やかで。
みんなが進級のために、自分の荷物を持ち帰ってしまったから。
机と椅子だけが残っているんだよね。がらんとして、静まり返った教室の窓辺に立つと、外から部活動の声がして。

この教室で、同じメンバーが再び顔を合わせ、一緒に勉強をすることはもう2度とないんだなあ、とぼんやり思ったりして。そのときの、胸にチクっとなにかが刺さる気持ち。
人生は、「これが最後」「2度とない」ことの連続で満ちている。

高校の卒業式のとき。ある先生がこんなことを言った。
卒業を最後に、二度と会わない人がほとんどなんだからね。それを自覚して、ちゃんと別れを惜しんでおきなさいよ。この日が、永遠のお別れになる人の方が多いんだから。

その言葉が妙に心に残った。
本当にその通りなんだなあって思う。ほとんどの人とは、もう二度と会うことがないのだ。人生で、すれ違うことはもうないのだ。
数年前、母校の卒業生名簿の一覧の、かなり厚~いものをもらって、それをパラパラとめくったとき。
私の母校は、かなり古い学校だ。創立後まもない頃の卒業生は、もう年齢からいって、亡くなっている人が多いはず。その人たちの住所の中に、「不明」の文字を見て、どんな人生を送ったのだろうと思いを馳せた。

なんともいえない気持ちになった。当時女学校に行けたというのは、かなりのお嬢様だったと思う。
そこには、たくさんの友との思い出があり。そして、卒業とともに皆バラバラの人生を送って、そのまま住所が不明になった人もいて。
だけどもしタイムマシンがあって、その時代に戻れたなら。みんな同じように、笑っているんだろうなあ。矢絣の袴にブーツ?
ごきげんよう。そう挨拶して、みな違う方角に歩き始め、家族を作って、子供が生まれ孫ができ、そしていつか、時代は流れて。

「太陽」の描く世界は、別世界だ。そこでは時間がとまっているような感じがする。喧騒に疲れた身には、憧れの世界。
もしかして、ずっとそこにいれば人恋しくなるのかもしれないけど。
なんとなく、行ってみたい気持ちになってしまうのだ。

誰の声もしない、静まり返った世界。ただ太陽が輝き、息をのむような自然に囲まれた世界。

昔、NHKみんなの歌で、「みずうみ」というのが放送されていた時期があった。あの歌のイメージも、この詩のイメージに近い。特別な夏。静かな夏。思い出すと胸がちくちく痛いような。
見上げると、空が青いんだよね。抜けるような空の色と、プールの後のけだるさ、みたいなもの。

私が感銘を受けた残り2つの詩については、また気が向いたときに書きます。今日はなんとなく、「太陽」について書いてみたくなったので。私は今でもこの詩をときどき口ずさむのだけれど、名作だなあとつくづく思う。