『通りすがりのレイディ』新井素子 著 感想

『星へ行く船』シリーズ 新井素子 著 を読みました。以下、感想を書いていますが、ネタばれ含んでおりますので未読の方はご注意ください。

番外編である『星から来た船』を読んだら、本編を読み返したくなり、久しぶりに星~の世界を訪れました。

懐かしいなあ。これ、私が中学生のときに夢中になって読んだ本なのですが。久しぶりに読んだら、当時とは全然違う感想を持ちました。

まず。主人公のあゆみちゃんに対して。

中学生だった私は、あゆみちゃんが大好きでしたし、すっかりあゆみちゃんの気分になって物語を楽しんだものでしたが。今改めて読みなおすと。

う~む。あゆみちゃんには共感できないな。今の私があゆみちゃんに出会ったら、多分、あんまり好きにはなってないし、近付かないだろうなあと。

このシリーズは5冊で完結してます。中でも、私は『通りすがりのレイディ』が一番好きです。タイトルが秀逸。
通りすがりのレイディ。う~む、簡潔にして的確、そして、深遠な言葉の羅列。

この『通りすがりのレイディ』は、ドラマや映画になったら凄く面白い作品だろうなあって思います。今ならCGもあるし、火星における近未来の生活を、嘘っぽくなく作れるのではないでしょうか。

キャスティングは。

あゆみちゃんが、京野ことみさんかな。
そして所長は、陣内孝則さん。
レイディは鈴木京香さんで、太一郎さんは…どうだろう。思い浮かばないや。皮肉屋で自信家で、でも実力あって、う~ん。誰だろうなあ、芸能人で言うと。

『通りすがりのレイディ』(以後、『通り~』と略します)は、中学時代に読んだ時と今とでは、感想が違ってくる作品です。

今になって、「それはないだろう~」とツッコミを入れたくなる部分がいくつかあるので、書いてみたいと思います。

まず。レイディは木谷氏と結婚したとしても、太一郎さんの弔い合戦が終わるまで、子供を産むような人じゃないと・・・思う。これは本当に、そう思う。

太一郎さんでさえ、やられてしまったほどの巨大な組織、陰謀ですよ。それを相手に、たった一人で(結婚して木谷氏と二人で、かもしれないけど)戦おうとしている聡明な彼女が、子供を産むはずは、ない。

まあ、木谷氏は分別ある大人の男性なので。本人がどうしても、とそれを望むなら。レイディさえ木谷氏を信用すれば、二人が結婚して、共に闘うっていうのは、ありだと思うんですよ。木谷氏を危険にさらすこと、これはまあレイディの中では許容範囲かも。
でも、その最中で子供を産むなんて無責任なこと、レイディに限って、ありえない。

そして、子供を「太一郎」と名付けるにあたっては、本当に、狂気の沙汰としか思えません。レイディは、そこまで愚かで失礼な人ではないだろうと。
なんといっても、太一郎さんが初めて(と思う)惚れた相手ですからね。

生まれた子供に、前彼の名前をつける…こんなひどい話って、あるんでしょうか。相手の人にも失礼だし、子供に対しても、こんな馬鹿にした話って、ないと思うんです。

名前って、とても大事なものだから。親が子供に贈る、最大のプレゼントじゃありませんか。それを、いくらなんだって、前カレの名前をつけるって、感傷は自分一人の胸の中にそっとしまっておきなさいっていう話です。それは、現夫や子供を、愚弄するようなセンチメンタリズムでしかない、と思います。

あとね、事件解決の後に、病室でレイディと再会したときの太一郎さんなんですが。

「夕飯が腐っちゃったでしょ!」とひっぱたかれて、逆に、「こっちにはこっちの事情があったんだ!」とレイディをひっぱたき返すシーン。
ありえないなあ、と思いました。

太一郎さん。女性に手をあげる人じゃないと思う。基本的に。
それプラス。夕飯が腐っちゃったっていうレイディの言葉にこめられた万感の思い、悟らない人ではないと思う。

聞いた瞬間。誰より深く、レイディの悲嘆と苦しさを、理解したんではないだろうか。レイディは、太一郎さんのことを、片時も忘れてはいなかったのだから。思い出にするよりも、その傷口をいつまでも疼かせることで、自分を支えてきたのだ、レイディは。
それがわからない太一郎さんでは、ない。彼が、レイディを叩けるはずが、ない。

それに、この場面。
もし太一郎さんなら。あゆみちゃんのいないところで、ちゃんとレイディと対峙したと思う。二人きりの場を作ること、太一郎さんなら簡単にできるし。
久しぶりの再会を、あゆみちゃん抜きにすることは、レイディに対する礼儀だったと思う。それをやらなかった太一郎さんは…魅力が半減してしまう。

私が『通り~』で一番心に残ったのは、レイディが語る、太一郎さんの昔からの癖。
自宅で人を待つ時、カーテンを左側に半分寄せる、その癖。

中学生の頃は、「あ~そうか。昔はレイディを待っていたけど、今はあゆみちゃんが恋人で、だからあの日はあゆみちゃんを待ってたんだな。あゆみちゃんが訪ねてくる予定の日だったもんな」なんて、単純にそう捉えていたんですけど。

今読むと。私には、太一郎さんが待ち続けていたのはレイディではないかと、そう思えてなりません。

再び火星に帰って来た日から。レイディが去ってしまったと知った日から。太一郎さんはずっと。レイディを待ち続けていたんではないだろうかと。二人で暮らした懐かしい場所に留まり続けたのは、そのためで。引越すことだってできたのに。
いつかレイディが戻った日に。すぐわかるように。
使っていた調理器具も処分しなかった。それは、彼女を待っていたからではないかと。

そして私は思うのです。本編最終巻で明かされる驚愕の事実。あゆみちゃんの持つ、「感情同調能力」のこと。
この小説はコバルト、という少女向けに書かれたものであり、ハッピーエンド前提であったのは暗黙の了解で。本作を最初に読んだ当時、まさに少女だった私は素直に、「感情同調能力にも負けない愛が、太一郎×あゆみカップルにはあったのね。素敵!」なんて、無邪気に感動したものですが。

今はこう思えてなりません。
太一郎さん、思いっきりあゆみちゃんの感情同調能力に捕われちゃったんじゃないのか、と。それはつまり、あゆみちゃんが人生始まって以来の強い想いを、太一郎さんに対して抱いたから。初めて人を本気で好きになり、まっすぐに太一郎さんのことを思ったから、彼はその強烈な力に抗えなかったんじゃないかと。
もちろん、あゆみちゃんの持つ能力の特殊性ゆえに、彼がそれを「自分の意志である」と勘違いしてしまったのは、無理もありません。それに、どこかでそれを疑ったとしても、証明する術などどこにもなくて。

四六時中。日を追うごとに強くなる思い。あゆみちゃんから発せられるその思い。
あゆみちゃんが強力な感情同調能力の持ち主であったなら。その思考波の中で、どれだけ太一郎さんは自由でいられたのか、疑問です。

上記のようなことを考えつつ、P28の場面を読むと、感慨深いです。

昔、太一郎さんの部屋で彼と共に過ごしていた幻の恋人の存在を、知りたくて、でも聞きたくなくて、苦悩するあゆみちゃんを前に。
たまんない表情。完全に優しい表情になって、語りかける太一郎さん。

>「あのね」

言いかけた言葉は、あゆみちゃんが電子レンジのチャイムを口実に逃げ出して、最後まで続くことはなかったのですが。

あれって、本来の太一郎さんの最後の抵抗だったのかも、なんて。
あのときだけは、感情同調能力の呪縛、少しだけ解けていたのかも。だから、あゆみちゃんには理解できない、優しい表情になったんだろう。レイディと過ごした記憶が、大きな力になって太一郎さんを動かした。
あゆみちゃんの能力はそのとき、少しだけ、負けたのかも。

そう思うと、P105の描写にも、最初に読んだときとは違う感覚を覚えるのです。

>「今は、あの人、あなたを待っているの?」

レイディには、他意はなかったでしょう。きっとレイディは知っていた。太一郎さんが、自分を待っていたこと。彼がそういう人であること、誰より深く、理解していた。だから、聞いた。

勝てないよ、あゆみちゃん。
でも勝っちゃう。
だって、感情同調能力者だから。無敵だもんね。

『通りすがりのレイディ』は、シリーズの中でも一番の傑作だと思います。

『星から来た船』 新井素子 著 感想

『星から来た船』新井素子 著 を読みました。以下、感想を書いていますが、ネタばれ含んでおりますので未読の方はご注意ください。

『星へ行く船』シリーズの番外編です。本編の主人公は出てこないですが、太一郎さんと真樹子さんの出会いが描かれています。

読み終えて、まず、思ったこと。

太一郎さん、本当に真樹子さんのこと好きだったんだなあ。そして、真樹子さんも。

星へ行く船シリーズが好きだった人には、ぜひお勧めしたい番外編であります。太一郎さんの昔の恋人、レイディこと真樹子さん。そして、宇宙船の爆発事故前、まだ若くてきらきらしてて、恐らく、それなりにいい人達、善意だけに囲まれていた時代の太一郎さんに出会えます。

真樹子さんと太一郎さん。宇宙船の事故によって引き離された二人ですけれども。もしあの事故がなかったら。

さしものあゆみちゃん(本編主人公)も、二人の仲に入ることできなかっただろうなあって、そう思いました。

宇宙船の事故を境に、たぶん太一郎さんの物の考え方って激変したのではないでしょうか。真樹子さんが心配して待っていることを知りながら、すぐに帰れなかった。それには、それだけの深い事情があったわけで。

なんだか、この『星から来た船』時代の太一郎さんからは、純朴さを感じます。きっと、まだ、本当の「悪」を知らない、幸福だった時代。真樹子さんとの出会い。怖いものなんてなにもなくて。全てが、輝いていて。

本編を読んでいた頃は、あゆみちゃんと太一郎さんのカップルを応援し、なんとなく真樹子さんを、「二人の恋路に影さす人」的に思っていたのですが。『星から来た船』を読んでしまうと、逆に、真樹子さんと太一郎さんの絆の強さを感じてしまいました。

あゆみちゃんはあゆみちゃんで愛されてるけど、思いの深さは。むしろ、真樹子さんの方が深いんだろうなあ、とか。

太一郎さんが、心のすべてを見せるのは、たぶん真樹子さんの方だろうなあ、とか、思ってしまいました。あゆみちゃんに対しては、どうしても、庇護者としての意識が勝ってしまいそう。

本当に運命のカップルだったのは、レイディと太一郎さんだったのね、と、読後、ほろ苦い気持ちになるお話でした。

『Ghost Stories』Retold by Rosemary Border 感想

『Ghost Stories』Retold by Rosemary Borderを読みました。以下、感想を書いていますが、ネタばれしていますので未読の方はご注意ください。

これも、本屋さんの洋書コーナーで気に入って買ってきた本。タイトルと装丁に惹かれて。

中身も大事だけど、やっぱり装丁も大事ですね。この装丁じゃなかったら、買ってなかったと思います。

雲間に覗く月。不穏な光。灯りのついた屋根裏。古い洋館。

そしてタイトルは、『Ghost Stories』

ほぼ一目惚れでした。洋館大好きだ~。ディズニーランドのホーンテッドマンションが好き。今はなき二子玉川のサントリーモルツクラブも好き。蔦が這えば、なおワクワクする。

中身はと言いますと、複数の作家が書いた短編小説を、簡単な英語で書き直したものになってます。英語学習者向けに、ステージ分けされたシリーズの一冊。これはステージ5となってます。

確かに、学習者向けに書き直されているだけあって読みやすいのですが、それだけにちょっと味気なさを感じてしまった。整理されてわかりやすくまとまってるんだけど、味がないのです。

日本語にしろ英語にしろ、文章には人それぞれの癖があって、読んでるとそれが伝わってくるんだけどこの本は。
いかにも教科書的というか。
学習用なんだから、目的通りだろうと言えばその通りなんですが。お行儀よすぎて、透明な水みたいで。物足りないと思ってしまいました。

書き直した方は同じなので、すべて同じテイストで仕上がってます。

あと、面白かったのは、本編じゃなくて、その後。

英語学習用の本ということで内容の理解度を確認するためなのか、けっこうな分量のページを割いて、簡単なテストみたいなものが載っているのです。でも、解答がない(^^;

えぇ~、まさかの解答なし?と思いました。
一度本編に軽く目を通した後でやってみたところ、けっこう難しくて、やっぱり解答は欲しかったです。穴埋め問題もあるのですが、わからないところが結構ありました。

それと、その問題編の最後にですね。
それぞれの短編に出てくる登場人物の、気持ちを想像した文章が6つ載ってまして。
どの文が、誰を指すのか、またそのときに何が起こってましたか、なんて聞いてるんですけど。

英語の範疇を超えて、国語の問題になっちゃってるような気がしました。
懐かしの、現代文、模試、みたいな。

果たしてこれ書いた著者でさえ、そんなこと思ってんのかな、という。
誰が何を考えていたのか、明文化されてなかったら、想像するしかないわけで。それに答えなんかあるのかいなっていう。

消去法で行けば、たしかに答えは書ける、と思う。
そもそも、選択肢の数は限定されてるから。その中で一番当てはまるっていうのを考えていけばいいんだもの。

だけど、ちょっと深読みすると、なにか違うような気がして。
書かれた問題文は、もちろん一般的なことが書いてあるんだけど。いったんあまのじゃくに考え出すと、本当はあの人そんなふうに思ってたんじゃないかもよ、もしかしたらこうかもよ、なんて反発したくなったり。

本編には、6つのお話が載っていますが、全体的にあんまり恐くなくて拍子抜けしました。

特に、『Fullcircle』by John Buchan に関しては、恐いどころかほのぼのしてしまった。誰も不幸になってないし、むしろ、幸せになってるんじゃないかと。
家が人を変える。あると思いますよ~。
毎日いる場所だもの、影響を受けないはずないって思う。家には、人の気持ちも宿るんじゃないですかね。

昔、言われたなあ。
繰り返すんだそうです。居住者が変わるとき。退去の理由って、たいてい前に住んでた人と同じだとか。

だから、なるべく幸せになって出てった人の後に住むといいそうです。

本編の中で、恐さに順番をつけるとしたら、1位は『The Stranger in the Mist』by A.N.L. Munby でした。

幽霊のおじいちゃんが山をさまよっていて、迷子になった人をみつけては地図を渡すのですが、その地図は古すぎて、その地図通りに行くと、崖下に真っ逆さまというお話。
主人公はすんでのところで助かりますが、実は以前に、同じような状況で崖から落ちて死んだ人がいて・・・という。

悪意のなさが逆に、恐ろしかったです。助けようと思ってるのに、その行為こそが人を死に至らしめるという。
しかも、永遠に同じこと繰り返すわけですから。誰かとめて~と思っちゃいました。このままほっといたら、同じことが起きてしまう。

それができるのは、九死に一生を得た主人公しかないわけですが、本人にその気はなさそうです。いいのか? それで。

Bram Stokerの『The Judge’s House』に関しては、6つのお話の中で一番悲惨なラストなんですが、あまり恐いと感じなかったのは理由があって。私がもし主人公だったら、絶対もっと、抵抗してたなあと思うから。やすやすと、幽霊の思い通りになんてさせない。物っ凄い憤慨して、全力で立ち向かってたと思う。

私、幽霊とかみたことないですが。
そういうのをあんまり怖いと思わないのは。もし私が逆恨みで幽霊から被害を受けそうになったら怒るし、なんだか勝てそうな気がするっていう根拠のない自信です。

幽霊より、生身の人間の方が怖いなあ。

もし対決するなら、生きてる凶悪犯を相手にするよりは、絶対、幽霊の方が勝てそう(^^; まあ、そういう存在がもしあると仮定したら、ですけど。

この本を読んで痛感したのは、文章って味なんだなあと。

好き嫌いは分かれると思いますが、文章には書き手の気持ちが、にじみでてくるんですよね。そして、こうした学習用に書き直された本のお行儀のよさは、面白くない。

好きも嫌いもなく、つまらない。退屈に感じてしまう。

同じストーリーで同じ結末でも、原作で読んだらもう少し違う感想をもったかもしれません。

もう、この先こうした、学習用に書き直された本を買うことは、ないと思います。それよりは、たとえ難しくても、原作を読んでみたいです。

『The MAGIC』Rhonda Byrne 著 感想

『The MAGIC』Rhonda Byrne 著を読みました。以下、感想を書いていますが、ネタばれも含んでおりますのでご注意ください。

この本を買ったのはまったくの偶然で、たまたま本屋さんの洋書コーナーを物色していたら、なんともシンプルなタイトルに心惹かれまして。

だって、Magicと言えば、魔法ですから。私は、そういうちょっとオカルトなもの好きなんですよね。夢がある。科学で解明できないような、不思議な世界。

それで、棚から抜きだしてみたところ、装丁がかなり素敵だったのです。表紙の上部に封蝋があるんですが、これ、印刷じゃなくて三次元加工。少しデコボコした感じが重々しく、ミステリアスな雰囲気を醸し出してます。

表紙に描かれたのは、光と、古そうな一冊の本を持つ謎の手。その人物の顔と姿は、光に包まれてぼやけています。どんなことが書かれた本なのか期待が高まり、その表紙に惚れて、レジへ直行です。

それで、読み始めてすぐにわかったんですが、これはロンダ・バーンの最新作でした。まだ日本語訳も出てない状態です。
ワクワクしながら読み進めました。

著者は、日本でも話題になった「ザ・シークレット」の人。

私は「ザ・シークレット」の映画や本を見たことはないんですが、これらの元になった「引き寄せの法則」については、知っています。それらに関連した本も、何冊か読んでます。

引き寄せの法則は、確かに、納得の法則なんですよ。
思うことが実現していくっていう。いいとか悪いとか関係なく。とにかく、自分がフォーカスしたものが、実現されていく、というのは、実感として経験があります。

それを一番感じたエピソード。
ある一時期。ひとつの台詞が、ぐるぐる頭の中にあって、なかなか離れない時期がありました。

誰に言われたわけでもないし、これから誰かに言われるわけでもないのに、なぜか、その言葉が頭の中でぐるぐるするんですよね。なにかの拍子に、ふっと、何度もリピートしてしまう。それが、3ヶ月くらいしたときに、ある人からさらっと、その通りの台詞を言われたのです。

驚愕でした。嘘~~??って思いました。

ただ、頭の中にあっただけの台詞だったのに、それが現実となって、面と向かって言われたのです。

ちょっと特殊な言葉だったので、偶然というにはあまりにも、でして。
どうして思っただけの言葉が、そのまま現実になったのかなあって。だから、引き寄せの法則は、たしかにあるような気がします。

なにが実現して、なにが実現しないのか。どんな条件が揃えば、現実化するのか。細かいことはあるにしても、原則として、人が考えたことが、そのまま現実になる、というのは、本当にあることじゃないかという気がします。

それに、引き寄せの法則を信じるなら、なるべくいいことを考えようという気分になりますから。真偽はどうあれ、精神衛生上、とてもいいことだと思うんです。
いつまでもくよくよ、悲しいことを考えたりするより。
できるだけ、楽しいこと、ワクワクすることを考えた方が、自分の気持ちも楽になれる。

『The MAGIC』は、28日間のレッスンで魔法を実現しちゃいましょうっていう自己啓発の本ですが、必ずしも28日間連続、マニュアル通りにやらなくてもいいとのことです。自分に必要な個所だけをとりあげて、3日やり続けたり、などのやり方もOKだとのこと。

こういう自由があるのは助かります。
いくらいいなあと思う本でも、すべて、100パーセント実行しようと思うと、息苦しくなってしまうから。

というわけで、私は1日1ステップ読み進めるのではなく、毎日好きなだけ読み進めて、興味の持てるところだけ実行する、という方法をとりました。

この本の中で、これは素敵なテクニックだなあと思ったところが2つあります。

それは、DAY10で語られた、MAGIC DUST EVERYONE。 この、魔法の粉イメージングは、かなり気に入りました。もう、夢が叶うとか抜きにしても、この魔法の粉イメージを心に持つと、気分がいいのです。ビジュアル化が非常にしやすい。

やってるうちに楽しくなってきて、いろんな人に対してこのイメージングをしました。

子供のころにやっていた、お絵かきみたいな感じでした。好きな色のクレヨンを使って、好きなだけ好きなものを書く、という。
楽しいので、とまらなくなります。

それで、この本の挿絵に影響されたのもあるかもしれませんが、心に想像する魔法の粉の情景が、あんまり綺麗なんで、癒されるのです。自分で想像しといて、自分で癒されるっていうのも変ですが。

想像の世界で、降り注ぐ金の粉をうっとり、眺めてました。まさに、おとぎ話の世界ですね。

まあこのへんは、引き寄せ云々関係なく、ただ単に、自分がいい気持ちになりました(^^)

あと DAY7で語られた、どんな負のシチュエーションの中にも、感謝すべき点は、必ずある、という考え方には、目からうろこが落ちたような気持ちになりました。

確かにそうなんです。
無理やりだろうがなんだろうが、感謝すべき点は、必ずあるんですよ。なにより、シチュエーションが負である、それを認識できるということは、その人が正のシチュエーションと、その温かさを知っているということなんですから。
比較がなければ、認識はないわけで。

落ちて初めて気付くこと。痛さの中で、日常のありがたさを再確認すること。そういうことって、ありますもん。

なるほど~。確かにその通りだ~と、夢中になって本を読みすすめました。

28日間のレッスンを、私はすべてやったわけではありません。自分が興味を持って、「あ、これならやってみたい」と思ったところだけ、実践してみました。その結果は、本を読み終えてすぐに現れました。

ずっと知りたかった人の消息を、知ることができたのです。
もう二度と、会うことはないだろうと思っていた人の。このタイミングは、偶然とは思えませんでした。
ずっと気にはかけていたけれど、行方を知るのには、もうひと押しなにかの要素が必要だったのかなあと思います。私にとっては、この本がそうだった。
自分の心のあり方について、深く考えさせられる良書です。

本もそうですが、人との出会いもまた、運命なのだなあと。
必要なときに、必要な人が現れ、そこから学びとるものがある。

私はその人の消息がわかるなんて、正直、99パーセントないと思ってました。でも、あっさり願いは叶った。

タイトル通り、魔法の本だと思いました(^^)

いえ、もしこの本がたとえ本物の魔法の本でなかったとしても、書いてあることは素敵な考え方ばかりです。誰でもすぐに実行できますし、心安らかに人生を暮らすための、アドバイス本でもあります。

おすすめの本です。洋書(英語)なので万人向けではありませんが、使われている英語はそんなに難しくないので、英語の勉強がてら読んでみるのもいいと思います。

『THE SNOW GOOSE』PAUL GALLICO 著 感想

『THE SNOW GOOSE』PAUL GALLICO 著を読みました。以下、感想を書いていますが、ネタばれしていますので未読の方はご注意ください。

(原書を読みました。そのため、日本語訳は私が勝手につけたので、間違っている可能性があります。もし変なところがあれば、すみません)

先日ブログで『七つの人形の恋物語』の話を書いてから、どうもポール・ギャリコが気になって仕方なかった。ということで、彼の代表作でもある『THE SNOW GOOSE』を読んでみました。

読後感・・・やっぱり、どんより・・・でした(^^;
何とも言えない重苦しさ。『七つの人形の恋物語』に似た、やりきれなさがあります。

ひっそりと人目を避けるように、寂れた灯台で暮らし始めた絵描きのラヤダー。決して人間嫌いではないのに、その外見は他の人にはなかなか受け入れられず。十分に傷付いて、ひとりきりの静かな生活を選んだ彼の元に、怪我したハクガン(白雁)を抱えて現れた少女、フリス。

人間が好きなのに、誰からも受け入れられなかったラヤダーが、初めて見出した希望の光。そりゃあ、期待しちゃうでしょう。すがっちゃうでしょう。だって、それしかないんだもの。
たった一人、たとえハクガンを通じてだけの交流であっても。フリスの存在はどんなにか、ラヤダーの慰めになったのだろうかと思います。

そして、彼は、期待してしまう。ああ、このへんの流れは、読んでいて胸が痛かったです。
無理もない。好きになっちゃうよね・・・。

でも、さよならの日は、予告もなくやってくるのです。

私は、この物語のクライマックスは、フリスがラヤダーの秘めた思いに初めて気付いた日、ではないかと思いました。

渡り鳥のハクガンが、渡り鳥でなくなった日。ラヤダーのいる灯台を、自分の住処と定めた日。

ラヤダーは、震える声で言うんですよ。「彼女はここにいる、もうどこにも行かない。迷子のお姫様はもう、迷わない。ここが彼女の家なんだ-それが、彼女の本当の気持ちだ」と。

“Free will” という単語を、私は「本当の気持ち」だと訳して読みましたが。Free という言葉からは、「誰かに強制されたわけでも、同情からでもない、素直な本音の部分で、どうか僕を愛してほしい」というせつない叫びが浮かびあがってきますね。

渡り鳥が灯台に滞在する期間だけ、ラヤダーの元を訪れていたフリス。ラヤダーのいう「彼女」が、鳥ではなく、実は「フリス」を指しているのは明らかです。

渡り鳥は、灯台を住処に定めた。ねえ、君はどうするの? ハクガンの居る場所が君のいる場所なら、もうどこへも行かないよね? ずっと一緒にいてくれるよね? と。

以下の文からは、緊張感が伝わってきます。

>The spell the bird had girt about her was broken, and Frith was suddenly conscious of the fact that she was frightened, and the things that frightened her were in Rhayader’s eyes – the longing and the loneliness and the deep, welling, unspoken things that lay in and behind them as he turned them upon her.

( 鳥のかけた魔法は解けた。フリスは不意に、気付いてしまう。自分は怯えているのだと・・・。それは、ラヤダーの瞳の中にある。憧れ、寂しさ、そして深く、湧き上がる、言葉にならない思い。その瞳の、奥にあるもの。フリスをみつめる、ラヤダーの瞳。)

最後の as he turned them の them は、Rhayader’s eyes を指すと考えていいのかなあ。ここはちょっと自信ないですが。

息詰まる瞬間をとらえた文章ですね。読んでいて、苦しくなってしまった。まるで自分が答えを迫られているようで。
自分がフリスだったら、たぶんこの緊張感には耐えられない。この段階でもう、何も言わずにすぐ、逃げだしているかもしれない(^^;

決断を迫るラヤダーに、フリスは逡巡し、二人の間には言葉にならない応酬があります。
言葉にならなくても、十分にわかりあえてしまう沈黙。だからこそ残酷で、ごまかしがきかない。

>I – I must go. Good-bye. I be glad the – the Princess will stay. You’ll not be so alone now.

(私・・・私行かなくちゃ。さよなら。鳥がどこにもいかなくて、よかったですね。もう、寂しくなんてないですね)

いやー、言っちゃいました。あっさりバッサリ、期待の余地なんて、寸分も残さずに、ぶったぎっちゃいましたよ、フリス。

鳥じゃないのにね。いや、鳥も好きだろうけどさ、本当に居てほしかったのはフリスだってこと、ラヤダーもフリスもわかりすぎるくらいわかってるのに。

まるで気付かない振りをして、フリスは別れを告げちゃうのです。もうこの瞬間、ラヤダーはがっくり膝をついてると思う、心の中で。見事に、見事に断られちゃったよって・・・。

そのまま駆けだすフリス。
そうだね。そのままそこに居れば、二人ともつらいだけだ。ラヤダーの反応や返事を待たなかったのは、せめてもの救いかもしれない。

そして三週間あまり後に、再び灯台を訪れたフリスが見たものは、捕われた兵士を助けるために、ボートで出発しようとするラヤダー。
激しい戦火の中へ飛び込むことは、すなわち死を意味するわけで。

そうなって初めて、「一緒に行くわ」とか言っちゃうフリス・・・。
嘘つき・・・って思ってしまったのは、私の心が汚れているせいなのか(^^;

フリスは、ラヤダーを愛していないと思いました。
年上の、仲のいいお友達としての気持ちはあっても。そこに、恋人としての愛情はない。
でも、ラヤダーが求めているものは、その、まさにない、幻のもの。

たぶんラヤダーも、三週間前のあの日までは、期待してた。もしかしたら、ほんのかけらほどの、可能性があるんじゃないかと。でもそれが完全にないとわかったとき、覚悟は決まったんじゃないでしょうか。

私にはラヤダーが、あの日から、死ぬ理由と死に場所を、探していたように思えました。

>For once – for once I can be a man and play my part

(唯一つ、たったひとつ、僕が人として役に立てることなんだ)

ラヤダーの悲しみ。もうこうするしか、なかったという静かな諦め。

「戻るまで、鳥の世話を頼むよ」とフリスには言ったけれど。戻れる可能性などないことを、ラヤダーは知っていたと思う。

「無事でいて」と、フリスに見送られて旅立てたことは、思いがけない幸せだったのかもしれない。もう二度と会うことはない、と考えていただろうから。

この小説の後半には、ラヤダーの死を告げるように戻ってきたハクガン(ラヤダーの分身でもあると思う)に、フリスが思わず心の中で、「愛してる」と叫んでしまうシーンもあるのですが。

私はこの言葉を、とても複雑な気持ちで噛み締めていました。

ひねくれた見方かもしれない。だけどフリスは、女性としての感傷で、そう言っているようにしか思えなかった。自覚はないかもしれないけど・・・フリスは自分でもそう思いこんでいるのかもしれないけど、でもそれって、ラヤダーの求めた「愛」じゃないような気がする。

異性としての愛を求めたラヤダーに対し、フリスは、人としての愛で、応えようとしているような。優しいけど、でも、それじゃないんだよなあ、きっと。ラヤダーの求めるものは。たぶん。

まあ、間違ってはいないかもしれないけど。愛してるって言葉には、いろんな意味があるわけで。

あのとき。渡り鳥のハクガンが、ラヤダーの元に住処を定めたとき。ハクガンを通して、精一杯の愛の告白をした彼の思いは、ついに届くことはなかったんだなあ、と、そう思ってしまいました。あのときのフリスの描写が示すものは、つまりそういうことだったのだと。

ラスト。灯台が破壊され、全てが海に還っていく寂寞感。その光景は、とても美しいと感じました。
ラヤダーの見えない手が、そっとフリスの背中を押しているようにも思えました。思い出に、いつまでも捕われる必要はないのだと。
生きているフリスには、生きている時間が流れていく。

不思議な余韻の残る、小説でした。