『初恋』中原みすず著

『初恋』中原みすず著を読了。あの有名な、三億円事件をめぐるお話。以下、ネタバレを含んでおりますので、この本を未見の方はご注意ください。

もともと、映画化されたときに「ん?」と興味をひかれていた。地下鉄に貼ってあったポスター。宮崎あおいちゃんが出ていたっけ。三億円事件と初恋。この奇妙な取り合わせ、一体どんな話なんだろう、と気になっていた。

それから、元ちとせさんの歌う主題歌「青のレクイエム」。これが名曲なのだ。

静かなピアノに合わせて歌う声が、耳に残っている。

ということで、期待を持って原作を読んでみた。

全体の文章センスは好き。ただ、表紙の装丁はどうだろう? 内容に全く合っていないと思った。いろんな色のクレヨン?で塗ったブロックはまるで絵本のようで。この本が伝えたかった、岸とみすずの心の交流とはそぐわない。

みすずのイメージは、宮崎あおいちゃんとは違っていた。好きな女優さんではあるけれども、みすずとは違う。あおいちゃんでは童顔過ぎる。

私が想像したのは、どこか日本人離れした違和感のある女性。完全に大人に成長する前の、不安定さのある女の子。見る角度、その日によって、大人びて見えたり、子供のように見えたり、表情がどんどん変わっていく女性だ。

そして必須条件は目の奥の暗さ。それがある女優さんが演じたら、素敵な作品になっただろうなと思った。

私はみすずと岸の交流を、美しいファンタジーだと思って読んでいた。ただ、結局はお嬢さんとお坊ちゃまなのだなあ、という冷めた目で見る部分もあった。

あの時代。日本は今よりずっと貧しかった。大学の、それも私学に通えるのは、それだけでもずいぶん恵まれたことだったと思う。進学したくても経済的に無理で、家庭のために高卒で働きに出た子も、多かったんじゃないだろうか。あるいは、高校に通いながら放課後は家計を助けるためにアルバイトしていた子。

そんな子たちからみすずと岸を見れば、ため息しか出ないだろうなあ。

ジャズ喫茶で仲間と話せる余裕。

それが欲しくて、叶わなかった子も、たくさんいただろう。

みすずは孤独で、可哀想な子だろうか?うーん。本を読んだ限りでは、私はあまり、せっぱつまったものを感じなかった。もっと厳しい状況の子がたくさんいることも知っているし。家庭に恵まれない寂しさは気の毒ではあるけれども、逆を言えば世の中は、そんなに恵まれた人ばかりとは限らない。

たとえば、晩御飯のこと。結局、お金は渡されていたわけで。そりゃ一人で食べるのは味気ないかもしれないが、空腹を耐える情けなさ、辛さはなかったわけで。

新宿御苑で襲われたみすずの心の傷。それがもし本物なら、ジャズ喫茶にはとてもじゃないが、入れなかっただろうと思う。見知らぬ、複数の、不良と呼ばれる人たちがいる場所だから。

寂しいから、そこに出入りすることができたなら。その傷の深さも、人生を変えてしまうほどには大きくなかったということだ。

岸は、みすずの目には魅力的に映っただろうなあと思う。どこか斜に構えて人生を見ている目。仲間内で一人だけ浮いているその空気に、神秘的なものを感じたのだろう。

だが、冷静に考えると、とんでもない奴なのだ。

本当にみすずを大事に思っていたら。大切な人を、まして自分よりも世間をわかっていない年下の子を、事件に関わらせたりするだろうか。東大に通うだけの知性を持っていた人に、それを判断する能力がなかったとは思わない。

三億円を奪うことが、権力への仕返し?打撃を受けるのは、本当に悪い人たちなのか?

インドを放浪し、やがて行方不明になってしまう生き方。あくまで自分中心だったと思う。そのことが、誰かのために、世の中のためになったんだろうか?

みすずの子供時代。伝書鳩を飼えるのは余裕があったということだと思う。本当に意地悪な叔父夫婦なら、なにがなんでも、許さなかっただろうから。

失われた青春、というけれど、あの時代。青春もなにも、生きるために、家族のために、ただただ働き続けた人たちが大勢いた。進学の夢を諦め、他のことを考える余裕もなく。

そのことを思うと、なんとなく、これは「恵まれた人たちの物語だな」という気がする。

この物語がフィクションなのかどうか、結局ぼかして書いてあるけれど。時効を迎えた三億円事件に、著者がなにかしら関わりのあった人だというのは、本当のような感じがした。

『ミネハハ』フランク・ヴェデキント著

『ミネハハ』フランク・ヴェデキント著を読了。モデルの市川実和子さんが翻訳したとのことで、どんな感じに仕上がっているのか楽しみに読んだのだが、あまりピンとこなかった。

文章には、書き手のセンスがあると思う。そのセンスが自分に合うか合わないか、それによって、感動があったりなかったりする。

この訳された本の文章は、私の心に響かなかった。笑う水、という意味だそうだが、タイトルのインパクトは強烈。

映画『エコール』の原作本だ。この原作に触発されてあの映像を作り上げたのはすごいなあ、と思った。

正直、あまり男性に見て欲しくはない映画だ。

映画の中の色使い、光の加減など、とても印象的だった。あの本を読んで映画を撮ってくださいと言われても、ああいう作品に仕上げることができる人がどれだけいるだろう。

『エコール』は、まるで夢の中の映像のようだと思う。謎だらけだし。答えはみつかるようでいて、最後まであやふやなまま。隔離された森の中。空気は澄んでいて、湿った土の匂いが漂ってきそうで、自分もその中にいるような気持ちになる。

最上級生が、たった一人で出かけていくときの、白い背中が妙に印象に残っている。どこへ行くんだろう。そこになにがあるんだろう。いつか学年が上がって、自分もその秘密を知ることになるんだろうか。そんなドキドキ感。(映画の中ではすっかりイリスに感情移入していたので)。

本を読んだ影響なのか、妙な夢をみた。

私は深い森の中にいて、目の前に死体が2つ。現実なら、恐ろしくて逃げ出さずにはいられない状況なのだが、私は落ち着いてその2つの死体を見下ろしていた。といっても、布がかけられていて、顔はわからない。ただ、その布が森の湿気を吸い、次第にその下の人間の形をあらわにしていく。

2人のうち1人は、軍服を着ている。私はその人の死に際を思い出す。どんどん冷たくなっていくその人に、ずっと寄り添って見守っていたこと。泣こうがわめこうがどうしようもない、圧倒的な死の現実を、思い知らされたこと。

戻らなくては、と思い森を抜けようとするが、来るときには容易く渡れた川が増水していて、しかも雨が降り始める。浅瀬を探すが、どこにもない。川のすぐ向こうには、建物の明かりが見える。あんなに近くにあるのに、戻れないというあせり。私がここにいることを、あの建物の中の人たちは誰も知らない。だから、助けにくることもできない。

こうなったらこの雨の中。暗い森の中で、一晩を過ごすしかない。覚悟を決めたところで、夢から覚めた。

色も匂いも音も、私の夢はリアルだ。いったいなにを暗示した夢なのか。不条理さが夢の最大の特徴なのだとしたら、『エコール』という映画もまた、夢のような映画だったと思う。最後まで、謎は解けなかったから。

西脇順三郎 ~静けさの中で~

私が今までに衝撃を受けた詩は、三篇ある。

そのうちのひとつは、西脇順三郎の「太陽」。高校のときの教科書に載っていて、その言葉が紡ぎだす光景の美しさに心を打たれた。
もうひとつ、同じ作者のもので「雨」というのもあったけれど、それはちっとも心にひっかからなかった。「太陽」だけが、その詩の描き出す光景だけが、鮮やかに心に焼きついて離れなかった。

「太陽」というタイトルとは裏腹に、そこに描かれた世界には寂寞感が漂う。蒼い世界、というイメージ。その世界には、人の気配がない。

カルモヂインの田舎。大理石の産地。
昔見た、1999年の夏休みという映画を思い出した。

あの映画の中に出てくる学校の景色も、寂しく、そして美しかった。どこまでも広がる緑の中に、ひっそりと寮がある。ほとんどの学生が帰省した夏休みに、取り残された3人と、謎の転校生が1人。

登場人物のうち最年少の則夫が、つぶやくのだ。「来年は、みんな卒業してしまってここに残るのは僕ひとり」だったかな?そんなようなセリフ。
そのときに感じた、あせりのような気持ち。取り残される痛み。なにかに急き立てられるような、落ち着かない、叫びだしたいような気持ち。

自分が、小学生だったときの光景を思い出した。たとえば、三学期最後の日の空気もそうだ。みんなが帰ってしまった後の誰もいない教室。暖かい日差しが窓から差し込んでいて、春の空気が穏やかで。
みんなが進級のために、自分の荷物を持ち帰ってしまったから。
机と椅子だけが残っているんだよね。がらんとして、静まり返った教室の窓辺に立つと、外から部活動の声がして。

この教室で、同じメンバーが再び顔を合わせ、一緒に勉強をすることはもう2度とないんだなあ、とぼんやり思ったりして。そのときの、胸にチクっとなにかが刺さる気持ち。
人生は、「これが最後」「2度とない」ことの連続で満ちている。

高校の卒業式のとき。ある先生がこんなことを言った。
卒業を最後に、二度と会わない人がほとんどなんだからね。それを自覚して、ちゃんと別れを惜しんでおきなさいよ。この日が、永遠のお別れになる人の方が多いんだから。

その言葉が妙に心に残った。
本当にその通りなんだなあって思う。ほとんどの人とは、もう二度と会うことがないのだ。人生で、すれ違うことはもうないのだ。
数年前、母校の卒業生名簿の一覧の、かなり厚~いものをもらって、それをパラパラとめくったとき。
私の母校は、かなり古い学校だ。創立後まもない頃の卒業生は、もう年齢からいって、亡くなっている人が多いはず。その人たちの住所の中に、「不明」の文字を見て、どんな人生を送ったのだろうと思いを馳せた。

なんともいえない気持ちになった。当時女学校に行けたというのは、かなりのお嬢様だったと思う。
そこには、たくさんの友との思い出があり。そして、卒業とともに皆バラバラの人生を送って、そのまま住所が不明になった人もいて。
だけどもしタイムマシンがあって、その時代に戻れたなら。みんな同じように、笑っているんだろうなあ。矢絣の袴にブーツ?
ごきげんよう。そう挨拶して、みな違う方角に歩き始め、家族を作って、子供が生まれ孫ができ、そしていつか、時代は流れて。

「太陽」の描く世界は、別世界だ。そこでは時間がとまっているような感じがする。喧騒に疲れた身には、憧れの世界。
もしかして、ずっとそこにいれば人恋しくなるのかもしれないけど。
なんとなく、行ってみたい気持ちになってしまうのだ。

誰の声もしない、静まり返った世界。ただ太陽が輝き、息をのむような自然に囲まれた世界。

昔、NHKみんなの歌で、「みずうみ」というのが放送されていた時期があった。あの歌のイメージも、この詩のイメージに近い。特別な夏。静かな夏。思い出すと胸がちくちく痛いような。
見上げると、空が青いんだよね。抜けるような空の色と、プールの後のけだるさ、みたいなもの。

私が感銘を受けた残り2つの詩については、また気が向いたときに書きます。今日はなんとなく、「太陽」について書いてみたくなったので。私は今でもこの詩をときどき口ずさむのだけれど、名作だなあとつくづく思う。

『Out on a Limb』 Shirley Maclaine 著

英語の勉強になるから・・・ということで、シャーリー・マクレーンの本を読んでみました。精神世界の分野では、有名な本らしいです。

ネタバレも含みますので、未見の方はご注意ください。

結局最後まで、感動することはありませんでした。アメリカのショービズの世界で成功を収めた女優さんの、自分探し。シャーリーは決して悪い人ではないと思うけど、どこまでも「お嬢さん」という感じ。お嬢様の自分探し。

そもそも彼女が精神世界に傾倒していくきっかけは、とある政治家との不倫にあるわけですが、その描写も不愉快なものでした。

私たちの愛こそ本物。この世の「不倫」という形に苦しめられる私たちって悲劇よね。みたいな感じで、おいおい・・・と呆れてしまいました。有名な女優さんが出版する本です。当然、多くの人の目に触れるでしょう。彼の家族、奥さんや子供がこの本を見たとき、どんな気持ちになるか考えないのですよね。あくまで自分中心の目線でしかない。私がこの不倫相手Garyの妻、もしくは子供であったなら、怒ると思います。

自分がやられて嫌なことは、相手にもしてはいけない。それは大原則だと思うのですが、シャーリーには相手の気持ちを推し量る部分が、すっぽり抜けているようです。それなりに恵まれた家庭で、愛情に包まれて育ったシャーリー。もしも自分の父親が有名人と不倫して、家庭はそのせいで滅茶苦茶になり、後に父親の不倫相手が「私たちの愛は本物。彼の家庭は偽者」なんてことを出版したとしたら、どんな気持ちがしたでしょう?

まあ、いろんな夫婦がいるし、もしかしたらGaryの奥さんは悪妻で、Garyは本当に苦しんでいたのかもしれない。だけど、子供たちは? 少なくとも、子供たちのことを考えれば、ああいう「私たちの愛こそが本物」的記述は避けるべきだったと思います。

そしてシャーリーは、さまざまな不思議体験をし、またオカルトな世界に足を踏み入れていくことで自分の人生を見つめ直すわけですが、後半、あっさりGaryと別れたのにはびっくりしました。結局そうなのね?という感じ。

あまりにもあっさりだったし、そこに教訓めいたものや、反省も見当たらないし。よくある不倫の結末、という印象を受けました。激しく燃え上がるような感情なんて、そう何年も続くものじゃありません。

シャーリーはチャネリングに関しても、「当たった」とびっくりして信じ込んでいるようですが、私は胡散臭さを感じました。占い師が、相手のことを調べておくのはよくある話だし、そういう警戒心がシャーリーにはなさすぎる。

中国という国についても、絶賛してましたね。共産主義って素晴らしい、理想の国、と思っていたようです。これは周囲の人間に「表面しかみていない」とたしなめられた部分もあったようですが、このエピソードだけでも、シャーリーがどんな人物かわかるような気がします。

挫折を知らずにきたお嬢さんの、悪意のない傲慢さが伝わってきました。私はこういうお嬢さんって苦手です。ちょっと嫉妬も入ってます(^^; その純粋さが羨ましくもあるというか。

だけど仕方ない面もあるのかな。失ってみて、初めてわかることもあると思うのですよ。シャーリーはたまたま順調にやってきた。だから、他から見て傲慢に見えるのかもしれない。自分が持っているものの価値に気付いていないから。失わなければ気付かない。痛みは自分が経験しなければ、思いもよらない。

自分自身を振り返ってみると、やっぱり痛い目をみて初めて謙虚になった部分はあるなあと思います。なにもかもが順調なときは、それで当たり前みたいな気がしていた。周囲に対する気遣いも、なかったかも。そもそも、痛みという概念に気付くことがなかった。

悩んだり苦しんだりすることで、初めて人を思いやる気持ちが生まれたり、痛みに共感することができるのかなあと思ったのでした。

『ちょっと話してみました』船井幸雄・浅見帆帆子著

浅見帆帆子さんの対談集ということで、読んでみました。お話のお相手は船井幸雄さん。大手コンサルティング会社のオーナーです。

船井さんは70才。世の中のしくみについてずっと勉強してきたとのことですが、浅見さんとほぼ同じ意見をお持ちでした。

それにしても、浅見さんはなぜそれだけの知識を持ちえたんだろう? 船井さんも驚いていましたが、特に苦労してきたわけでもないのに、二十代の若さで「ただなんとなく」人生のカギとなる法則を発見してしまうなんて。

素直、勉強好き、プラス発想。この3つが人生を成功させる源だそうです。なるほどーと、あらためて思います。以前に読んだ浅見さんの本でも、このうち2つは強調してましたね。素直というのと、プラス発想の部分です。

私がこの3つを知って、「そうかー。そうかもなー」と思ったのは、そのうちの1つが自分には徹底的に欠けていたから。ずばり、プラス発想です。これはもう、本当に真逆のことを今までずっとやってましたね。極端に心配症で、いつも最悪の事態ばかり予想してた。この、心配症という点では、誰にも負けない自信があります。今年に入って浅見さんの本を読んで、「プラス思考」を実践するようになってはきたのですが、それでもちょっとした瞬間に、ふっと絶望的な気分になることもあるし、どうせ・・・という暗い予想をしてしまうこともある。

恐らく、私からツキを遠ざけていたものは、このマイナスの思考だったと思います。自分でもずっと不思議だったのです。なぜ不運にばかりみまわれるのか、ということ。偶然とは思えないようなことが立て続けにおこって、納得いかなかったことがあります。人からも、「どうしてあなたばかり・・・」と同情されたこともあるくらいなので、それは傍からみても、かなり運が悪い状態だったんだと思います。考えても考えても、罰が当たるようなことをした記憶はないし、なるべく一日一善と思いよいことを心がけても、運には見放され続けた。

一方で、不正を重ねたり人を苛める人が順調に人生を生きていくのを目の当たりにして、「絶対おかしい。でもどうして?」と葛藤することが多かったです。

何事も、最悪の結果ばかりを鮮やかに思い描いてました。怖かったのです。どうせうまくいくはずがないという思いがあったし、そうなったときに傷つきたくはなかった。だから、いつも「こうなったらどうしよう。そのためには・・・」とか「最悪の場合、こうすることにしよう」とか、そういうことにばっかり気をとられてました。備えあれば憂いなし。地盤を100パーセント固めなくては動けなくなってました。石橋を叩いて渡るどころか、重機で壊して架け直す勢いです。

ネガティブ思考が癖になっているので、それを改善することはなかなか難しいのですが、少なくとも愚痴は言わなくなりました。こういうブログでは愚痴ってますが、日常生活で愚痴を言うことがほとんどなくなった。そしたら少しずつ、流れは変わってきたような気がしますね。気のせいかもしれないけど。今年、浅見さんの本を読んでからは、今までと運命の流れが違うような感じ。

自分の中で叶えたい願い事がいくつかあって、それが7月中に叶えばなあと思ってます。そのためにも、夢を具体的にイメージしなければ。夢を具体的に描くのは、寝ながらやってます。

一つ、なんの苦労もなく鮮やかに浮かぶ映像があるんですよ。それは、自分がマンションの一室のソファに座り、レースのカーテン越しに風が入ってくるのを見ている映像。窓からは、外の景色が一望できます。たぶん、夜になれば星空がきれいに見えるだろうなあというような見晴らしのよさ。とても気分がいいのです。

その映像は、不思議なくらい具体的で、これを描くのにはなんの苦労もいりません。私は近いうちに、そういう部屋に移るのかな。

今の部屋は、騒音がないという点では完璧で気に入っているし、引越しの予定もないのですが。なぜかこの映像が最近浮かんできて仕方ない。気になってます。